鎌倉歳時記 -6ページ目

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 ここに、武蔵の国の住人畠山庄司次郎重忠が鎌倉の筋違橋(筋替橋とも言われ現鎌倉市雪ノ下にあり、現在は跡碑のみで畠山重忠邸はこの南西にあった)に滞在していた。この事を聞き、取る物も取らずに急いで御前に参られた。君(頼朝)はそれを見て、

「重忠、珍しいの」と仰せられると、重忠は、

「そうでございます」と言って、深く畏(かしこ)まった。少し経って、重忠が申すには、

「伊東の孫共を、浜にてお斬りなされるのでしょうか。いまだ幼いので成人まで重忠にお預けいただけないでしょうか」と言うと、君(頼朝)はそれを聞き、

「承知の通り、伊東の振る舞い、一つ一つの内容を忘れるべきではない。彼らの子孫においては、いかに賤しき者となっても、助けようとは思わない。これらは正真正銘の孫であり、嫡孫であるぞ。頼朝が末の敵となる者だ。そうであるため、誅罰しても足らない者を。頼朝を恨んではならない」と仰せられると、重忠は、

「叶わないとのお言葉、重ねて申し上げる事は恐れ多い事ですが、成人の後に、いかなる措置を頂くとも、重忠が責任を負いましょう。その上、一生一度の大事と思い参りました。このために、常には訴訟を行いませんでした。この一件だけは、お許しいただきたく」と申すと、君(頼朝)が仰せになられた事は、

「彼らが先祖の不忠は、皆々知っている事だ。どうしてその程に言うのか。その事で叶わぬ代償により、武蔵国二十四郡を差し上げたのだ」と言われ、まことにかたじけなく思われた。重忠は承け賜わり、

「仰せの理由は、ごもっともと思いますが、国を賜り、彼らを誅せられては、世間の評判は、重忠が恥辱を受けた者になります。私が頂いた所領を差し出しても、彼らを助けてこそ、人々も納得もするでしょう」と申すと、君(頼朝)は返事もされなかった。重忠は座ったまま身を反らせて、

「おそれ多く申した事ではございますが、平治の乱に義朝様(頼朝の父)が討たれました。君(頼朝)は、その御子として平清盛に捕縛され、すでに御命が危険にさらされた時に、池禅尼殿の助命によって、助けられました。喜ばれた事を思い出されて、彼らの命を助けていただきたく」。

  

 君(頼朝)は顔色が変わり、事態が険悪に見えて、しばらく言葉を発せられなかった。重忠は、良くない状況となり、申し過ぎたと思い、ただ慎んでいた。しばらくして、君(頼朝)は、どの様に思ったか、扇をさっと開き、

「なるほど実にそうである。重忠の言う事は、平家の一門が頼朝に情けをかけて助けて、そして頼朝に攻め滅ぼされた。そのように、彼らを助けたならば、末代に頼朝を滅ぼされると思われる。それゆえ彼らを斬って、由比の浜に首を掲げよ」と、荒々しく申された。重忠が申した事であるが、言葉も惜しまず、背を伸び上がらせて、

「左様でございます。滅ぼした平家の悪行はどの様であったかと思われますか。仏法も恐れず、国の法令にも従わず、官職を抑えてその職を奪った事が子孫にも伝わっていますが、よこしまな御沙汰は天が許さずに自滅いたします。政治の道が道義に従って行われる事で、政治が正しければ、末代までも、どうして絶える事があるでしょうか。ただ神慮に背かず、よこしまな事を行なわず、位は四天の天下を統一して正法を持って世を治めた天輪聖王と等しいでしょう」と申すと、源頼朝は、

「忠を高く感じ、科(とが)を深く戒める事は、邪悪な事であろうか」と、

「それはそのような物ではございません。ただ御慈悲を持たれてこそ、でございます。御敵の末、不忠の至りを、釈明いたすのではありません。しかしながら、幼いのであるならば、成人までの間、お預けになさってください。身に余る光栄にも君の御恩を誇り、栄華に備わる事、世の人にも優れましょう。そうすれば、重忠の訴訟で、何事も叶うと人々が思いましょう。お許しされなくては、私は生きていても無益であります。御前にて首を斬っていただきたい。それが叶わないのなら、浅間菩薩も御覧になってください。重忠は自害いたします。者の数には入らない身ですが私が御前にて死んだと聞けば、自害とは申し上げることはございません。一門は馳せ集まり、嫌疑の嘆きを申し上げます。そうすれば、今日の訴訟人は必ず同意するでしょう。争乱においては諸国の煩いと思われます」。君(頼朝)はそれを聞いて、

「その様な事になっては、頼朝は騒ぎを起こすつもりはない。ただ天の照覧に身を任せるだけだ」と言って、御返事はなかった。

 

張子が事にて兄弟助かる事

 畠山重忠は畏(かしこ)まって、

「恐れ入る次第でございますが、昔、大国に大王がおられ、武勇の臣下を集めて、千人を愛し、玉の冠と、黄金の靴を与えて召し使われた。また、その臣下に張子と言う賢臣がおりました。大王がこれを呼び寄せて言うのには、

『陳が七つの珍しい物や多くの宝は、一つとして不足する事は無い。しかしながら隣国の市で、多くの財宝が売られている。汝は、この市に行き、我が蔵に納められる宝を買って来て欲しい』と言って、多くの金銭を与えた。張子は、これを受け取り、この市に行ってみると、一つとして大王の宝庫に無い物は無かった。そうではあるが、王宮に諸善を生み出す根本となる物は無いと、何か買い取ろうと思い、持っている金銭をこの国の貧民を集めて、ことごとく与えてしまった。手ぶらで帰ると、大王が問いかけて言いました。

