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鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

和田の屋形へ行きし事

 「やって来て、少しの間も留まらず立ち去るのは、因縁の絡み合いにより生じた者のため、恒常性がなく、常に移り変わる有為無情を悟り、去って再び帰ってこないのは、冥途・黄泉の別れなり。嘆き悲しみ、恋を慕う思いは、いずれも切なる事のない悲しみで、今に始まる事ではなく、日本国に我等程、物思う者は無いと考える。劣らず嘆き悲しむ者の有る事こそが便不憫である」と十郎が申すと、五郎がそれを聞いて、

「どのようなものが、我等に勝ると言うのですか」と言うと、十郎が再び申すには、

「そのことよ。備前の王藤内が七年の間、頼朝様より、不振を蒙り、此度所領の安堵が下される文を給わるための使いを先に下して、この様な事で国に留まる親類を集めて喜んでいたところ、王藤内が下文を受領するために鎌倉に下り、討たれるというならば、さぞかし嘆かざるを得ない事で、古い言葉を考えると、『人として能(報い)ある者は天の加護により、人として財(災い)ある者は人の嘆きによる』と思える。そうであれば、王藤内を助けないとはと思えども、数々の悪口あまりに許しがたく、祐成においては打ち漏らす事は出来ない。お前も漏らす事が無い様に」と申すと、五郎は尽かさず、

「承りました」と申した。

「こうして、夜も更けるほど待つのも長い。さあ、和田殿の屋形へ行き、最期の対面をしよう」と十郎が言うと、五郎は、

「そういたしましょう」と言って、二人そろって、義盛の屋形へ出かけた。そして義盛が出て来て、

「如何に、お前達には久し振りであるな。狩鞍の様相、これが初めてここに来られたのであろう。あの方はどの様にお思いになったのだろうか。本当に、見物する場所としては、これ以上に良い場所があるだろうか」と義盛が申すと、十郎は、扇を笏に取り替えて、畏まって、

「さようでございます。このような事は珍しい見物、末代の物語として、この若者の五郎時致に見せるため、に三日の用意をしてまかり出た次第でございますが、あまりにも面白さに、何かに気を取られて、あっという間に時間が過ぎてしまったので、曽我へ人を遣わしました。それ程の事と思っております」と言うと、和田義盛はそれを聞いて、どうしてその様な事があろうか、日頃の本意(仇討ち)を遂げようとするが、一家の見納めに、義盛に今一度対面しようと来たのだと哀れに思ったので、

「さぞやお思いになっているだろう。これ程、何度も見てきた者でさえ、面白く思う。まして、若い者たちが、初めて見る事は、そのようにお思いになる事であろう。嬉しくも来て下さったことよ。かねてから来られる事を知っていたならば、最初から見物のために来られるようにと申し上げるべきであったのに」と言って、酒を取り出し進められた。盃を三度廻った後に、和田義盛が言うには、

「十分に気をつけて本意を遂げるならば、上手くやりなさい。仕損たならば、一家の恥辱となる。後ろ盾にはなります。頼もしく思いなさい。と言って盃を差しだされた。

 

 時々梶原源太景季の屋形の前を通るが、この様に言うのを聞く、

「何事か、和田殿が、曽我の人々に、『やるならばやり遂げよ』と仰せられる。それは不審である。頼朝様に申し上げようか」と言う。和田殿はこれを聞いて、これは如何に、悪者が通り過ぎ、さりながら、釈明して見ようと思い、

「たまたま何となく語った話を、何と聞いて、貴殿の耳に入ったと言われるのか。この面々は私に親しきもので、頼朝様にも知らされた。それについて、『狩が催されると聞いて、召されたわけではないが、末代の見物に密かにお供していると。若き者の習いは、黄瀬川にて女どもと遊ぶが、頼朝様が合沢(富士東山麓から箱根山に白く一帯に広がる藍沢原に由来するか)の御所に入られた事を聞き、急いで参ったために、遊女に与える引出物も送らなかった。帰りに何かを与えよう』と申す間に、『遊女は気恥ずかしい。引出物を差し上げてこそ良い。仕損じては一家の恥』と申したが、この事の他、何を申したか覚えていない。急いで頼朝様より命が下されたのであれば、義盛を討ち取れ」と、声を張り上げたので、景季も、

「ちょっとした面白味の有る事を申されよ。何といっても和田殿は、私に遭えば、理由もなく物事を荒立てて申される。これは不都合な事ではない」と言って空笑いをして、通り過ぎていった。猶も讒言をする者には、何とか言うと、しばし佇む。これを知らずに、和田は言う。

「『水をよく泳ぐ者は埋もれ、馬によく乗る者は落ち、日は日中に移り、月は満に傾く、高天に背を丸くして縮こまり、厚地に抜き足せよ(厳しい環境や状況にあっても、抜き足差し足で音を立てずに、注意を払って立ちまわれ)』とある。この者は、十分に過ぎて、どう思われる」と言われると、五郎はこれを聞き、

「御陳法(言い訳)を聞かずに通り過ぎる者は、何程化の事を課すべきで、細首をねじ切って捨て去るべき事です」と申すと、梶原は立ち聞きをして、真に、この者は朝比奈三郎義秀に際立って優れた大力で、不敵な輩と聞き、此処で事を行い、勝負するよりも、上様へ申し上げて、我が力としていただき、失う事が無い身となる事は、容易であると思い決めて、聞いていない振りをして通り抜けた。

 和田義盛が言うには、

「今もうしばらく、言葉を交わしたいが、源太景季と言う曲者が、御前に参られて、如何に申し上げるか分からない。そのように慎重に行って仕損じる事の無い様に」と言い置き、和田義盛は御前に参られた。

 

兄弟、屋形を替えし事

この人々は、屋形に帰り、夜が更けるのを待ったが、十郎は、

「例の梶原景季が、お前の言った事を立ち聞きしていたのだが、どれくらいの大勢で取り押さえにくるか分からない。屋形を買えよう」と言うと、五郎もこれを聞いて、

「源太ほどの奴は、何十人もの者を従えて来るが、そのたびに切り伏せる」と申すと、十郎は、

「身に大事さへなければ、言うに及ばず。ただし、私に任せよ」と申した。

こうして兄弟二人は、粗末で小さい狩りの宿所を引き払い、思わぬところへ身を寄せつつ、時を待つ事は哀れであった。これを知らずに、源太景季は、百余人の兵を引連れて、二人の屋形へ押し寄せた。しかしながら、二人はここには居なかった。

「私は日本一の不覚人(敗戦者)。このようになるとは思ってもいなかった。人としてあるべきではなかった」と、他を憚らず無遠慮に言って帰って行った事は、おこがましく見えた。これは、鼠が深く穴を掘って、訓禁の害(支配者層がもたらす弊害)を逃れ、鳥のように高く飛び、そのような害を遠避ける事である。そして二人にとっては危うい状況であった。

 

 

―続く―