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鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

斑足王の事

 母の勘当の許しを得る事は、未来永劫に渡っても叶わない事と、五郎時至は思いながら再び語った。

 「『仁王経』の文章を御覧なされていませんか。昔、天竺に大王がおられました。名を斑足王(はんそくおう)と申されます。外道羅陀(斑足王に邪教を教えた師)の教訓により千人の王の首を取り、塚の守に祀り、その位を奪い、大王になろうとして、数万の力士を集めて、東西南北、遠国近国の王城に押し寄せ、押し寄せ搦め取り、既に九百九十九人の王を取っていた。今一人足らずに、

『如何したら良いのだ』と言うと、ある外道の者が教えて言った。

『これより北へ一万里行くと、王がおり、名を普明王と言う。これを取ると、千人に達する』と言う。やがて、力士を差し遣わして、この王を取った。今、千人に達したので、一度に斬ろうとした。ここで、普明王は合掌して言うには、

『願わくは、私に一日の暇を与えよ。故郷に帰り、三宝(仏・法・僧)を召しいただき、僧侶に供え物をして死者の冥福を祈り、冥途のより所としたい』と言う。

『容易い事だ』と、一日の暇を与えた。その時、王宮に帰り、百人の僧を召して、釈迦が世に現れるまでに出た過去の七仏の法により、般若波羅密多を講読すると、その第一の僧、普明王のために四苦からなる仏徳の賛嘆や教理を述べた詩句を解いた。

『劫焼終訖(ごうしょうしゅうきつ:劫火に焼きつくされ)、乾坤洞然(けんこんとうねん天海は空しくなり)、須弥巨海(しゅみこかい:須弥山も大海も)、都為灰陽煬(といけよう:すべて灰になってしまう)』と述べられた。普明王はこの文を聞いて、仏教が説く、苦諦・集諦・滅諦・通諦の真理と、人間が前世・現世・未来の三回を流転する輪廻の様子を説明する、十二の因果関係の過去の二因の無明・行、現世の識・名色・六処・触・受の五果、愛・取・有の三因と、未来の生・老死の二果を和え合わす、四諦(たい)十二因縁の法華無空を悟り得た。

 

 それは、全ての有無を、無為の諸法で観察すると、一切は空であるという法眼空を悟る事である。それ故に、斑足王は、諸法空(しょほうくう:法眼空と同義)の道理を聴聞して、たちまち悪心をひるがえして、取り込まれた千人の王に向かい申すには、

『面々の咎・罪ではなく、私が外道に勧められて、悪心を起こした。不思議な至りである。今はお助けしましょう。急ぎ本国へ帰り、般若を修行して、仏道の修行を行われよ』。たちまち、道心を起こして一切の事物・事象の無生を悟る無生法忍を得て、許されると思います。これも、斑足王の道心を起こし、共に無生法忍の仏果をえられたのではないでしょうか。これも普明王を許されたこそ、共に仏果を得られたのでしょう」。この話を母は聞いて、

『その様に、仏果を明らかにして、多くの人を助なければならない。それでは、お前が法師になって私を救わないのだ。真に大切な物に従って、道が遠ければ、休む事、地を選まず(孔子家語致思篇:自身の信念にしたがって進む道は遠く険しいものであるが志があれば休む場所や環境を選り好みしている余裕はない)。家貧にして、親老いたれう時は、官を選ばずして仕へよ(親が高齢になったなら、仕事の内容を選り好みしている場合ではない。どんな仕事であっても精を出して働き、親に孝行を尽くしなさい)と言う、古き言葉にも見られる。如何して、私の言う事を聞かないのです」。五郎も覚悟を決めて訪れた事なので居を正し、畏まって、

「ただ御慈悲には、御許しが必要です」とのみ申した。

 

 そうしている中、十郎は我が居所におり、五郎を待っても、帰ってこず、あまり遅いので、また母の方に訪ねて見れば、五郎が屋内に入らず、広縁に泣き萎れていた。あまりにも不憫で可哀そうに思えて、障子を引き開け、畏まって、五郎が申す理をつくづくと聞いてみた。少し経ってから、

「某、多く兄弟がおりますが、身が貧しく、別々に住んでいます。ただあの者一人こそ、連れ添い一緒に行動しています。この祐成を不憫に思われますなら、御慈悲を以って、お許しいただけないでしょうか。子があっても貴方様の御身の回りに寄り添う者は、私たち二人しかおりません」と言うと、母はそれを聞いて、

『心が通じれば互いに遠く離れ、疎遠であっても兄弟であります。意に背けば、血のつながる親子兄弟も又恨み合う相手となります(『漢書』五十一鄒陽伝〔しゅようでん〕)。智者の敵となれども愚者の友とはなるべきでありません(『五常内義抄』上・義和也不偸盜戒・一)。位が高くない事を嘆くより、知恵が広くない事を嘆きなさい(『後漢書』五十九・張衡列伝第四十九)』と、『漢書』の言葉ではないでしょうか」と言うと、十郎はこれを承り、