『買い取った珍宝は如何に、見えん』と言う。その時、張子が答えました。

『王宮の宝蔵を見ましたが、金銀珠玉を始めとして、不足な事はございませんでした。しかしながら、善根が無かったために買い取りませんでした』と答えると、大王は歓喜して、

『その善根とは』と言う。張子は言うのには、

『あの国の貧者を集めて、持っているところの金銭を与えました』と答えました。

大王は不思議に思いましたが、賢人の行うことであるので、それ以上は問う事も無く過ごされました。その頃、国の兵が反乱を起こり、大王を攻めて国が傾き、合戦に負けてしまい、隣国に移りました。その時の千人の臣下は、愛された恩を捨てて、一度に逃げてしまった。王は独りになって、既に自害しようとした時、張子が暫く押さえて言うには、

『お待ち下さい。この国の市で買い置きした善根を、この度尋ねてみようと思います』と言って出て行きました。以前に、その金銭を得た貧民の中に、志房と言う武勇に優れた者がおり、深き心ざしを感じて、多くの兵に語ってこの王の為に城郭をこしらえ、しばらく引き籠りました。時が経って、運を開き、再度国に帰ることが出来と言います。これひとえに、張子が買い置いていた、善根の故と、国王は感じました。一人当千と言う、一人の強さが千人分に相当するほどの強さという事は、この時が始まるであります。その時に、逃げた千人の臣下は、再び現れて、

『お使いしたい』と申すと、大王は、

『また事が起きれば逃げ出すだろう。新しい臣下を召し使う』と言うと、張子は、それを諫めて言いました。

『初めに仕えた臣下は、心も知っております。ただ逃げ出した臣下も召し仕えて下さい。二度目の恩は忘れないでしょう』と申した大王は理を感じて召し使いました。時にまた、国に大事が起こり、王の都が傾いた時、帰って来た臣下は、再び忘恩を恥じて身を捨てて、命を惜しまず防ぎ戦い、勝つ事を千里の他に得て(実際に戦場に行く事無く本営での巧みな戦略で遠い船上での勝利をもたらすことをしり)、王位を永久に保ち続けることが出来た」と、重忠は申し伝えた。「彼らも、立派な武士の子で、御恩を忘れる事はありません。終には、武士としてお役に立つでしょう」、これを聞いた君(頼朝)は、

「それも、臣下が貴き者ではない。張子が賢者によってである」と。

 

畠山重忠は、

「そうであるなら、私を張子と思っていただき、彼ら二人を臣下とみなしてお助けいただければ、後の勝敗や成否の決する大事な時にお役に立つでしょう。『君子、君足る時は、臣は、礼を以って行い。臣下、臣足る時は、君憐れみを』施します」と言うと、頼朝はそれを聞き、問うた。

「彼らは、何の礼があるのか」と。重忠は承って、

「お助けいたせば、少しでもその礼はあるでしょう。君(頼朝)が、お許しされなければ、我々までもこの栄華に誇りを持つべきではございません。その様な事にならないように、理にかなわない訴訟であっても、一度や二度は、そのような不始末をお許しされるでしょう」と重忠が言うと、頼朝は、

「理を破る法はあるが、法を破る理は無い。罪科を問い、法を問い、どうして彼らが逃れる事が出来ようか」と、言い放った。重忠も事の次第を言い寄られたので、身も命も惜しまず、声が高らかになり申すには、

「国を亡ぼす天子・君子の意は、誰かの中傷を聞かないからこそ承ります。釈迦如来の前世の話で、善恵仙人と申された時、道を作られ、その時に釈迦が悟りを開き釈迦仏になると予言した燃燈仏は、道を通すに、道悪く、歩くのに煩われた。その時仙人は、泥の上に伏して、御髪を解かれ道に敷かれて、仏を通されました。また釈迦の前世である薩埵(さつた)王子は、飢えた虎に身を与えて、尸毘(しび)大王の時は、鳩の止まる横木に身を置かれました。これらは皆、末代の生命のあるすべての者を思われて、御慈悲を掛けられた故でございます。とりわけ諸国を治めることは道理にかなうことと、そうでない事を糺し、情けを旨として、憐れみを基本として行われるべき事で、これほどの方々が申される、彼らを助けなければと、人が信頼する事は少なく思うでしょう。重忠が一生での大事と思う時、どうか私をお助け下さい」と、実に思い切った様相で、仏法・世法(俗世間の法)・唐土(中国)・天竺(インド)の事まで引き合いに出され申されたので、君(頼朝)は御思案なされ、実にこの方は仏教の経典の五戒を保ち、外には仁義を基本とする賢人であったために、この重忠を失うならば、神の恵みに背き、天下も穏やかにならないと思われたので、

「そうであるならば、この者共を助けよう。ただし、重忠一人には預けない。今日の訴訟人共に、ことごとく許す」と仰せられた。御前に祗候する侍共は、思わずに心中厚く感じ入った。重忠は、

「なるほど重忠が身に変えて申した事が、私一人には御許しが無くとも、今日の訴訟人共にと仰せ下さった事が有難かった。そうであるから、天下の主になられた」と、重忠は感動して申した。  ―続く―