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鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

頼朝の若君の御事

 そもそも、兵衛佐殿(源頼朝)の御代治める世になる時には、伊東・北条は左右の翼となって活躍すると思われ、いずれ優劣は突くとが無いと思われたが、北条の末は栄え、伊東の末は絶えることになる。その理由を詳しく見ると、頼朝十三歳の年に、伊豆国に配流された時、この両人を頼って年月を送られた。しかるに、伊東二郎祐親に娘四人がいた。長女は相模の住人三浦介義澄が娶り、侍女は工藤祐経に嫁がせたが、後に取り返して土肥弥太郎遠平に嫁がせた。三四女は伊藤の下にいた。中でも三女は美人と噂された。佐殿(頼朝)はそれを聞き、潮の干る間に暇つぶしにて通い、密かに契りを重ねられた。頼朝は、心ざしは浅はかながら、年月を送られると若君が一人生まれた。

 

 佐殿は若君が出来た事を格別に喜ばれ、御名を千鶴御前と付けられた。つくづく、昔のことを思うに、昔仕えた主が住まわれた古風で魅力的な国であったが、勅命による勘当を蒙られ、慣れない田舎住まいであったが、この伊東・北条の両者がいた事が嬉しかった。十五歳になると、秩父(埼玉県)・足利の人々、相模(神奈川県)三浦・鎌倉・小山・宇都宮(栃木県)の人々と語り合い、平家に対抗させて、頼朝の果報の程を試そうともてなし、手厚く保護された。かくて、年月が経つほどに、若君が三歳になった春の頃、伊東祐親が京より大番役の勤めを終えて伊東の所領の地に戻ったが、この事について暫く知らなかった。有る夕暮れに、花園山を見ていた時に、折節、若君が乳母に抱かれ、植え込みがされた庭で遊んでいた。祐親はこれを見て、

「あの子は誰だ」と問われたが、返事にもせずに逃げてしまった。怪しく思い、館に入り、妻女にたずねた。

「三つばかりの非凡なる子を抱いて、庭に遊ぶ子は『誰ぞ』、と問うと、返事もせずに、逃げて行ったのは誰だ」と問うた。継母のことなので、折を得て、

「それこそ、貴方の在京の後に、大切に育てた姫君が、私の言うことも聞かずに立派な殿と儲けた公達(御子)です。貴方にとってはめでたい孫御前ですよ」と、差し出がましく言うことが、実に子孫も絶え、所領にも離れることになった例である。されば、

「主君に告げ口をする配下は、国を乱し、妬婦(とふ:嫉妬深い女性)は家を壊す」と言う言葉、思い出して、驚くばかりであった。祐親はこれを聞き、大いに腹を立て、

「親の知らない婿である。誰だ、今まで知らない事は、不思議である」と怒りながら、継母は上手く訴えたものだと嬉しく、

「それこそ、世に有りてまことに頼りになる流人、兵衛佐殿の若君でございます」と言って、おかし気にあざけると、祐親はますます腹を立て、

「娘を持て余すほど多く持って、乞食・非人などには娶らすも、今時・源氏の流人を婿にとり、平家の咎を受けては、どうするのだ。『毒虫は頭を砕き脳をも取り、敵の末には、胸を裂いて肝を取れ』という事が伝えられ、どうしようもない」と言って、郎党を呼び寄せて、若君を誘い出した。伊豆国松川(現静岡県伊東市松川)の奥を訪ねとくさの淵(伊東大川上流稚児ヶ淵)に簀巻きにして水中に沈めた。これを情けの無い仕置きとして例えられた。

 

 これは、『文選(もんぜん:中国南北朝時代の南朝簫統〔しょうとう:昭明太子〕により編纂された詩集・文集)』の言葉に、「尺に満ちて袤(あま)りては、瑞(めでたい印として)は豊年を現わし、丈(じょう)においては、禍(くわ:わざわい)

