鎌倉散策 鎌倉歳時記『曽我物語』九十四、曽我にての追善 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

曽我にての追善

 そうして、母は子供から返された小袖を取り上げて、二つの小袖を顔に押し当て、そのまま倒れ、悲しみのあまり気を失った。女房たちは様々に介抱し、薬などを口に注ぎ、養生させれば、僅かに目を開いた。これだけはと思い、文を開いて読もうとするが、目も暗み、心も落ち着かないので、文字もさらに見る事が出来なかった。

「恨めしや、妾(わらわ)」とだけ言って、胸に文を引き当てて、また気を失った。少し経ち、息の下にて説明されるには、

「まことに、悟りに達せず、煩悩に束縛されて迷う者ほど儚い事は無い」と。この小袖を欲しいと言って、長き世までの形見と考え、他にも然るべき時もあっただろうに、わざわざ二人でここに来て、欲しいと言った理由も知らずに、返せと言った事を悔いるばかりです。五郎もこれが最後の機会と思って、この度、強く言ったのでしょう。短い親子の縁であると言うのに、不孝をしたとして勘当し、何年も一緒に暮らさなかったことが、悔やまれます。それでもやはり、五郎をなおも頑なに許さなかったならば、あの時に一目も見る事も出来なかっただろうに。久しく共に暮らさなかったからこそ、愛おしくも頼もしく思われ、せめて三日でも一緒にいる事が無く別れてしまった事が、名残惜しい事です。懐かしい面影を、何時かは見たいものです」と言って、声も惜しまず泣きだされた。いかなる身分の低い男女に至るまで、涙を流さない者は無かった。

 兄弟の同母姉の二宮朝忠の女房を始めとして、親しき人々が集まり、泣き悲しむ事、並み一通りではなかった。思いのあまり、母は、十郎の寝所であった所に倒れ入り、

「ここに住んでいたものを」とだけ言って、打ち伏して、心の赴くままに筆を操るのを見ると、

「一切有為法、如夢泡景、如露亦如電、応作是観」と書かれていた。我が身があるとも思わぬ、思い浮かべたままに朗詠し、見ていると涙も止まらなかった。この書物を書く台には、『古今』『万葉』を始めとして、『源氏』『伊勢物語』に至るまで、多くの草紙が積み上げ置かれていたけれども、今より後の慰みには、誰かはこれを見るだろうと、考え入る思いが勝っていた。文を二宮の女房に泣く泣く読んでもらった。聞くにつけても、志は心とも思えず。

「人の習いは、神や仏に参って、命を長らへ、幸福を祈るのに、この者共は、只明け暮れて死に失せる事だけを申したので、この度は逃れても、最期まで一緒に暮らす事は出来なかったでしょう。それに付けても、筥王は何時も不孝をして共に暮らせなかった事を悔やみました。それは草の影にてでも聞き、真には不孝をしておりません。詳しく言えば、法師にさせようとした事で、叶わずとも不孝と申されるが、赦す機会を亡くして何となく、月日を重ねた事であります。小袖・直垂を着せた時も、日頃と変わる事は無く、二宮の女房に着せるようにして取らせたのを、本当の事であると思い、私達が、薄情者には思えません。いっそうの事、何もせずに、今のままでいる方が、かえって嘆かれる原因と思います。いつも一緒に居たのであるならば、いよいよ名残も惜しいでしょう。こうして、我が身は、どうして何時までも生き長らえていられましょうか。辛い命、現実の例えとなるでしょう」と、悶え苦しんだ。曽我太郎も、

「幼き時より引き取り育て、可愛くて仕方がなかったので、実子にも劣らなかった。心様は、また優れていたので、梅と竹とを兄弟に見立てて思い、朝夕、疎かにはしなかったが、所領が広くないので、一所を分ける事も出来なかった。その上、勘当の身なれば、立派な風情でいるのも憚られる恐れがあると思えた事が、愚かな事であった。今更の後悔は何の役にも立たず」と、嘆いた。

 

