伊豆次郎が流されし事
そうして、悪い評判がたちまち世間に知れ渡り、伊豆の次郎は未熟なものとして、鎌倉中に広く告げられ露顕した。畠山重忠は、御前にてこの事を聞き、申されたのは、
「曽我五郎を重忠が賜って、重代に伝わる太刀、香衡(こうひら)にて成敗すべきところ、最も卑怯で未熟者の伊豆次郎に下し給わっては、可哀そうな次第となり、口惜しく思います」と、君はそれを聞いて、
「その様な卑怯で未熟者である者に、誰にでも言いつけるような仕事など任せられようか」と言って、伊豆次郎は嫌疑を蒙り、奥州の外浜(陸奥湾に沿った津軽半島の海辺)へ流されたが、いく程も立たずに、悪い病気にかかり、同年の九月に、二十七歳にて亡くなった。これはひとえに、五郎時致の恨みの為の報いを受ける事になったのだろうと、憎んで悪口を言わない者はいなかった。時致は五月に斬られ、祐兼は九月に亡くなった。不思議な例であり、一切の者が、因果の法則によって動かされているという事が明白であると思われた。
※真名本においては、伊豆の次郎の記述はないが、「筑紫仲太が、わざと鈍い刀で、何度も何度も時致を斬った事が、鎌倉中に知れ渡り、多くの者が五郎に対し、修羅道での苦しみを救うために念仏を唱えたと言う。頼朝はこの事を聞き、大変お怒りになり、『その男の首も、その刀で擦り首に背よ』と申されたと聞き、急いで筑紫に逃げかえった。本領の願いが叶わなかったどころか、さらに、御勘当を蒙った上、人々には非難され憎まなかった者はいなかった。このようにして逃げ帰った甲斐も無かった。道中にも『五郎の祟り』と言って、毎夜苦しみ、筑紫へ下り付いた後、七日目に、狂ったように悶え苦しんで死んだ」と記されている。
鬼王・道三郎が祖替え帰りし事
ここに、祐成・時致の兄弟の郎等に、鬼王・道三郎と言う二人の者がおり、彼らは、富士の裾野の井出の屋形より、順々に受け取った形見を持って、曽我の里へ急いでいだ。しかしながら、惜しむ名残により、心は井出の屋形に留まっていた。実に、幼少より取り育て、世にも出られれば、我々ほどの者が他に居るはずがないと、人も思われ、我もまた頼もしく思ったが、この様になってしまえば、お慕い申しても、それさえ許される事も無く、泣く泣く曽我へ帰った。思いのあまりに、道の辺にしばらく休み、富士野の方を顧みては、松明が多く走り廻り。只、万灯篭の様であった。今こそ仇討が出来ぬと見れば、我が君の御命は、どの様になった事だろうと、大変不安になった。ただ二人がおられれば、大勢に取り付かれ、休む事も無く、今は自身も疲れたておられるだろうと思えば、走りかえって、御最期を看取りたいと思うが、離れていたので、叶わずに、ただ泣くより他は無かった
しばらくして、松明の数も次第に少なくなり、火の光も薄くなっていけば、主君の命もこの松明の灯のように儚く消えていくのだろうかと、火の灯も名残惜しく思えば、道の辺に倒れ伏して、声も惜しまずに泣いた。馬も、命ある物であるので、兄弟との別れを惜しんで、富士野の空を顧みて、二三度いなないた。
そうして本来あるべき姿から外れて、何処が何処なのかが、分からない山中にあって、気がかりなのは富士の裾野だった。泣く泣く空しい馬の口を引き、故郷へと急ぐが、先に進む事も出来ず、山路の行き先も定かに見分ける事が出来なかった。ここに、使いと思える手紙を持った者が、後ろから急いでやって来た。道三郎は袖を控えて、
「今宵、井出の屋形では、何事があって松明の数が多く見られますのか」と問うと、
「その事だ。知っていないのか。曽我の十郎・五郎と言う兄弟が、一族の工藤左衛門尉殿を、親の敵として討たれた。あまつさえ、将軍のおられる御所の中まで斬り入って、日本刀で斬り会えば、命を落とし、無傷で済む者など一人もおらず、手負い・死人が三百人にも及んでいる。しかし、兄の十郎は、夜半に討死した。弟の五郎は、明け方に、生け捕られた。この人々の振る舞いは、天魔・鬼神の荒れる如く、この様に大変な事となってしまった。この事を大磯の虎御前の妹、黄瀬川の亀鶴御前より、大磯へ告げるための使いである」と言って、走り通り過ぎた。鬼王・道三郎の二人の者共がそれを聞いて、仕損じたとは思わなかったが、一生の大事な事なので、不安に思い、何事も無く、本意を遂げられたと、嘆きの中に喜びがにじみ、預かった形見を方々に渡された。
同じくかの者共が遁世の事
そして、この二人は我が家にも帰らずに、高野山に尋ね登り、共に髻を斬って、墨染の衣を着て、仏の道に心を向けて、一筋に敵を討った主の後生菩提を弔い、来世は極楽浄土に往生して、仏としての悟りを得る事が有難かった。 ―続く―





