鎌倉散策 鎌倉歳時記『曽我物語』九十五、禅師法師が自害の事、京の小次郎餓死する事、三浦の与一が出 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

禅師法師が自害の事

 そうしてこの兄弟の弟に、御坊(伊東禅師)と言う、十八になる法師一人が居た。故河津三郎祐泰が喪中に生まれた子である。母が、夫の河津祐泰が討たれ亡くなった事で、思いのあまりに、生まれた子を棄てようとしたのを、伯父の伊東九朗祐清が引き取り養って、調度この頃、僧となるために、越後国の国上と言う山寺に登らせ、伊東禅師(律師)と言われた。祐清は平家に従い、源平合戦で亡くなっていた。祐清の妻は、親しき者であった事から、後に平賀義信の妻に召されて、その子も連れ子として義信の養子となる。その頃、義信は武蔵守護に就いており、この事を聞いた頼朝は、義信に仰せつけて伊東禅師を呼び寄せた。不安げに、家の子郎等の数十人を、領内に向かわせた事は不憫な事であった。大方、同じ兄弟と言うが、乳児の頃から他人に養われ、しかも出家の身であった。これもただ普通の事であれば、彼等にまで尋ねはなかったが、兄たちの世を超える、なを、天下に広げた由である。義信の使いが、国上の本坊に来て、この様な次第を述べた。禅師法師はそれを聞き、

「情けなや、弓取りの子が我が家を捨てて、他の人を親にする事は決してあってはいけない事である。このような罪過は、その血統を逆らって、僉議されるのだ。同じ死ぬ命ならば、兄弟三人が、一つ纏まって討死すれば、如何に人目も嬉しい事だろう」。今更後悔しても叶わず、仏前に参って、御経を開き、読もうとしても、文字も見えなく、巻を納め、数珠をさらさらと押し揉み、

「南無平等大慧(仏の知恵)、一乗妙典(法華経一乗の妙理を深く説く経典、いわゆる『法華経』の事)、願わくは、法華読誦の功力により、刹那の迷いの心から物事に執着する妄執を消滅させ、極楽浄土に迎え取らせ給え」と、神仏に祈り、剣を抜いて右手の脇に着きたてて、右手へ引き回そうとする所を、おなじ僧坊に住む者が早く見つけて、

「これはどうした事か」と取り付いて抑えた。禅師坊は、

「退いてください。人手にかかるよりも、清き自害をお見せいたします。一つは、同輩達の思い召される所もあり。空しく鎌倉へ捕らわれる事は、寺偸坊中の名誉が傷付きます。お放し下さい」と怒るが、大勢であるため力及ばなかった。その上いよいよ弱り果てた。誠に心ならず。人が多くおり、動かせずに、自害を途中で止めさせた。無念と言うも余りあった。御使いは、庭上に多くいて責めたが、力及ばず、将軍の命令にて鎌倉へ連れて行かなければならない。口惜しい次第となった。御使いが受け取り、輿に乗せて、鎌倉に上った。

 

(鎌倉 長谷 甘縄神社)

 君は、それを聞き御前に出て来られれば、担がれて参り出た。君はそれを御覧になり、

「僧よ、河津の子か」と、尋ねられると、禅師坊は、内容も知らずに、君の仰せを聞いて、両方の手を押し動かして、起き上がろうとしたけれど、叶わずに、頭を持ち上げて、

「さようでございます。伊東入道の孫でございます」と申した。頼朝は、

「さて、兄達が、仇を討ったことは知っているのか」と尋ねられると、禅師坊は、

「畏れながら、将軍の仰せとは思いません。同じ父母から生まれた兄弟が、親の敵討にと言って知らされ知っていたならば、例え出家をする身でも、同意せぬ者は畜生でございます。ご推察して下さい」と申し上げた。君はこれを聞いて、

「そなたの眼差しを見ると、頼朝に恨みがあると見えた。事を尋ねるために呼び寄せたのに、軽率にも自害は思いがけない事だ」というと、禅師法師は、

「軽率とは、いかに承る物ですか。すでに御使いを向けられ、召し捕れとの命をされては、その用意を行う事でございます。哀れ、兄達から知らせていただければ、二人の者共を祐経に押し向け、愚僧は、一人であっても、君を一太刀討つ事を、あの世で訴えて自分の功名にしたものを」と言って、御前をにらみ、畏れ入る事無く言葉を放って申したのを君は聞き、