を陰徳に現す(雪が降り積もる事一尺に及べば、豊年の吉兆となると言うが、身の丈に余る振る舞いは、人に知られないように密かにする行為は禍となる」。まことに身の余る振る舞いは行末いかがと思われる。その上、北の御方(八重姫)をも取り返し、おなじ国の住人江馬(現静岡県伊豆の国市北東部)四郎(北条義時とは同盟であるが別人)に嫁がせた。名残惜しく、頼朝と共に寝た床を離れ、思わぬ人に今さら寝床を共にすることは、独り寝する事に袖に移り変わる涙は、それこそ申すまでも無い事と思われた。これは祐親が平家への怖れと思われるが、『文選』五十三・運命論に、わうさう(王莽:漢の平帝を毒殺した帝位についた者)・董賢(とうけん:前漢哀京帝の寵愛を受けた者)が三公(臣下として最高位の官職)でありながら、楊雄(やうゆう:中国前漢の時代の文人学者)・仲舒(ちゅうじょ:中国前漢時代の儒学者)が、彼らの由来を明らかにしたようなもの」と見えた。

(ウィキペディア引用 静岡県伊東市大原物見塚公園 伊東祐親像)

八重姫は伊藤祐親の娘として『延慶本平家物語』『源平盛衰記』『源平闘掾録』『曽我物語』等の物語類にのみ登場するが、名は記載されていない。『吾妻鏡』等の後世に編纂された歴史書には見ることはない。また八重姫の名称は室町後期から江戸期にかけ在地伝承として生まれた名とも考えられている。江戸時代末期の伊豆の地誌『豆州誌稿』に初めて現れたとされる。『曽我物語』によると、伊豆国での流人であった源頼朝は、伊豆国の豪族伊東祐親の監視下に置かれていた。祐親が大番役として上洛している間に頼朝と八重姫との間に子が生まれ、大番役を終えて伊豆伊東に戻った祐親は激怒して、孫である三歳の千鶴丸を家人により、とときの淵(伊東大川上流稚児ヶ淵)で殺害させた。そして『曽我物語』王堂本には見られないが、真名本には、八重姫は、後に密かに伊東館を抜け出し、頼朝の居る北条間を訪れるが、頼朝と北条政子の姿を見て轟ヶ淵で入水しており、治承二年(1178)頃ではないかと推定される。仮名本・流布本には、頼朝が関東を抑えた勲功として江馬庄を北条時政に与え、それをこの義時に与えたため江馬小四郎義時と『吾妻鏡』にも記載されている。そして『源平闘掾録』では、八重姫が父の伊東祐親が頼朝に捕らわれ、夫の江間四郎が討たれ江馬庄を出奔し、後年頼朝の計らいで呼び戻されて相馬師常(千葉常胤の次男)に嫁したとしている。

 

(鎌倉 吉屋信子記念館)

