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鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

悉達太子の事

 こうして、鬼王・同三郎は、次第の形見を賜り、泣く泣く曽我へ帰った。昔、悉達太子(釈迦の出家前の名)の十九歳にて菩提の志を起こして、壇特山(だんどくせん:北インドの犍駄羅国〔ケンダーラ地方〕にあるとされた山)に入られた時に、車匿舎人(しゃのくとねり:釈迦が出家のために王城を去った時の御供として従い、後に出家した者)が犍捗駒(こんでいこま:太子が王宮を去って出家した時に乗った馬の名。「金泥駒」とも書く)を賜り、王宮へ帰った時の思いを、今さら思い知らされた。主人を乗せない鞍の空しき馬の口を引き、故郷へと急いでも、心は後に留まった。五月雨の雲間も知らぬ夕暮れに、何処がそことも知らずに、貴方(あなた:主人)ばかりを顧みて、涙と共に歩む事は、心の中で非常に悲しく感じた。

兄弟いで立つ事

 そうして、この兄弟二人は、郎等共を、なだめすかして帰した。今は思い置く事が無い。

「いざ、最期に身支度をして出立しよう」と十郎が言うと、五郎もすかさずに、

「そうしましょう」と言った。十郎のその夜の出で立ちは、白い帷子(かたびら)の脇深く着こなし、群千鳥(むらちどり)の直垂の袖を結んで肩にかけ、一寸斑(いっすんまだら:一寸、ごとに班を染めた模様)の烏帽子掛け(烏帽子に掛ける紐)を強くかけ、黒鞘巻・赤銅作り(箱根別当から賜った黒鞘巻の短刀と赤胴造りの太刀)の太刀を持った。同じく五郎の装束は、合わせ小袖の脇深く着こなし、狩場での様相とした、唐貲布(からさゆみ:唐綾の目の粗い麻布)の直垂に、蝶を二つ三つ所々に描いた、紺地の袴で、袴口をゆったりと結ばせ、袖は結んで肩にかけ、彩色により色替わりの組み合わせの平紋の烏帽子を強くかけ、かつて祐経から与えられた赤木の柄の刀を指し、箱根別当から与えられた源氏重代の友切の太刀を肩に打ちかけて、真にすすむ姿は、不気味で昔の姿であった。頼もしくも余りあった。

 十郎は松明を振り上げて、

「何処に向かうのだ、時致。何度見ても飽きないお前の顔をもっと見たいものだ」と言う。五郎はそれを聞いて、敵に会って、ほんのわずかな油断もあってはならないので、これが最後の見参です」と、真に、祐成りを兄と見てるいるが、今ばかりと思えば、兄の顔をつくづくと見守った。十郎も又、弟を見て、これを限りと思えば、松明を差し上げて、つくづくと見て、涙ぐんだ。お互いの心の内が推し量られて哀れであった。

「今はこれまでにいたしましょう。急ぎ給え」と言って、五郎が先を進むが、十郎が五郎の袖を控えて、

「女が多数いるぞ。太刀の振り回しは、心得ろ。罪作りに手をかけるな。後の評判に憚りがある」と言うと、

「とやかくおっしゃるまでもありません」と五郎が言って、足早に急いだ。

 

屋形屋形の前にて咎められし事

 ここに、座間と本間と屋形数十軒が向かい合って建てられていた。郎等共が、篝火を多く所々に焚かせて、出入り口の門を幾重にも構え、辻を固め、通り抜ける事は出来なかった。如何に仕様かと立ち止まったのを見て、

「何者だ。これ程に夜が更けているのに通るのは。ましてその装束、事ありげに装っている。怪しい、通す事は出来ない」と言って咎めた。

「怪しい者ではない。これも用心の為の姿。人を見て咎めるべきです」

「いや、誰であっても、五つ時(午後八時頃)以降は、通行してはならないとの掟である。通す事は出来ない」と言って、妨げた。十郎は打ち向かって、

「御咎めを受ける者ではございません。これは土屋殿より、愛甲殿へのお使いです。通していただきたい」と言うと、

「そうであるなら通せ」と許された。ここを通り過ぎても、まだ幾つかの木戸、幾重もの関があり、警護を如何に通るか。難しい事ではあるが、足早に行くと、千葉介の屋形の前を通った。ここにも、木戸が堅固に閉められて、番人装束の警固の者が、数十人で、ここでも篝火を焚いて固めていた。