「頼朝にはどの様な恨みがあるのだ」と尋ねると、禅師坊は、

「我らが先祖の敵、また兄たちの仇ではないでしょうか。これについても果報の優劣程、辛い者はございませ。ただ御威勢に押されて、この様にお伺いいたしました。畏れながら身が身でありますので、源平両氏の戦いに、何れ甲乙付きましょう」と申し、君はしばらく言葉を放たれずにおられた。少し経ってから、なおも心を見定めようと思われて、

「その傷のままでも生きていけると思うか。そう思えば、助けよう」と仰せ下されば、禅師坊は受け承って、からからと笑い、

「貴方は私の事をまともな人間とさえお思いにならないのですか。御助けがあるのであれば、どうして望み通りに、呼び寄せられたのでしょうか、もしかして、私が命乞いをするのをお聞きになろうと御思いか。あってはならない事に、人によってこそ、その様な言葉を述べられよ。残念な御言葉だ」と答えた。頼朝はその言葉を聞き、この法師も、兄弟に劣らず、助けたならば、また大事を起こすもので、良くぞ呼び寄せたと思われた。禅師が、重ねて申すには、

「とても助からない身で、たとえわずかな時間であっても、生き長らえている事は辛い」と、しきりに申すと、生年十八にして、終に斬られた。無慙な事となった。君は、この物の気配を見られ、

「剛なる者の孫は、剛なり。哀れ、彼らの世の杖とする恩を与えて召し仕えさせれば、仇討も思い止まる事もあっただろう。弓を取る武士の中で、誰が彼らに劣るというのではないが、これほどの勇士は、天下に居ない」と仰せ終わられぬうちに、涙を流され、御前に祗候していた侍たちも、涙で袖を濡らさない者はいなかった。

※『吾妻鏡』建久四年(1193)七月二日条に、「武蔵守(平賀)義信が律子と号する養子の僧を召し進め、昨夜(鎌倉に)到着した。この僧は曽我十郎祐成の弟である。このところ越後国久我躬山に居たので、参上が今まで延びたという。そして今日、梟首されると聞き、甘縄の辺りで念仏読経した後、自殺したという。(梶原)景時がこの事を申し上げた。将軍家(源頼朝)は大いに悔やんで嘆かれた。本より死罪にしようとの気持ちはなく、ただ兄に同意していたのか否か、召して訊問されるためだけであったと言う」と記されている。甘縄は、若宮大路の西南に広がる地域で、当時は二の鳥居より北で、笹目より東がその中心であった。

 

京の小次郎餓死する事

 ここに、曽我の兄弟に仇討の助力を話された同母の兄の、京の小次郎も、同じ八月に、鎌倉殿の御一門、相模守の侍に由良の三郎が謀叛を起こそうとした事で、止めようとし、由比浜(現鎌倉市の由比ヶ浜海岸)にて大きなけがをし、曽我に帰り、五日も経たずに亡くなった。五月に、兄弟ともと一緒に死んだならば、どれ程良かったかと皆が申した。

※相模守について真名本では、「鎌倉殿の御弟参河守範頼の侍」と記され。「謀反を起こした時、由比の浜で他人の仇を討ちに、助太刀をしようとして重症の傷を負い、五日目に死んだ。これを聞いた人々は、『ああ、同じ死ぬのならば、去る五月に弟達の敵打ちの助力を頼んだ時に引き受け、おなじ場所で死んだなら、どんなに立派であったかしれないのに、自分の敵でもない、他人の妻の密通事件の相手を召し捕ったからと言って、それほどの手柄でもあるまいに』と、忌み、非難した事だった」と記している。由良の三郎は真名本では条義三郎、『彰考館本』には由木三郎、『万法時本』にはゆうき三郎と記されている。

 

三浦の与一が出家の事

 三浦与一も兄弟の仇討に助力をしなかった者であるが、いく程なくして、将軍より御勘当を蒙り、出家した。人々はただ、義と信との道を糺した事であったのだと。

※「真名本」では、源頼朝が、「『三浦与一の振る舞いを聞くにつけて納得行かぬ。曽我兄弟の仇討を頼んだ時に、力添えをする事は困難であったとしても、これほどの立派な勇者達を、この頼朝に訴えてまで首を刎ねさせようと言うのは、どう考えても納得できぬ。たとえ赤の他人であろうとも、兄弟の事には同情するだろう。ましてや他ならぬ従兄弟である。他人の場合は、訴え出る事もあろうが、従兄弟に対してこうした行動に出るなど言語道断である。このような者は、頼朝のために役立つ者ではない。もし、一大事が起こったとしたならば、この頼朝にとって害となるものに違いない』。こうして三浦与一は間もなく勘当を蒙り、三浦の里には居づらくなって。高野山に上ったとの事である」と記されている。第十一巻はこの件をもって終わっている。  ―続く―