こうして筥王は、御奉幣(神前で噛みに幣〔ぬさ〕をたてまつること)の時まで誰も連れず、付き添いの僧一人を伴って、御座所の後ろに隠れて、御供の人々を見ていた。
「あの男は誰ですか、これは如何に」と詳しく問うと、この僧は幕府の事をよく知る者で、大名、小名の名を詳しく知っており、教えてくれた。しかしながら筥王は、いまだに(工藤)祐経の事を明かさなかった。知らななければならなかったので、あやしく思われると思ったが、残りの者を問い続けた。
「君の(頼朝)左の一座に居るのは誰ですか」と尋ねると、僧は、
「あれこそ、秩父(畠山)重忠だ」と言う。
「右の一座は如何に」と、筥王が再び聞くと僧は、
「これぞ、三浦(安達)義盛だ」と答えた。
「さて、その次は誰ですか」。
「里見源太(新田太郎義成か)と言う人だ」
「さて、その次は」
「豊島冠者と言う人である」
「ただ今、物を仰せられるのは誰ですか」
「これこそが今、有名な梶原平三景時と言って、侍共が、鬼神に思う者である」
「また、右手の方に、少し引き退いて、球の半分が水晶の数珠を持つ、紺の香染めの直垂を着ている人は、如何なる人ですか」
「彼こそ、御分たちの一門の伊東の主、工藤左衛門尉祐経である。貴方の父の河津殿とは従兄弟である。主人に気に入られた権威のある切れ者だ」と教えてくれた。
(ウィキペディア引用 箱根神社)
ついに祐親は、ここにいたのである。この僧は、兄弟が祐経を敵として狙っている事を知らないが、何事も起こらないと、見くびって言うが、筥王は、その後に胸が打ち騒ぎ、思いもよらずに言った。
「この者は、良い男であるのでしょうか。三十二三になる歳でしょうか。私の父に似ているでしょうか」と、筥王は尋ねた。
「少しも似ていない。まさしく兄弟さえ、似ている者は少ない。まして従兄弟では、似ている者はいない。齢こそ、河津殿の討たれた時ぐらいで、四十余りの男である。是よりはるかに背丈が高く、骨太で、前より見ると胸が反、後ろより見れば、うつむき、脇より見れば四方にかけて大きな男であった。力の強い事は、この関東四五ヵ国で並ぶ者はいなかった。馬上では、徒歩立ちの兵に並ぶ者はいなかった。特に草鹿(草の中に伏している鹿を模った的を得る事)は上手く、力が強くて伊豆相模の近国には並びなき大力を有した。それで、相模国の住人の大場三郎が弟の俣野五郎景久でも、相撲に敗けない大力を、伊豆の奥野の狩場で、片手を放ち、相撲に三番勝って、さらに名を挙げられた。しかし、それを最後に帰る所、あえなく討たれた。大力と申せども、死の道には力が及ばなかった」と僧は語った。
筥王は、父の昔話をつくづくと聞いて、今さら悔しい心地になり、忍んで流す涙に咽んだ。しばらくして、私がこの間、祈り願った事が叶うなら、窺い寄って、良い機会があれば、一刀を刺そうと、見るからに決意を定め、
「御坊は、ここに居て下され。法師は近くに寄れませんが、童は近くに寄っても問題なく、山寺に住めば人を見知る機会が、あまりにもございません。近くに寄って、見てまいります」と言って、赤字の錦で柄鞘(つかざや)を巻いた守り刀を脇に差し隠し、大衆の中を抜け出て、祐経の後ろ近くに狙い寄った。
祐経もまた、しばしの目に見えない神仏の加護があり、梶原景時の三男景茂を隔て、筥王を見つけて、これなる童の目つき、河津三郎(祐泰)に似ている者だ。まことに、この山に伊東の孫がいると聞いた。もしこの童が、その者であるとするならば、目を離さずに身を守らなければと、左右なき寄りつけさせなかった。なお祐経は、よくよく見れば、相手の目を見返し、清閑そうな顔つきで、少しも河津三郎と違うところがなかった。祐経は、念仏読経を終えた後、大衆の中へ立ち入り、
「伊東入道の孫、この山に居ると聞く。何処の坊にいるのか。名をなんと申す」と問うと、ある僧が申すには、
「御名を筥王と申して、別当の坊に居られます」と答えた。工藤祐経が再び問うた。
「今は、里に居るのか、ここに居るのか」と、僧は周りを見回して、