「何者である、これほどの夜更けに通ろうとする者は。通す事は出来ない」と、咎めた。五郎は打ち寄って、

「これは、後家来衆方の者です。怪しい者ではございません」と言って、近づいて木戸を無理に押し開いた。

「無理に通ろうとするのは、何か訳があるのだろう。我らが知らぬ人はいない。後家来衆方とは何方である。名字を名乗れ」と、咎めた。

「我等は名字がない者です。通して下され」と言うと、番人の一人が、

「御家来衆方とは虚言だ。どうして通れようか」と憚らずに申して、木戸を荒く押し閉めた。五郎は、木戸が閉ざされて、大いに怒って言うには、

「差支えが無いので通る。差支えの無い者の振る舞いを見よ。これこそ、さる所へ強盗に入る者よ。止めようと思う者は組み止めよ。殺されたい者は」と言えば、番人の者共は、これを聞いて、

「夜の番人の兵士は、何のためにある者か。このような狼藉を静めるためである。討ち止めよ」と追いかけて来た。五郎も、

「分かった、ことごとく。かかって来い」と言う前に、太刀を取り直し、待ち構えた。十郎は少しも騒がず、しづしづと立ち返り、

「これは、さらに怪しい者ではありません。上総国の長柄郡の庁南殿より長生郡の庁北殿へ大事な御物具を取りに参るが、夜が深くなる間に人を連れて参れば、若き者にて酒に酔い、数々の悪口を申した。ただ私に免じて御許し下され」と、笑って申した。

 

 御許しと言う言葉で、勝に乗じたかのように、

「だからこそ、不審なり。その義ならば、事易し。長南殿へ尋ね申す。少し待ち給え」と怒りながら言った。十郎は、このような困った事になり、そうではあるが、弁明して見ようと思ったので、この者共が、怒る中へ、長々と立交わり、

「御分たち、庁北殿は我々を知ってはおられない。長南殿の御内に弥源次・や源太とは、兄弟の厩(うまや)の者です。いつぞや、宇都宮殿が、小山殿への御出での時、お会いしたのを忘れられましたか」と問うと、その中に、年かさで物分かりのよさそうな雑色が歩み出て、十郎の顔をよく見た。祐成は、彼奴は手ごわいと思い、松明を少し脇へ回し、目を少し細めた。この者共をよくよく見ると、

「まことに思い出した。片瀬(現神奈川県藤沢市南部)より、関戸(現東京都多摩市内多摩川を渡る渡し場があり、鎌倉街道の要地)へ帰られた時に、会ったと覚えている」。十郎は、良かったと思って、

「そうです、貴殿、その時の酒盛りには、座敷で一晩騒ぎ廻った人ですね。忘れられたか」と言うと、

「実に、その人であられる。貴殿は、人の事を言うが、仁王舞(力士舞)を少し舞っていただけないでしょうか」と言うと、傍にいた男が、

「これ程の知己にておられる。御使いであるので、急ぎ通し給え」と言う。

「哀れ、濁り酒一桶あれば、如何なる御使いであっても、得意の仁王舞を所望申さぬか。一番見たいものだ」と言われると、十郎はそれを聞いて、

「同感でございます。しかしながら、後日に参り会いましょう」と言って、よそ見をしながら通り過ぎた。この者達が、近寄り、

「すまぬ事で、通り給え、お二人」と言って、木戸を開いて通した。兄弟二人は、極めて危険な所を逃れた心地で、十郎が言うには、

「この様な所にては、如何にも下手に出て謝らねばならない所を、お前の雑言は間違っている。孔子の言葉を知らぬか。『事を見ては、勇む事なかれ。大事の前に小事をなし』とわきまえろ。我ながら、良くも弁明する事が出来た。これぞまさしく、富楼那(ふるな:釈迦の十大弟子の一人で、弁舌第一と称された)にて、波斯匿王(はしのくおう:紀元前五百年の中インドの舎衛国王釈迦に帰依し、仏教を保護した)の憤りを止めたのは、今に知られている」と申した。             ―続く―

 

 

(鎌倉寺分 東光寺境内のカルミアの木。五月中旬に金平糖のような五角形の花が咲く。四十年近くの老木のため現在も咲いているかは分からない。)