 ここで、NHKの大河ドラマ「鎌倉殿と十三人」において、八重姫が北条義時の妻として、その子が北条泰時として描かれた。このドラマの脚本は三谷幸喜氏で、歴史監修は創価大文学部教授の坂井孝一氏が行なっている。また、坂井孝一氏の『鎌倉殿と執権北条氏―義時はいかに朝廷を乗り越えたか』(NHK出版)は「推論に推論を重ねることを承知の上で、いささか想像をめぐらしてみたい」「単なる推論、憶測と退けられるかもしれないが」「不明な点、論証できない点は少なくないが」と断った上で、源頼朝の最初の妻であった八重姫と(北条泰時の母とされる阿波局が)同一人物ではないかと仮説を提示している。日本史研究家の渡邊大門氏は、資料的な裏付けが無い上に首肯できない点が多々あり、そもそも八重姫の実在そのものが疑わしく、八重が義時と結ばれたというのはかなり無理筋だとしている。頼朝と八重姫が結ばれ千鶴丸が生まれたのが安元二年(1176)とされ、頼朝二十九歳である。八重姫は生没不明であるため、当時において子が産める年齢として十六・七歳以上と考える。その時点で義時が長寛元年(1163)生まれであるため、義時は十四歳であり、八重姫は三歳以上の年上になる。そして頼朝が、許婚させるかと疑問に思う、もし、泰時が北条義時と八重姫との子とすれば、嫉妬深い北条政子の存在により、泰時を三代執権に擁立しなかったのではないかとも考える。また、北条政子・義時の母は伊藤祐親の娘とされ、その妹が八重姫である。義時にすれば伯母にあたり近親婚であった。古代からどの国においても政略的な近親婚が行われており、平安期にも藤原氏が天皇家に近づくために氏族間での近親婚が作りだされたが、時代が下るにつれ、一般的に近親婚の禁忌視は強くなり、表面化されることが少なくなった。中世鎌倉期以降においては、武家の支配上層部での正妻の生家の固定化(北条得宗家と安達氏)が見られ、母親と同じ家での同世代の娘との婚姻が推奨されることもあり、従弟婚、又従兄弟婚が多くあった。北条得宗家の執権が早世であった事は近親婚に起因すると考えられる。また閉鎖された地域での近親婚は近代まで残り続けられていた。また、平安末期・鎌倉初期については、噂は絶えないが、近親婚に対して史実として記録されることは殆んど無く秘め事とされ禁忌視は強かった。しかし、関東以北の馬の生産地において、血統を濃くすることは、奇形の有害が知られており、馬を主戦力とする関東武士にとって、知りえる事であった。関東武士が一夫一妻での婚姻は、経済的な面もあるが、血統の明確さを求めた事もあると考える。

 

(鎌倉 妙法寺)

 現在発刊されている葉山修平氏訳・西沢正史氏監修の「現代語で読む『曽我物語』」では、「左殿と伊藤の北の方を引き離した江馬次郎も打たれたが、幼い子供は北条小四郎義時の願いによって、許されて預けられた。そして義時の烏帽子ごとなって成人した。後の江馬四郎である。」と記述されている。真名本・流布本の『曽我物語』にはその記述はない。そういった根拠のない記述は歴史文學では許されるのか疑問を持つ。

横上手雅敬氏は、「結局泰時の母が誰であったかは知る由もないのである」。小説等で表現する事は自由であるが、歴史科学として取り扱う場合は、根拠と証拠による証明が必要であり、泰時の母が八重姫というのは、その証明がなされていない単なる推論、憶測としか私には考えることが出来ない。

 北条泰時は、父を北条義時(長寛元年生まれ)二十一歳の寿永二年(1182)に生まれ、出生日は定かではない。寿永二年という年は、源頼朝が鎌倉大蔵の御所に移り二年が過ぎていた。鎌倉幕府にとっては、木曽義仲を破り覇権争いを終息させ、平家追討の準備が整った年であり、激動の時期に入る前年であった。北条泰時の母は、『系図纂要』において「官女阿波局」との記載があるが、母・阿波局がどのような人物であったかは定かではない。近藤世一氏の『執権北条義時』では、同時代に同名の阿波局は泰時の伯母であり父・義時の妹がいるため名前を誤伝したとする説もある。阿波局は源頼朝の異母弟・阿野全成に嫁しており、全成が建仁三年(1203)に頼朝亡き後、将軍についた頼家に対する謀反を理由に殺害された。この謀叛は北条時政の謀略であったと考えられている。阿波局は、後に三代将軍となる実朝の乳母であり、全成の捕縛時、将軍頼家は伯母である阿波局も何らかの関係性があると考えて捕縛しようとするが、頼家の母であり阿波局の姉の政子が拒絶して救った。後にも政子の庇護を受け、政子と北条氏のために働いている。横上手雅敬氏の『北条泰時』には、「『いかにも北条氏らしい女性である。この阿波局と別に泰時の母がいたとは思えない。』と言って姉妹と結婚する筈もなかろう。阿波局が母のように泰時を養育したほどの事は考えられるが、結局泰時の母が誰であったかは知る由もないのである。」と記述している。  ―続く―