その後、畠山重忠は、郎等の榛沢六郎成清を呼び、曽我祐信に申すようにと言われた。
「幼き子供等の事、ようやく申し預かりました。早々に子供を召し連れられて、お帰りなされ。曽我の地で心細く思う方がおられるでしょう。お目にかかりたいのですが、御前に居るので」と言い送ると、それを告げられた祐信は、理解することも難しく、どうして良いか解らないまま、
「畏(かしこまり)ました」とだけ申した。そうして、二人の子供の馬を先に立て、曽我へ帰る心の内は、喩えようもなかった。
曾我に帰り着くと、母は宿所で、これを知らずにただ泣くばかりでああったところ、
「お二人が帰られました」と告げられると、母はよろこぶ事に限りなかった。一万の乳母、月さえと言う女房が庭に走り出て迎え入れ、馬の口を取り、
「君たちの御帰り」と言わずに、あまりに慌てて、
「馬たちが御帰りなされた」と叫ばれた。兄弟二人は馬より降りて、母の方へ行くと、一門の人々も集まり、喜びの対面は成す暇もなかった。
ところで頼朝は憤りが深く、この憐れみは、全てに渡り、広く行き渡る事を知られた。
「事理に明らかで賢い人の憐れみにより、大いに世を塞ぐという煩いは類をなし、時の優れた賢人は、しばしば後事の悲しみを抱く」と、『文選』(中国南北朝期の南朝梁の簫統〔しょうとう〕により編纂された詩集・文集)の言葉にあるのを、今さら思い知られた。
※ここで『曽我物語』第三巻は終わる。この巻では、曽我の地から二人の子を連れて来た梶原景季に、源頼朝は二人の子供が不忠人である伊東祐親の孫という事から斬首が言い渡される。しかし景季は、頼朝に幼い二人に赦免をお願いしたが、聞き入れられず、由比ヶ浜に向かう。また景季の父である梶原景時もまた頼朝に赦免を願うが聞き入れられなかった。場所が移り、由比ガ浜で斬首が行われようとする中、人々が集まり、斬首の光景を待つ。養父の曽我祐信が二人の子に武士の子のわきまえを説き、それを聞き入れる二人の子の姿が哀れに書き止められる。影季が二人に言い残す最後の言葉を聞く。そして斬首をする侍もその哀れな二人に刃を振り落とす事も出来ず。それを見た祐信が変り自身の手により、討とうとするが、それも出来ずに、自身を斬ってから二人の子を斬ってくれと願った。再び御所に移り、そこで和田義盛が再度頼朝に懇願するが、ここでも頼朝に拒絶された。そして畠山重忠が頼朝に自信の生死をかけて懇願する。そこには、頼朝の道理と重忠の言う道理が交錯するが、頼朝は赦免を拒絶する。しかし重忠は仏法、世法、仏教における中国、インドの話をなぞり、君主の慈悲が、国家を安寧に導く事を説き、自身の生死を賭けた重忠の言葉に、頼朝は重忠を失うことが、如何に国の安寧を脅かすかを知って二人の子を赦免した。しかし、頼朝は後にその慈悲・憐みが、後に大きな煩いとなる事を知っていた。
この『曽我物語』の記述で実際に曽我兄弟が、鎌倉の由比ヶ浜で処罰されようとなった事については、信憑性を疑う。『吾妻鏡』においての記述は残されていない。また、『曽我物語』の記述されている兄弟の年齢を見ると、この処罰を行おうとした年は、養和元年(1181)の事であり、ここで登場する畠山重忠は、前年に頼朝に帰服して、ここで述べられているような頼朝の信任を得て物を言える立場ではなかった。
重忠は、坂東八平氏の一つ秩父平氏で、武蔵国男衾郡畠山郷(現埼玉県深谷市畠山)を領する一族である。頼朝が挙兵時に大庭景親らと同様に平家方に付き、頼朝の討伐に着いた。しかし豪雨のために間に合わず、所領に帰参する中、由比浜で頼朝に着こうとしていた三浦勢と遭遇し、合戦が始まった。敗戦の中、重忠は所領に戻って武蔵の同族の秩父氏一族河越氏、江戸氏を伴い会稽の恥をすすがんとして三浦氏の本拠の衣笠城を攻め落とし、母方の祖母三浦義明を討ち取った。その際に義明の遺言として、嫡子の三浦義澄に言い残したのは、頼朝に尽せと言う言葉で、義澄は衣笠城を脱出して安房に向かったのである。そして義澄は、真名鶴から船で脱出した源頼朝に安房で再開することが出来た。その後、千葉重忠、上総広常を従えて、武蔵の国に赴くと、畠山重忠が帰服する。