 母は日の暮、夜が明けるに従い、いよいよ思いが増して行き、

「口惜しい浮身であるが、兄弟の将来が、もしかしたら良くなるかもしれないと思い、生きる甲斐も無い命を惜しんみました。今は、浄土にて生まれて会って、今一度会いたいものです」と言って、湯水を断って伏し沈んでいると、露の命の様に危うく見えた。親しき人達が集まっては、

「浮世の習い、貴方お一人だけの悲しみではございません。あれほどに、栄華を保った平家の公達も、一度に十人、二十人と、目の前で海中に沈み、弓箭に携わる武士の戦場での別れでも、日数が積もり、年月が過ぎてしまえば、そのままに過ぎた事となってしまいました。今の世には、あるいは父母に送れ、あるいは夫妻に別れを、また親子兄弟と離れ、嘆く者は多くおりますが、たちまち命を捨てる者はいません。誠に御子の為にも御身を捨てるような事は、道理に反すて罪は重い。どの様にお思いになられるか。嘆き悲しむ母の涙は逆に燃え立つ炎となって、子に降りかかる事を伝え聞きます。まして、このために命を失う事は、罪となる行い程度も計り知れない。どの様な事であっても、天寿を全うして、死後に成仏の果報を得て、後世菩提を訪ねなさい」と様々に申すと、僅かに湯水を飲む事は受け入れられた。何時までもそうしてばかりはいられないので、僧侶を招いて、成等正覚、頓証菩提(因位の修行を経て、修行の最終の結果としての一切平等で正しい悟りをかんせいすること)により、遺骸を葬った。

 

 母が弔われるべき身で、逆縁となった事に嘆き悲しんだ。実に、世の中に定められた事は無く、涙の種となる。箱根の別当も、この事を聞いて急いで曽我に下り、皆と同じように嘆かれた。

「筥王が出で行った時の面影に、愚老が涙の袖に留まり、師弟・親子の別れは、変わる事は無い」と言って、さめざめと泣かれた。その後は、持仏堂に参り、この菩提を弔われた。死後の七日目より始め、七日ごとにし十九日まで仏事を怠らず、死者の冥福を祈られた。誠に、阿弥陀如来が法蔵菩薩と称した時、全ての衆生を救うために立てられた四十八の請願は、十悪五逆の大罪をも、一念十念の力をもって、来迎引接(らいごういんぜい)せられる他力の本願は、頼もしい限りであった。この人々は、父の為に身を捨てた心ざしであるため、罪にしてしかも罪ではない。その上に、在世の時も、仁義を乱さなかった事で、現世で悪事を行ったものが、死んでから落ちていく所には、後の世まで、罪に問われる事は無いと、頼もしく思われた。

※「一切有為法、如夢泡景、如露亦如電、応作是観」は『金剛経般若』二に有り、因縁の和合によってつくられた現象的存在は全て移り変わって、はかないものだという。

 兄弟の遺骸を葬った事は、真名本によると、伊豆国住人の小川三郎が頼朝の命を受けて、兄弟の首を曽我の里に届けており、また、駿河国平沢の山寺の僧で兄弟の従姉妹に当たる宇佐美禅師が、富士野で兄弟の亡骸を僧奏し、六月三日に遺骨を曽我の里に届けたとある。

 十悪五逆の大罪は、十悪を、見、口、意の三業が作る十種の罪悪。殺生・偸盗(ちゅうとう)・邪婬の「身三」、妄語・両舌・悪口・綺語の「口四」、貪欲・瞋恚(しんい:怒る事)・邪見の(意三)の総称。五逆は、五首の最も重い罪悪。一般的には、母を殺す事、父を殺すこと・阿羅漢を殺すこと・僧を殺す事・仏身を傷つける事の五つを言う。これを犯すと無間地獄に落ちるとされる。十悪五逆の大罪は、極悪の罪業とされる。「一念十念の力をもって来迎引節し給うべき他力の本願、頼もしかりける」とは、一度又は十度、阿弥陀仏の名号を唱える事で、阿弥陀仏や菩薩らが来迎して、衆生を極楽浄土へ導く事は、自己の修行の功徳によってであり、悟りを得るものではなく、阿弥陀仏の本願によって救済される事が、頼もしく思われたことを指している。    ―続く―