由比の浜へ引き出されし事
こうして梶原景季は、子供の前に来て、
「時間が来たようだ」と言うと、祐信は彼らを出で立たせて由比の浜へと向かった。昔から少しも変わらずある様に鎌倉中の騒がしさは、彼らが斬られるのを見ようとする人々であり、群集として集まった。景季の館は、浜の前まで遠からず、行くほどに、屠所に引かれる羊の歩みのようで、命も限りになっていた。すでに敷皮が敷かれ、二人の子供は座っていた。今朝までは景季も助けようとしたが、頼りとする心の力も尽き果て、彼らに向かって申すには、
「母上に思い置く事は無いか」と問う。
「ただ何事もご推察の上お計らいください。ただし、『最後は、お教えいただいたように、覚悟して、未練を抱くこともございません』とだけ、お申し下さい」と一万が言うと、景季は弟の筥王にも問うた。筥王は、
「同じでございます。もう一度母上にお目にかかって」と、最後まで言い切れずに涙で咽び、深く嘆くように見えた。一万はこれを見て、
「母の仰せられた事を忘れているのか。祖父の孫だと思いきるのだ。決して、母や乳母のことを思い出してはいけない。その様な事であれば、未練の心が出てくるぞ。『ただ一筋に思いきれ』と教えられたことだ。人が見ている」と諫めれば、この言葉に恥じて、顔を押し拭い、甲高く高笑いをして、涙を人に見せないようにした。貴き人や下賤の人も惜しまない人はいなかった。
曽我太郎も、この気配を見て、今は安心して敷皮の上に座って二人の子供に寄り添い、髪を撫で整い、心静かに手伝いをしながら、
「如何にお前たちよ、よくよく聞くのだ。今に始まった事ではないが、武士の家に生まれる者は、命よりも名を惜しむ者だ。『龍門原上(れんもんげんじょう)の地に骨は埋めども、名をば雲居に残せ(中国洛陽の西の竜門の地に肉体は葬られても書き残した遺文は大変立派なもので、その名声は後世に残るだろう。中国唐の詩人白居易の句)』と言う言葉は、聞いているだろう。最後は見苦しく見えないように、心乱さず、目を閉じて、掌を合わせて、『弥陀如来、我等を助けたまえ』と深く祈念せよ」と言った。一万はそれを聞き、
「どの様に祈っても、助かる命ではございません」と言うと、祐信は答えた。
「その助けではない。別の助けである。貴殿の父と一緒に迎え取られるべき請願の助けだ。頼み給え」と言うと、一万は、
「申すまでもない。故郷を出た時より、思い定めた事で、何を心に残すべきかは、父に会う事こそ頼み、その事こそ嬉しく思います」と言って、極楽浄土のある西にむかって二人は小さい手を合わせた。
「南無」と高らかに聞こえた時、堀弥太郎景光は太刀を抜いて、二人の後ろに近づき、兄をまず斬るのが順序であり、しかしながら、弟を見て驚愕するほど不便であり、弟を先に斬るのも逆であり、思わず悩みながら立っていたのを、祐信が、思いに堪えかねて、走り寄って取りつき、
「出来る事なら太刀を私に預けられよ。私が手に懸けて、二人の後生を弔います」と申せば、
「お計らいに任せましょう」と言って太刀を祐信に渡した。祐信は受け取った太刀で、まず一万を斬ろうと太刀を差し上げてみれば、丁度その時に朝日が輝いて、白く清らかな首の骨に、太刀影が映って見てみれば、左右なき斬るべき処が見えなくなった。祐信が、勇猛な武士であるが、太刀を捨てて懇願するには、
「中々思い切って曽我の地に留まっていた我等も、ここまで来ましたが、憂き目を見る事が口惜しく思います。そうであるならば、まず私を斬ってから後に、彼らを斬って頂きたい」と嘆くと、見物の貴賤の人々は、
「道理である。幼少より育てて、憐れんでみると、大変不便である」と同情しない者はいなかった。
人々、君へ参りて兄弟を請ひ申される事
ここで、梶原平三景時が、近くに寄って、祐信に申したのは、
「お嘆きを見ていると、推し量られて思います。暫く待ちたまえ。少し申してみよう」と言うと、弥太郎は大いに喜び、しばらくの間、時が過ぎていった。実に景時が思い切って申した事は、きっとうまく行くだろうと、人々も頼もしく思った。景時は御前に畏まり、君(源頼朝)はそれを御覧じて、