「それは確かにそうでございますが、『観経(かんぎょう:大乗仏教の経典の一つの「観無量寿経」の略称)』に書かれている文を見ると、『諸仏念衆生(諸仏は人を憐れむが)、衆生不念仏(人は念仏もせずに)、父母常念子(父母は常に子を心配するが)、子不念仏父母(子は父母に気を掛けない:仏典にはこの一文は見当たらない。鎌倉期以降に禅僧等によりもたらされた文言であるという〔渡瀬淳子〕)』とも説かれています。この言葉を訳すれば、『仏は衆生を思召され共、衆生、仏を思い奉らぬ(仏は人を思うが、人は仏を仏とも思わず)』と説かれています。親として、子を心配しない者はございません」と。母はそれを聞いて、

「そなたは、親に物申すと。ならば、この私が自ら、子の孝行と言う事を教えましょう。孟宗(もうしゅう:中国三国時代の五の人。『五常内義抄』上・任着也不殺生戒・第一)は、雪の中で筍を見つけ、王祥(おうしょう:中国後漢末期から西晋にかけての人)は氷の上に魚を見つけ、花眼(かげん)は眼抜き、恩勝(おんしょう)は、耳を焼き、知足(ちくそん)は足を切りました。禅面(せんめん)は舌を抜き、華徳(くわそく)は歯を施し、光明(こうめい)は身を温め、妙色(おしき)は我が子を殺しました。これは皆、孝行のためではありませんか。

 

 『扁鵲(へんじゃく:漢以前の中国における伝説的な名医)も針鑰(しんやく:鍼灸の薬)なしに病を治す事は出来ませんでした。賢聖王(けんせいおう)も善言を聞かない君は何の用にも立たない』と。人の言葉を聞かない者は、いったい何に使えるのでしょう。その上、不孝行の者とは同じ道でさえ歩かないとあります。急いで出て行きなさい」と言い放たれた。祐成が重ねて申すには、

「一旦の御心に背き、時致が法師にならなかった事は、不孝には違いございませんが、父母に心ざし深い事は、法師になるだけではなく、僧俗の形でもございません。時致が箱根にいた時より、法華経を一部読み覚えて、父のために、早二百六十部を読誦いたしました。また、毎日六万返の念仏を怠らず、父に回向(死者の冥福を祈り)申したと聞けば、大地を司る神、堅牢地神も、地を重く思われなかった事でしょう。不孝のために勘当された者の踏む後は、耐えがたいほどの骨身にこたえて、悲しみ憐れんだことでしょう。一つは、その跡を弔い、一つは、御慈悲を以って祐成をお許しください。父に幼少より先立たれ、親しい者は身の貧しさ故に相手もされず、母意外に、誰が憐れむと申されるか。今のように心強く持たれては、立ち寄る影もなく乞食となるでしょう。あまりにも不憫に思われませんか」。

 哀れ、現に今を最後と申されるならば、どうして容易であれようか、申し上げる事ではなく、密かに流す涙のために、何も分からなくなって、しばらくの間、言葉を放つ事は出来なかった。なおも『許す』と言わなければ、十郎祐成は、怒って見ようと思って、持っている扇をさっと開き、目を見開いて、

「とにかく、生き甲斐の無い若者には、何の益がありましょうか、御前に召し出し細首打ち落として、御目にかけましょう」と、大声を出して座敷を立った。女房達は驚き、

「如何されるのですか」と言って、取りつく袖を振り切り、板敷を荒く踏み鳴らして、怒るしぐさを示すと、母も驚き縋り付き、

「気が狂ったのか、貴殿は。身が貧しくて、思う事が叶わなければ、今の弟の首を斬ろうとする。それほどまでは思わぬぞ。少し、少し待て、貴殿」と言って、取りつかれた。十郎は好都合と思い、

「助けたまえ、お許し下され」と言うと、母は、

「そうであるなら許す。止まり給え」と言われると、その時、十郎は怒りを止めて声を和らげて、座敷に座り直し、畏まった。しかし、密かに流れる涙は止まらず、あれこれと言う事は出来なかった。五郎も恨みの涙を引き替えて、嬉しさの密めた涙をしきりに流し、前後をさらにわきまえず、ただ慎んでそこに居た。

※『仁王経』は『仁王護国般若波羅密多』の略で、『金光明最勝経』『法華経』と朝に護国三部経とされる。この教を受持する事に寄って、災害を祓い、福をもたらすと信じられていた。「般若波羅密多」は最高の知恵を完成させることを言うが、後に「講読」とある事から『大般若経』その物を差している。      ―続く―