大見・八幡を討つ事
仏教の全世界である三千世界では、目の前で心の内を見尽くされ、十二因縁の煩悩は心の中まで取り払われる。在家のままでも、出家の身であっても命は穏やかではなく、いくら長らえても、この様に暮らすのだと。伊東入道は、何につけても、身の行く末を、苦々しく思い、子息の九朗祐清を呼び寄せて告げた。
「私が生きている間の孝養(孝行)と思い、大見・八幡が首を取って見せよ」と言うと、
「承りました。この間も、内々、案内者を持って探していますと、他所へ出かけると言っていたと。もし帰って来たならば報告するようにと言い、その申す者の知らせを待っております。討ち漏らす事はございません」と言って座敷を立った。そうして、程なくして、
「帰って来た」と報告されると、家の子、郎党八十余人が兜を着けて狩野(現静岡県伊豆市修善寺地区および天城湯ヶ島区内)と言う所に押し寄せた。八幡三郎は相当な者にて、
「かねてより覚悟していた。何処えとも連れて行け」と言い、親しき者共を十人余り囲い置いていた。矢を素早く、激しく、それぞれ散々に射ち、たちどころに敵を射落とした。手持ちの矢を全て討ち尽くしたので、寄り集まり、
「主の為に命を捨てることは、露ほどにも惜しまず。所詮望む所だ」と言って、刺し違え、刺し違え、残らず死んでしまった。八幡は腹十文字に搔き破り、よわい三十七歳で死んでしまった。
即座に、大見藤太のもとへ押し寄せた。この者は、もとより心の劣ったもので、八幡が討たれたのを聞くと大急ぎで逃げ出し、狩野の境に追い詰められ、搦め取られて、川の端にて首をはねられた。九朗祐清は二人の首を取って、父入道に見せれば、
「立派に振舞った」と感心された。曽我にいる河津の妻女も、大いに喜んび、祐清は兄の敵を討って、入道が怒りを収め、ひと方ならない孝行と見られた。
ところで、八幡三郎の母は、くすみの入道寂心の乳母子であり、すでに八十歳になって、思いのあまり恨みがましく言われたのは、
「主君の為に命を捨てることは本望なれども、この乱の起こりを考えるには、亡くなった親の譲った事に背いた事である。しかるに、寂心が世におられた時、公達が数多見据えて、酒宴半ばの折節、持ち給われた盃の中へ空より大きなイタチが一匹が落ち入り、お膝の上に飛び降りたと見えたが、何処えともなく消え去った。世にも稀な不思議な事で、やがて陰陽師等に吉兆を調べさせたところ、『大いなる兆候にて慎みたまえ』と申されたのを、さしたる祈禱もなく過誤された。いく程なくして、寂心は亡くなられた。だからだろうか、後白河法皇元馬の離宮に渡られた時に、大いなるイタチ参って、泣き騒いだ。陰陽師の博士はお尋ねなされて、
『三日の内に御喜び、また御嘆かれた』と申された。それに合わせて申された如く、次の日に、鳥羽殿を出られて、八条烏丸(からすま)の御所に入られ、お喜びされた。次の日々、御子高倉宮(後白河天皇の第三皇子。三条宮以仁王)の謀反があり、京から奈良に向かう奈良路で討たれて亡くなられた』。と言われた。不思議なる次第である」。
(岩手県 毛越寺)
泰山府君の事
