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鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

兄弟曽我への文かきし事

 そうして兄弟二人は、更け行く夜半を待ちかねて、十郎が言うには、

「さあ、この暇な間に、幼少より思っていた事を詳しく文に書き、曽我へ送ろう」と言う。五郎も

「そういたしましょう」と言うと、二人は各々文を書いた。

 我らが五つ三つの年より、父が討たれたことを忘れる暇もなく、七つ九つと言った時、月の夜に出でて、大空の雁を見て父を恋し、明ければ、小弓に小矢を取り添えて、障子を射通して、敵の命になぞらえて、敵祐経を討つ事を願い、嘆いていたところ、母が敵討を制された事。また、父が恋しい時は、一間の部屋にて、二人が語って慰め合ったけれども、人々にはこの事を言わなかった。祐成が十三にて元服し、五郎は十一より箱根に登って学問を行い、十二月の末の頃に、里々より衣装と贈り物を取り添えて、他の稚児には送られたが、筥王の里よりは送られた物は無かった。まして、父の文も無かった。明け暮れては父を恋しく思い、権現へ参り、敵を如何なる者かと見たいと祈ったところ、程なくして、御前にて祐経を初めてみる事が出来、不思議な事と思ったが、法師になるべきところ、仇討の本懐を遂げるために、ただ一人、夜に紛れて、曽我へ逃げ帰った。元服して母の勘当を蒙った事は、また、打ち出でした時に、互いの形見を賜り参らせ、置いて出て来た事。信濃の御狩りに徒歩にて行き、敵を狙った事、大磯の虎に契りを行った事、鞠子川、湯坂の峠、箱根寺、大崩れ迄の有様や、義兄の二宮太郎殿と思わずであった事、矢立の杉の事も、今のように覚えている。思う事を詳しく書き、命を捨てて父の冥福を祈り、声を出して経文を読む事は、母に手向けた物である。親は一世の契りと申すが、これを形見にて、来世にても参り会おうと、同じ心に書き留めたので、大きな巻物となり、一つずつを書いた。十郎の言葉の終わりには、五郎と違っていたのは、大磯の虎の事であった。五郎が文で十郎と違うのは、箱根の別当の事であった。その他は、何れも同じ文章であり、此処においても哀れに思えた。

 

(鎌倉西御門の来迎寺から見た五月の山々。大峰展望台から見た五月の山)

鬼王・同三郎、曽我へ帰し事

 さて、鬼王・道三郎を呼んで、

「お前たちは急いで曽我へ帰れ。小袖を母に持って行くように。馬鞍は曽我殿に渡してくれ。万一の事が起こったならば、成否が分かれば、私に変わり曽我へ参る理由を、以前から随分心配していたと、父の仇を討とうと深く志ざして、先立ち申す事無念に思えども、畏れながら二人の子供の形見としてご覧いただきたい。五つ・三つの年より、貴方の御膝にて育てられた御恩は、忘れがたく存じます。肌身に付けた守り札と、頭の髪を弟共に形見としてご覧いただきたいと、兄の二宮殿にも参って下さいと。弓と矢は、お前達に取らす。亡き後の形見とせよ。鞭と弓掛(弓を射る時の手袋)は二人の乳母に渡して欲しい。沓・行縢は、二人を守り育ててくれた子守りに与えよ。夜も深くなったので、急ぎこれをもって落ち下られよ」と言うと、二人の者共は、故人を思い出す形見を受け取って申し上げるには、

「我らは、相模を出でし時より、万一の事があれば、貴方様より先に命を捨て、死出の山、三途の川の御供をしようと思っていましたが、身分の低いものは命を惜しむものと思われ、この様に承るのでしょうか。そのままお連れになって下さい。目覚ましいお役には立ちませんが、心からの御供として」と申せば、十郎はそれを聞いて、

「各々の思いによるところ、真に関心である。このような者共を、仕官している身では無いので、これと言う手当を与える事も出来ず、離れる事が無念である。はかなく悲しみに満ちた憂世の中、何事も思うようであるならば、如何に叶わぬ事も無い。主君は三世の縁がある。来世にてこの恩に報おう。ただこの形見を確実に曽我へ届ける事は、最期の供に勝る事である。狩場で事(仇討ち)を仕損じたと聞けば、志を持った子を持つ母にとって、我が子供であると嘆かれるだろう。急ぎ曽我へ帰って、この理由を申せ。少しでも早く行け」と言うと、道三郎は承って、

「帰る事は出来ません。聞いていただきたい。君を乳児の頃より、私こそが付き従いました。それは、九夏三伏(きゅうかさんふく:夏の九十日間、夏至以後の三十日間)の暑い日は、扇で風を起こし、玄冬素雪(玄冬素雪:暗い冬の白い雪)の寒い夜は、衣を重ねて、肌を温め、魂を尽くして育てて、月とも星とも明け暮れれば(非常に頼みにする事の喩)、成長した様を確かめるために見上げ見降ろしたりと、頼みにして、御代の官職に御付きになられたのであれば、誰に劣る事がございましょうか、きっと頼もしく、愛おしく思います。

 

 

 今まで影形の様に付き従ってきた報いとして情けなくも、『落ちよ』と承る。たとえ罷り帰っても、千年万年過ごさなければならないのですか。どうか御供させて下さい」と言って、幼い子が親の後を慕うように、声も惜しまず泣きだした。兄弟二人も心弱い様に見えたが、如何にしてでも帰らなければならないと、声を高くして、

「如何に未練か。君臣の礼、そのままにしておく訳にはいかないが、心に従う事をもって孝行とする。心から親を思う事が孝行の真髄である。その上、終に付き従って果てる身であるならば、名残惜しい事で、尽くすべき事ではない。急いで出立せよ」と、荒々しく言われた。鬼王は居直り、畏まって申すには、

「私も、母の体から生まれ出て、幼いころから親しんだ者で、主君に付き添うと申して、成人に至るまで、片時も離れる事はございませんでした。その証に『落ちよ』と仰せられる事こそ、真に恨めしく思います。捨てられ、曽我に戻った後、何を頼りにして生き長らえられるでしょうか。憂き身の者となって悲しむでしょう」とさめざめと泣き居たった。実に心ざし深く、幼き頃から馴染みあってこそ、互いに語り会えば、憂きにつきても、夜が明け、日が暮れよう。

「すでに明け方近くなるものを、急げ、お前達、早く行け」と、重ね重ね強く言えば、二人の者共は言いかねて、

「御供申すべき命、何処も同じ事です。住果てるべき住処、どちらにしても遅れるか先立つかと言う道ならば、私どもが先だってお供しましょう。道端に生える芝草に転じて、露の濡れる衣を払い、変わらぬ道の案内をしてお供申しましょう」と言って、互いに袖を引き合い交合わせ、既に刀を抜こうとした。五郎時致は、早くも座を立ち、二人の間に押し入って、涙と共に言うには、

「真に、お前達の志はひたむきである。そうは云えども、我々は、これほどの様相を変えて行う事を聞けずに、乱暴を行うならば、誓いを立てる浅間大菩薩も御覧なられよう。未来永劫に、不孝者として勘当する。我等に命を捨てると云えども、故郷へ形見を届けずに、長く志ざしとして受け入れる事は出来ない。この上は制するに及ばない」と、荒らかに叱った。

「主君の仰せは如何なる物であっても受け入れなければならない」。家来が主人から、順々に受け取る形見の品を受け取って、泣く泣く曽我に帰る。互いの心の内は、さぞ悲しい事だろうがと、思いやられて哀れであった。    ―続く―

 

 

(鎌倉 台峰の源性の藤とトンビ)