「梶原こそ、他ならず、訴えようとしている顔つきであるな」
「さようでございます。曽我太郎の養子の子供等、ただ今、浜において誅殺されようとしています。哀れと思い、私にお預けいただけないでしょうか。景時の申し出をお聞き入れて頂けると、皆も思っております」と申し上げれば、頼朝がそれを聞き、
「今朝より、源太(景季)も申したけれど預ける事は無かった。汝、頼朝を恨むな」
と仰せられると、景時は力及ばずと御前を罷り立った。次に、和田左衛門尉義盛が御前に畏まり、
「景時が親子、申して叶わなかった所ですが、義盛も重ねて申し上げる事、一方では怖れ多い事ですが、人を助ける倣い、それだけのことです」。
「和田義盛も、御大事に罷り立つ事、度々ではございますが、取り分けては、衣笠城での祖父が御命に変わり仕えて、御世にうち出るのに貢献しました。その忠節に免じて曽我の子供を預け置き頂ければ生前の御恩と存じます」と申すと、頼朝はそれを聞いて、
「この者共を斬らないでは叶わない」と仰せられ、義盛は重ねて申し上げるには、
「もとより罪の軽い者を追罰するべきものを預かって御恩と申し上げることはございません。重罪の者をお預かりさせて頂く事こそ、規則に反する御恩でございます。義盛が生きている間に、これ以上の大事は無いでしょう」と重ねて申されたので、頼朝も難儀にお思いになり、少しの間、思案されて、
「貴殿の所望、何かに背いている。しかしながら、この事においては、頼朝に任せよ。伊東が情け容赦ない振る舞い、ただ今示す」と押せられると、義盛も力及ばずに御前を罷り立った。その次に、宇都宮弥三郎朝綱が。思うには、各々の申し入れが聞き入れなくとも、罷り立たれず、それでももしやと思い御前に祗候する。君(頼朝)がそれを見られ、
「今日の訴訟人は、叶えられない。別に思う仔細がある」と言ってご機嫌が悪くなられ、申し出す事が出来ずに、退出された。
また、千葉介常胤、座敷にいれかわって、畏まって、
「人々の申し上げて叶わぬところを申し上げる事、まことに鳥道の跡を尋ね、霊亀の尾を引くように危険を伴う無駄な努力ですが、龍の髭を撫で、虎の尾を踏む事も次第によって変れば、今日の人々の訴訟を聞き入れられれば、恐縮するであろう由、人々が敬って申すようです」と申し上げれば君(頼朝)は、
「貴殿の事は、身に変えても足りないほど大切に思っている。それを如何に問おうとも、頼朝が石橋山の合戦で打ち負けて、ただ七騎になり、杉山を出て、結城の浦(現千葉県中央区寒川町辺り)に着き、既に自害に及ぼうとした時、数千騎を似て加勢を受けて、今は世を執行する事は、ひとえに貴殿の恩である。それゆえ、忘れる事は無い。しかしながら、伊豆の伊東を恨むことは知ってはおられ」と仰せられて、その後は御返事もされなかった。常胤は重ねて申されるには、
「おそれ多いと存じますが、私に限らず、今日の訴訟人は、その時に当たって君の大事に、誰が命を惜しまず、不忠を歎く者です。その志に、お許しなさって彼らをお助けいただけないでしょうか」と申すと、頼朝は、
「それにしても、子供らの祖父は、忠義の者ではなかったではないか」。「そういう次第で、慈悲にて助けよと申すか」。「地獄に沈む極めて重い罪人を慈悲の仏であっても救われないと聞く」と言葉を放った。千葉介はそれを聞き、
「地蔵菩薩の第一の誓願には、仏のいない世界の一切の生き物を救うことこそ、誓いの深くにおありになります」と、君(頼朝)がそれを聞き、
「地蔵は未だに仏の正しい悟りでは無いと聞く」、常胤が、
「この様な悪人を救い尽くして、仏の正しい悟りであると。それは慈悲にておありになるのです」と申し、君はこれを聞き、
「まことにそれは、仏法の言葉か、釈迦如来に会って問うがいい。彼らは、世上の政治の道である。斬らないでは叶う事は無い」と言って、御機嫌が悪く見え、その後は、物を申さなくなった。午前の祗候する人々も、力を落とし、どの様にすれば良いのかと思われた。 ―続く―






