十郎元服の事
「光景惜しむべし、時人を待たざる理、隙行駒、つながぬ月日,重なりて」。 人は、歳月が過ぎる事を惜しまなければならない。時は人の都合を待たない。ひま行く駒は、年月が早く過ぎ去る如く、月日が刻々と過ぎ去り、瞬時も留まる事がない。一万は十三になった。身が不幸になるにつけても、また将軍頼朝を恐れ慎み、密かに元服して、継父の名字を取って、曽我の十郎祐成と名乗る。
筥王、箱根へ登る事
二人の母は、弟筥王を呼び寄せて、仰った。
「貴方は、箱根神社の別当の下に行き、法師になって学問をして親の後世を弔いなさい。決して元服して一人前の男となる事を羨ましく思わないように。世を逃れる身であるので、綾羅錦繍(れいらきんしゅう:綾衣と薄絹と錦と刺繍のある布、また美しい衣装)の袖を僧が着ない事と衣と同じです。十種の善を行った帝王も、身を捨てて、人に対する所なし。自身の不運や不条理な事は、夢だと思う事です。伝え聞く釈迦の十大弟子の一人大目蓮尊者は、母に教えられた言葉を、耳の底に留め置かれたので、釈迦の入滅後に仏典の第一結集に参加した弟子の五百大羅漢を超え成された。必ず法師になって、父の跡も、私の後世も助けて下され」と申されると、筥王は身に思う事があったが、
「承りました」と言われた。母は喜んで、十一歳になると箱根神社に登らせ、年月が経ち、筥王が十三歳になった。
文治二年(1186)十二月の下旬の頃、この箱根神社の坊の稚児・同宿が、二十余人の者がおり、その者たちに親や、親しき者より、稚児等に手紙が届いた。「山を下りて里へ帰ってこい」と書いた文もあり、あるいは、正月の三が日の装束と、師の御房への贈り物を添えた文もあった。あるいは父の文、母の文、伯父・叔母の文を二つ三つ読む稚児がおり、五つ六つ読む稚児もいた。中にも筥王は、ただ母の文だけで、かろうじて、装束が添えて送られて来た。色々と羨ましくて、文を袂に引き入れ、傍(かたわ)らに行き、泣きしほれた。有る稚児に会って言うには、
「人は皆、父母の文、親しき方の御文が、数多くあって読まれているのに、私はただ母の御文だけで、父となる御文は知りません。何と書かれているのですか。見せて下さい。十郎殿と姉婿の二宮殿は如何されておられるでしょうか、この度は音信も途絶えました。養父の曽我殿はおられますが、一度の言葉もあずからず、一月に一度なりとも、父の御分として『学問を浴せよ。怠るな』等と言われれば、いかばかりか嬉しく、恐ろしくもありまたし。いつよりも羨ましいのは今年の暮れ、恋しく見たいものは父の御文であります」と言って、さめざめと泣くだけだった。心も知らない稚児も理(ことわり)であったが、共に涙を流した。そうした事で筥王は、新玉の年の祝言をも忘れ、新しき春の朝拝(ちょうはい)も物ならず、思い焦がれて、昼夜権現に参り、
「南無帰命頂礼、願わくは、父の仇を討たしてください」と、歩みを運ぶ事は、罪を犯しながら恥じることが無く、それが痛ましく思えた。
(鎌倉鶴岡八幡宮)
鎌倉殿、箱根山系の事
こうして、権現の計らいで、正月十五日に鎌倉殿(源頼朝)が、二所(伊豆山、箱根の両権現)の参詣が行われると告げられた。筥王は、これを聞き、年来の祈りの功徳が神慮(神の意向)の御憐れみの印しと喜んだ。現に、
「『九層の行は一歩から始まるという』、と言う言葉は、累度の防壁を造る事から始まり、千里の行は、一歩から始まる(大きな事業も、小さい行為から始まる)」と言う老子の教えで、功徳が積もり、終に事を成すものと言う事から、頼もしく思った。工藤祐経は、主君に気に入られた者なので、きっと御供して参るだろうと思い、祐経の顔を知ることが出来ると喜ぶ。そしてその日を待つ心中は、ただ長く感じる日を送るばかりであった。
