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鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

母と二宮、行き別れし事

 そうして陽もようやく傾き、高麗寺の日没の鐘が聞こえてくれば、名残が尽かないと思えたが、曽我の母と二宮の姉が立ち上がり出て行き、曽我と二宮の里へ帰られた。虎と少将は、門まで送られて、後姿が見えなくなるまで見送り、涙と共に庵室へ帰った。六時礼讃の初夜の行を始めて、念仏を心静かに唱えられた。その後、曽我の母と二宮の姉は、各々が宿所に帰られて、少将から聞かれた法門をわずかな時間であっても一心不乱に念仏を唱えられた。昔は、夫婦共に暮らして老い、死後は同じ墓に入ると、別れを慕い、今は、兄弟がこの様になった事で思いが積もり、老病と言い、嘆きと言い、正治元年己未五月二十八日の申の刻に曽我の母は、六十歳の末の頃に、念仏を申して、終に大往生されたと聞く。そうして二人の尼御前は、或世の夢に、十郎と五郎が連立って現れ、頭には、玉の冠を着け、身には、珠玉や貴金属で編んだ装飾品をかざられ、光明が光り輝き、二人は伏して拝み申すには、

「この間、念仏申して、経を読み、懇ろに弔ったゆえに、兜率天の内院に参った。これは、しかしながら、夫婦偕老の契りが深い事で、常住絶対の真実の解脱の因となる。その恩徳は、極めて長い時間にも奉じがたし」と言って、虚空へ飛び去られた。

 虎は、夢が覚めて、只、現実に戻って思うには、

「五重の闇(五障に同じ。修行上の障害となる五種を闇に例える)が晴れて、過去・現在・未来を知る三つの知恵が、一切をくまなく照らす月の様に、朗らかにおられる大聖釈尊さへ、耶輪陀羅如(やしゅだらにょ:釈尊出家前の王妃、羅甲羅(らごら)の母)の別れを思い示される。いはんや、我等は、この年月、恋しいと思う所に、間の辺りに兄弟を夢に見て、昔を恋しくなった。それで、夜の猿は傾く月に叫び、秋の虫は、枯れ行く草に悲しむのだと。鳥獣までも、愛別離苦を悲しむのだと思えた。そうであるならば、この道は、迷うならば、共に悪道の輪廻を断ち去りがたい。悟りを得なければ皆、地獄、餓鬼、畜生の三悪道に転生する成等菩提の因縁となる事だろう。夫婦共に暮らして老い、死後は同じ墓に入るという信頼の偕老洞穴の契りは、真に悲しいもので、九品蓮台の上にては、もとの契りを失う事は無いく、一つの蓮に座を並べ、迷いの苦悩から抜け出して、真の自由の境地に達っせられる解脱をする事です」と言って、少将とともに、涙を流した。

 

(鎌倉 国宝館、辻の薬師堂)

 そうして、この虎と少将の尼二人は、仏道への志が深く、虎が峰に上り、花を積めば、少将は谷に下り、水を汲み、一人が花を供えれば、一人は香を焚き、共に阿弥陀仏の極楽浄土に生まれ合う縁の一仏乗度の縁を結んだ。谷の水、峰の嵐は、菩提心を起こす仲立ちとなり、花の色、鳥の声、自らに心静かに知恵により一切を観察の便りとなった。つくづく思えば、すべての物が生滅変化する事の理は、生・住・異・滅の四相の移り変わりは習いで、天上界より下界に至るまで、一つとして逃れようがない。日月天は廻り、朝夕に因果によって生じる現象を表し、寒暑は時を違えず、昼夜に生滅・変化する様を表す。それで、漢の高祖の三尺の剣も、終に他の宝と同じになり、秦の始皇帝が築き上げた都も荒れ果てた野辺となった。彼を思い、これを見るのも、ただひとえに、悲しい辛い憂き世のから離れ隠れ、真の道に入るべきものである。その後、二人の尼は、仏道修行が積もり、七旬の齢(六十代を指す)に入り、五月の末頃、少病少悩(悪い病気にも煩わず、悩む事もなく)にして、西に向かい、肩を並べて膝を組み、正しい姿勢で座って手を合わせて、念仏を百返唱えて、一心不乱にして、音楽雲に聞こえ、異香薫じて臨終には、西方の極楽浄土から阿弥陀仏が諸菩薩とともに迎えに来られて、眠る様に往生の素懐を遂げられた。貴き者も賤しき者も、極楽往生したいと思う気持ちは世の習いで、誰もこの無情(生者必滅・盛者必衰の理)から逃れられる者は一人もいない。富宝も、終には夢の内の楽しみである。特に女人は、罪深い事なれば、念仏に過ぎたる事は無い。この様な物語を、見聞きしない人は、道理に合わない言葉と巧みに飾った言葉。特に仏教や儒教の立場から、偽りかざった物語の類を卑しめていうが、仏法を讃へ、仏の教えを説く決起となるとも考えられるという縁でもある。悪しき心を改めて、真の道に赴き、菩提を求める便りとすべきである。その心も無い人は、この様な事を聞いても、何も変わらない。よくよく、耳に留めて、心に染め、永い世の苦しみを逃れて、西方浄土に生まれ変わる者である。

  

※兜率天の内院は兜率天にある七宝で飾られた四十九重の宝宮が有るところで、弥勒菩薩が住み、法を説く所とされる。

 『史記』に秦の始皇帝が強大な権力をもって築き上げた壮大な都の咸陽(かんようや)阿房宮も、彼の死後は、過酷な圧性に対する人々の怒りによって焼き払われ、荒れ果てた野原と化してしまったという歴史の無常さを表している。

『曽我物語』の真名本は十巻で、仮名本では十二巻と巻数が違い、内容量が多く記載されており、どちらも仏法の唱導的な記載や、中国の話も記載されているが、仮名本は特にその内容が多く、『史記』『後漢書』等の中国の文献、古史の内容を多用している。また、要所要所の細かい設定が違っており、特に祐成・時致の兄弟が仇討を遂げた後、虎御前の内容に相違がある。仮名本においてはここに現代訳を試みて、本文『曽我物語』の現代訳を終える。       ―続く―