「この様な例を以て昔を思うと中国に大王がおられた。楼閣を好まれ、明け暮れ、宮殿を造られた。中でも、上かう殿(不詳)と号し、高さ二十余丈(60.6メートル)の高楼を立てられた。柱には銅(あかがね)、桁・梁は金銀であった。軒に珠玉(真珠と玉)・貴金属を編んで作られた瓔珞(ようらくの)装飾品をさげて、壁には青蓮(極楽浄土に咲く青い蓮)の華鬘(けまん:仏堂の梁などに掛ける荘厳具のひとつ)を付け、内には瑠璃(瑠璃:青い宝石、ガラスの古名)の天蓋(仏像や住職が座っている上に翳される笠状の仏具)を下げ、四方に瑪瑙(めのう)の帯を連ね、庭には珊瑚・琥珀を敷きひかれ、吹く風、降る雨のたびに蘭麝(らんじゃ:天下第一の名香、ジャコウ)を漂わせた。山を築いて亭を構え、池を掘って船を浮かべた。水に遊ぶ鴛鴦(えんおう:オシドリ)の声は、ひとえに浄土の荘厳と同じようで、人々はこぞって周りを取り囲んだ。仏菩薩がこの世に仮の姿で現れたように、確かに見られた。そうなると、大王は、玉楼金殿に座り、常に遊覧された。ある時、大高楼の柱に、イタチが二匹が来て泣き騒ぐ事七日、大王は怪しく思われ、博士を呼び寄せて占わせると、即座に考えて奏聞した。
『この柱の中に、七尺の人形があります。大王の形を悉く作り移して、封じ込め、人を殺す壇を立てて、神仏への供え物と備える器を添えられ、大きな呪詛をしております。この柱を割って見て下さい。中国より東方に住む異民族七百人がいる。滅ぼすべきです』と言う。
直ぐに、大王は上人に申して優れた高僧をお招きになって、この柱を割って見ると、博士の占った通りで、すさまじく恐ろしい有様でした。直ぐに壇を壊し、諸人を集められ、その中に怪しい者を召しとり、拷問すると白状する者は、七百人に及んだ。敵を悉く召し取り、三百人の首を斬った。残り四百人を斬ろうとする時、世界が暗闇となって、夜昼の境も無くなり、色を失う。人民は道に倒れ伏し、大王は驚いて言われた。
『我は、露ほどの私心が有って、彼らが首を斬る事はしない。下として上を嘲り、下克上の者(下層の者が国主や主家の者を凌ぎ、実権を掌握する事)を誅罰して、戒めを後の世に伝えようと思う故であります。若しもまた、我に私心があれば、天はこれを戒めていただきたい』。と誓って、三十七日飲食を止めて、高床にのぼり、つま先立ちをした。そして、
『誤りがあれば、一命をここにて消えさせていただきたい。もし誤りがなければ、諸所の天上界の神々よ、憐れみ給え』と祈誓して、貴き聖を招いて、『仁王経(仁王護国般若波羅密多経の略)』を書かせられた。三十七日に達した時、七星(北斗七星)が、眼前に天下り現れた。しばらくして、日月星座は、光を輝かせた。さればこそ、政(まつりごと)に間違ったことは無いと、残る四百人を斬りなされた。ここで、博士がまた参内して、
『大敵は滅び果て、御位長久なる事は、他に方法はございませんでした。しかしながら、調伏の重大な行為は、その効が残り、恐ろしければ、結局、天下(あまくだり)られた七星を祀り、上こう殿に宝を積んで、一期に焼き捨てて、災難を祓われなされ』と申したところ、『とやかく言う間でもなく』たちまち、今まで述べた事柄を星座により吉兆を占い、諸天に請じてこの殿ともに焼き捨てられた。
(鎌倉 由比若宮、もと八幡)
今の世までも、イタチが泣き騒げば、慎みて水を注ぎ、呪(まじなう)うのは、この事によって行われた。したがって、七百人の敵滅び、七星が眼前に下り、光を輝かされる事、七種類の災難(日月失度難、星宿失度難、災火難、雨水難、悪風難、亢陽難、悪族難)がたちまち消えて、七福(無病、瑞心、身香、衣浄、肥体、多多、人饒)が現われる事が明らかに定められた条文と叶えられた。今の世の泰山府君の祭りはこれである。大王はこの宮殿を焼き、政を行い、御位調整殿に栄え春秋を忘れて、不老門に、日月の影が静かに廻り、吹く風は枝を鳴らさず、降る雨塊(つちくれ)を動かさず、世を泰平に治めて、永久の御代を栄えさせた。めでたい例である」。と寂心の乳母はこのように語られた。 ―続く―