「ここにいます」と答えた。
「堅く光沢をもつ絹の長絹の直垂に、松に藤を刺繍し、萌黄の糸で菊綴(きくとぢ:直垂の縫い合わせの箇所に付けられた総飾り)をして、貴方に向かいに立つ者です」と教えると、そうであったと思い、元の座に帰って筥王を招き、願うところと喜んで、祐経の膝近くに寄りそえた。左の手で、筥王の肩を押さえて、右の手で筥王の髪を搔き撫でて、
「あっぱれ、父に似ておる。今まで見ておらなかった事が残念である。貴殿は河津殿の子息と言うのは真か。兄は成人になったのか。曽我の太郎殿(祐信)は、愛おしく接しておられるのか。知らない者が馴れ馴れしく、この様に申すとは思われるな。貴方の父河津殿とは従兄弟である。多くの武士の中でも、親しき者は祐経だけであった。見ていると、昔を思い出し、今さら愛おしく思う。急ぎ法師になり、別当を継ぎなさい。弟子が多いと言えども、祐経程の見方を持つ者はいない。良い機会を持って上様にも良き様に申して、寺の訴え事があれば申し上げまよう。今より後は、いかなる大事があろうとも、躊躇せずに仰せられよ。叶えてあげよう。貴殿の兄にもこのように申し伝えるように。父もおらず、いかに不安におられるのか。行縢(行縢)、乗馬などの用の時は、受けたまわる。貧しい事で他人と交わらないよりは、親しいので常に訪ねなされ。まことに、古き言葉『貴きは賤しきが嫉み、智者をば愚人が憎む。災妖は千歳(せんざい)にたえず、報いは千却(せんごう)につきず(人力で叶うことの出来ない災いの報いは善政に勝らず・善行に勝る物は無い)』と申し伝えるように。こうして、お会いしたのが初めてなので、引出物は無い。また空しい事で無念である。これを」と言って、懐より、花櫚(かりん)や紫檀などの赤木で作られた柄に、銅金を入れた鞘で作られた短刀をひと腰取り出して、筥王に与えた。何となく受け取ったが、筥王は涙に咽んだ。都合が良ければ、一刀を刺そうと思ったが、目を離さず、その上に大の男が常に肩に手を置いていたため、なまじ、事を起こしても、小腕を取られ、人に笑われると思い、止まった。だだ言う事は、
「さようでございます」と言うだけであった。
「突然の見参こそ、所存の他なれ。しかしながら、喜ぶことが出来た。里に下ったついでには、貴殿の兄十郎殿を連れて来るが良い。くれぐれも」と言ってその場を立った。筥王は力に及ばず留まった。日が暮れると、もしやと都合を窺うが、宵の程は御前に祗候しており、夜がふけては、退出するところを窺うが、庭には兵が甍のように重なり合っていた。火を日輪のように燈して、返って我が身を隠そうと立ち忍ぶが、知られるとは夢にも思わなかった。左衛門尉の宿坊と御前との間を徘徊して待つが、板板(家の内を外から見えないように覆い隠す板)の陰に郎党共が立ち囲み、前後左右に居たので、討つ事が叶わず、夜明けまで心をつくして狙ったが少しの隙もなく、いたずらに夜を明かして心の中は残酷な事であった。
次の日は、君は下向の舟に乗られ、青海原を渡られる。筥王は船着き場まで行き、人目に付かないようにして、敵の後ろを見送ると、侍どもは、思い思いの館に乗ってお供した。筥王は、左衛門の舟だけを見送って、泣くよりなかった。あの松浦左様姫が、遠く離れた船を見送って、石となった昔を思われて、空しく坊に帰った。その後、いよいよ仇討の事のみが心に浮かんで、一字も忘れないと思っていた経文を打ち捨てて、昼夜権現に参り、
「今度こそ空しくとも、終には我が手に懸けられます様に」と祈ることが哀れであった。
※「赤木の柄に銅金を入れた短刀」は箱根神社に「赤木柄短刀」として所蔵されている。
松浦作用姫は、『万葉集』『肥前風土記』等に見る伝説の女性で、朝鮮に出兵する愛人の大友狭手彦を送り、松浦山から領巾(ひれ:古代日本で首から肩にかけて垂らした細長い薄布で魔除けとして身につけられた)を振って、そのまま望夫石になったと記載される。 ―続く―





