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鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

眉間尺(みけんじゃく)の件

 さて、筥王の親の仇を深く思うにつけて、昔を思うに、

「ある大国に、楚の商王(訴訟鴦:中国春秋時代の楚の威王か)と言う大王が居た。后を多く持つ中に、とうよう(未詳)夫人と言う后が、体のあちらこちらに発熱が生じ、黒鉄の柱に抱き着き体を冷やしていたが、程なく懐妊した。大王はそれを聞いて、位を譲るべき皇子が居なかったので、誕生する事を非常に喜んだ。しかし、三年が経ったが生まれてこなかったので、大王は不思議に思い、博士を召して、尋ねる。

『まことに君の御宝です。ただし、人ではございません』と申した。何者だろうと、心もとなく待っている所に、博士の申す通り、人ではなく黒鉄の塊を二つ産んだ。大王はこれを取って、刀鍛冶の莫耶(ばくや)と言う者を召して、この黒鉄の塊で剣を作らせると、剣は光が世を超えた霊験の著しい名剣であった。大王は大切に取り扱い、昼夜身から離す事は無かった。ところが、この剣は常に汗をかくので、不思議な事と思い、再び博士を召して、占わせた。勘文(陰陽師などに小例や吉兆を調べさせた結果を記した文書)にて申し上げるには、

『黒鉄により作られた剱は、雌剣・雄剣として二つの剣です。これは夫婦の剣でありました。雄剣ばかりを帯同し、雌の剣を隠した事で、妻を恋して汗をかくのです。これを召して、二剣を置かれられなければなりません』と奏聞申し上げると、直ぐにこの剣を作った鍛冶を召された。鍛冶は、家を出る時に、妻女に会って申した事は、

『私が隠し置いた剱を尋ねるために召されるのだ。差し出すつもりはないので、きっと責め殺されるだろう。この剣は南山の何処其処に埋めている。我が三歳の男子が成人した後に、掘り出して与えよ』と言い置いて、王宮に参った。案の定、今一つの剣の行方を尋ねられた。知らないと申し上げると、拷問の後に、終に責め殺された。

 

 そうして鍛冶の子が二十一歳になると、母の教えに従い、この剣を掘り出して持つ事になった。しかしながら、王威を恐れて、里へは帰らず、山に隠れていたが、ある時に君王の夢に、眉の間が一尺ある者が来て、私を殺さないといけないと、その名を眉間尺と言うと者であった。王はこの夢に恐れて、

「このような者がいるならば、捕縛して参れ」と、国々に宣旨を下された。

「恩賞は望みのままだ」とされた。ここに伯仲(はくちゅう)と言う者が眉間尺のもとに行き、

「汝の首を取る事は、多くの勲功とされると仰せられた。したがって、汝の為に教える。君王は、まさしく親の仇だ。さぞ討ちたく思うだろう。我が為にも、重き仇である。己の首を斬って、私に貸せ。その剱は、首と共に持って行き、大王に近づけば討つ事は簡単である。よって、貴殿の首を借り、本来の望みを叶えた時には、我にとっても遅い速いと違いはあっても、限りある命で、王の配下により失われる」と言うと、眉間尺は聞いて、

「父の仇、討たんとすることを聞いては、わが命、何が惜しかろう。きっと」と言って、自らの首を搔いて落として出した。そして、この剣の先を食い切り、口に含み持った。伯仲は、眉間尺の首と剱を取り添えて王宮に捧げた。大臣に見せると、

「実に夢と違わず、眉の間が一尺ある首である。また剱も、我が持ちたる剱にも違わず」と言って、君王は喜ぶこと限りなかった。しかしながらこの首の勢いは、未だに尽きず、眼を見開いていた。大王はいよいよ怖れて、

『それでは、釜に入れて煮立てよ』と言って、大きな窯にこの首を入れて、三十七日の間、煮たてた。しかし尚、眼を塞がずに、あざ笑っているようで、その時に伯仲が申出て、

『これは大王が御敵であるため、帝を見ようとする事が執心で、勢いが残ると思われます。何かは苦しく見えます。一目だけでも見させてあげてください。彼の念をはらせ』と申したので、君王はそれを聞いて、

『そうであるなら』と、言って、端近くに出られて、釜の辺りに近づく。その時、眉間尺が首を見せた時に、この首に含み置いた剱の先を王に吹きか、剣先は大王に飛びつき、大王の首を打ち落とした。伯仲は走り寄り、大王の首を取り、眉間尺が煮立たせる窯の中に投げ入れた。

 

 王の首も勢い劣らず、眉間尺の首と食い合った。その時伯仲は、山で約束した事で、

『我も、大王を殺害しようとする心が深い。このためである」と言い終わらない内に、自分の首も搔き切って、釜の中へ投げ入れた。この三つの首は、釜の中で一昼夜食い合った。終に、王の首は負けてしまった。その後、二つの首も威勢が衰えた。執心の程が恐ろしい。そうしてこの三つの首を、三つの塚を築き、それぞれ納めた。山王の三つの塚と言って、今もあると伝えられる』」。

 今の筥王も、未だに幼き者であるが、親の敵に心をかけて、昼夜忘れない志ざしは、これにも劣らないと思えた。これが、『文選』の言葉の、「流れ長しては、すなわち尽きがたく、願い深くしては、砂は築地がたし(物事が長続きすると、尽きることが無くなり、願いが深くしては、すなわち朽ちる事はない)」と言われる。そうして、この兄弟二人の成長の末に、さぞかしそのように言わない人は居なかった。    ―続く―