(ウィッキペディア引用 箱根神社 境内内九頭竜神社若宮)
伝え聞く、仏教の須弥山に説かれる四大州〔四代大陸〕の一つの北洲の人の命は、千年の寿命を保つと言う。その命も限りある事で、いつの間にか日は過ぎ、頼朝参詣の日となった。御供の人々には、和田義盛、畠山重忠、河越重頼、高坂、江戸豊島、玉野井、小山、宇都宮、山名、里美の人々を始めとして、以上三百五十余騎、花を織り、紅葉を重ねた、白色の狩衣の装束共、綾絹や薄絹の美しい衣服で輝かせて、陣頭に雲のように多くの人々が集まった。水干、浄衣、白直垂、布衣の者が威勢を辺りに払い、それらの旅の装束に目を驚かすばかりである。およそ、中間(武士や寺院などで召し使われた男)や雑色(下僕)に至るまで儀式を色で埋め尽くした。後陣の警固の武士は甲冑を鎧い、弓矢を帯する随兵は上下につがい、左右の帯刀の者は二行に並び、主人の弓矢武具を持って供をする人は、弓を持つ左手と手綱を持つ右手に会い並んでいた。お迎えの音楽を奏でる伶人は、音調を整へ、美しい羅綾の袂をひるがえした。御前の舞人は、紐で首に懸けて討つ鼓の鶏婁(けいろう)を討ち、舞いながら踵(かかよ)を上げて爪先立ちをする。君(頼朝)の乗られた御船は、大船を多く組み合わせ、幔幕を引き、沈香木の匂いを四方へ漂わせた。これは、諸仏が人々の衆生を救おうと大きな誓いを立てた船もこの様だと思い知られた。侍どもの乗る船数は、百艘に及ぶ。いずれも屋形が立てられて、無双の武具を立並べて静まりかえり、こぎ連ねられた。昔は知らないが、今後これほどの見物は無いと、貴賤の者共が群れを成して集まり、多くの僧徒が、稚児達を引連れて船着き場まで迎えに出た。頼朝は船より社殿の前までは、四方に簾を掛けた輿に乗って参られた。社殿の前には禰宜、神主は、諸仏への供え物を社殿の簀子縁に捧げ、別当と神社に奉仕する僧侶は、経の紐を玉の甍の下に解き、神楽を奏でる神楽男(かぐらをのこ)は、銅拍子を合わせて、拝殿に祗候する。そればかりではなく臨時の加役の唄唄(はいしょう)は、当座の神楽の歌の朝倉返しの謡物(うたいもの)は、拍子の本末を合わせて、所願成就の御礼の為に捧げ物をして、祭事を営われ行われた。神が信心を褒めて、それに心を動かされるのは明らかで、終生救済をおこなわれる仏菩薩と縁を結ぶことは膨大に思えた。「見聞きする所で、禿筆(とくひつ)にあらず」と、自身の文章や筆力では、とても書き表せないので、ただ高察を仰ぐのみと思ったとある。
(浄土宗潮海山花月院知足寺)
※筥王、箱根へ登る事で、「十郎殿と姉婿の二宮殿は如何されておられるでしょうか、この度は音信も途絶えました」。とある様に一万と筥王には、花月と言う異父姉がいたとされ、真名本によると、兄弟の母が河津三郎祐泰に嫁ぐ前に、国司代として京より下って来た、源仲綱〔源朝政の子〕の乳母子左衛門尉仲成を婿として設けた子とされる。仲成との間に一男一女をもうけており、その一女は、相模国淘綾郡二宮(現神奈川県那賀郡二宮町)の住人で、中村党の二宮太郎朝忠に嫁いだ二宮御前である。
二宮御前は、後に朝忠が死去すると、花月尼となり、夫と曽我兄弟の冥福を祈り浄土宗潮海山花月院知足寺を開基した。境内の裏の墓地には、朝忠、花月院、曽我兄弟の墓標が置かれている。その墓標は江戸期の元禄年間(1688~1704)に建立されたようだ。『曽我物語』で、後においてもこの異父姉の花月院が登場しており、二人の異母弟に哀愁を注いでいる。 ―続く