(三浦市 衣笠城跡)
(鎌倉来迎寺 三浦義明墓標)
『吾妻鏡』治承四年(1180)十月四日条に、
「畠山重忠が長井の私で散会した。河越太郎重頼と江戸太郎重長も参上した。彼らは三浦介義明を討った者である。ところが(三浦)義澄以下の子息や一族は多くが(頼朝の)御供に従い、武功に励もうとしている。『重忠らは、源家に弓を引いた者であるが、(このような)勢力のある所を取り立たなければ目的は為し遂げられないであろう。そこで中に励み直心を持つならば、決して憤懣を残してはならない』と、あらかじめ三浦一党によくよく仰せられた。彼らは異心を抱かない事を申し上げたので、互いに目を合わせ納得して席に並んだ」とある。
その後、畠山重忠は、『源平盛衰記』には、重忠の先祖平武綱が八幡太郎義家より賜った白旗を持って帰参し、源頼朝を喜ばせたとある。重忠は頼朝の命により、相模国への進軍の際に先陣を任され、頼朝の大軍は抵抗を受ける事無く鎌倉に入っている。『平家物語』『源平盛衰記』では、木曽義仲を討伐するため、頼朝は、弟の範頼、義経に六万の軍機を与えて近江国に進出させた。その際に重忠は義経の搦手に属していた。
後に平家追討や、奥州合戦等の功績により頼朝の信頼を得たとされる。また文治三年(1187)に重忠が地頭に任ぜられた伊勢国沼田御厨での彼の代官が狼藉を働いたために、重忠は因人として身柄を千葉胤正に預けられた。これを恥じた重忠は絶食する。頼朝は重忠の武勇を惜しんで赦免し、重忠は一族とともに所領の武蔵国菅谷間に戻った。これを見て梶原景時が謀叛の疑いありと頼朝に讒言する。頼朝は重忠を討伐するかを審議したが、小山朝政が重忠を弁護し下河辺行平が使者として重忠の下を訪ねた。重忠は行平にその事情を聞かされ、憤慨して自害しようとしたが、行平は押し留めて鎌倉に申し開きをするように説得した。鎌倉で梶原景時が取り調べを行い、起請文をさし出すように求めたが、重忠は、「自分に二心がなく、言葉と心が違わないから起請文を出す必要がない」と言い切った。景時がこれを伝えると、頼朝は何も言わずに、重忠と行平を召して褒美を与えたとある。そして、奥州合戦での功績を挙げ、合戦の後に頼朝が、その戦いでの戦死者を弔うために鎌倉二階堂に永福寺を建立する。その際に重忠は、労力を惜しまずに力仕事をしたことが語られ、頼朝もこの働きに対し賞賛した。建久元年(1190)の頼朝上洛の際は先陣を務め、右近衛大将拝賀の七人に撰ばれて参院の供奉をしている。これらの事で重忠は、在命中か武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄は『坂東武士の鏡』と称された。
頼朝の死期には、頼朝から「重忠は子孫を守護するように」と遺言を受けたとある。しかし、鎌倉殿の十三人の合議制には入っていない。これは、挙兵時から臣下に加わっていなかった事と、北条時政の子息の義時がそこに入っており、重忠が入る事で義時と同格を示すことを嫌ったためと考える。しかし、頼朝死後に執権として権力を得た北条時政により謀反の疑いをかけられ、二俣川で最期を遂げた。『曽我物語』のここで語られている畠山重忠は、この時期には、まだ頼朝に物を申すほどの立場でなかったと考える。そして『曽我物語』第三巻は、ここで終わり、続いて第四巻では、兄弟が元服して、二人の心情が語られて、仇討の思いが積み重なっていくのである。 ―続く―












