鎌倉散策 鎌倉歳時記 七、鎌倉の歴史を記する諸本 仏教説話(四) | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 『沙石集』に記される坂東武者の一人、畠山重忠について触れてみたい。畠山重忠は、武蔵国男衾(おぶすま)郡畠山郷(現、埼玉県深谷長畠山)を領する平姓畠山の開祖・畠山重能の子として生まれた。畠山氏は坂東八平氏の一つ、秩父氏の一族で、重能は、秩父重弘の長子として生まれたが、秩父氏は弟の重隆が継承している。畠山重能は弟・有重と共に、源義朝・藤原信頼が武蔵稲毛荘の成立に携わったと考えられ、保元元年(1156)の保元の乱では源義朝に近い立場をとっていた。しかし、乱には参加しておらず、義朝の長子・義平の軍に加わり大蔵合戦にて武蔵国惣領(武蔵国留守所総検校職)であった伯父の重隆と、義朝の弟・義賢を討つが、惣領を継承したのは重隆の孫・河越重頼であった。『源平盛衰記』では、この合戦で討たれた義賢の子になる二歳の駒王丸(後の木曽義仲)を幼子に刃を向けるのが不憫と思い斎藤実盛に託し木曽へ逃している。

 

 平治の乱では、『平家物語』『愚管抄』によると重能・有重兄弟はこの頃には平家の郎党とした記載されており、平治元年(1159)平治の乱で源頼朝を破った平清盛は、翌年の永暦元年に戦功として東国の要衝である武蔵国を平清盛の知行国として与えられた。清盛の子・知盛が武蔵守となり、その後、弟知度、嫡子知章により二十三年の間を治めている。畠山氏はこの為。武蔵国の在庁官人として畠山庄司を称した。治承四年(1180)の以仁王が平家討伐の挙兵の令旨を掲げた際、畠山重能は大番役のため京に上洛中であり、この間に武蔵平氏の武士が平家に従ったのは、平知盛の治政が優れていた結果、そりに恩義を感じて、以仁王の令旨に従わなかったと推測される。

 

 

 『吾妻鏡』治承四年(1181)八月十七日条に、平治の乱で敗れた源義朝の子・頼朝が以仁王の令旨に従い挙兵し、北条時政らが韮山にある伊豆国目代の山木兼隆を襲撃し討ち取った。しかし、石橋山で敗れた頼朝は、再起のため安房に向かう。頼朝挙兵時には、秩父氏の有力一族である畠山重忠・河越重頼・江戸重長は平家側に付き、三浦氏の居城である衣笠城を攻めた。三浦義明は氏族を安房に逃がすために孤軍奮闘して討ち取られる。石橋山で敗れた頼朝は、安房で千葉常胤・三浦義澄等を率い、上総では上総広常を率いれて軍勢三万騎に及んだ。

 九月二十八日条には、江戸重長に「大庭景親の催促を受け、石橋山で合戦したのはやむを得ない事であるが、以仁王の令旨の通りに(頼朝に)従いなさい。畠山重能・小山田有重が折しも在京しており、武蔵国では現在汝が棟梁である。最も頼りにしているので、近辺の武士達を率いて参上せよ。」と伝えている。二十九日条には、江戸重長は頼朝の参陣の要求にも形成を観望して応じなかったので頼朝は葛西清重に「大井の要害であいたいと偽って重長を誘い出し誅殺するように命じた。

 

 当時の頼朝の軍勢において、武力に優れた武蔵国の武士においても勝敗は決していた。交戦せず帰順するなら良いが、交戦した場合、被害を最低限にするために弱小の領主を撰び帰順させることにより戦局を有利にし、後の没収した所領の治政においても有効である。またその勲功として所領を与えることにより恩義が重くなり、後の武士においての勲功の例となる。これは後の鎌倉幕府、将軍源頼朝への御家人の御恩と奉公にもつながる事である。

 同年十月二日条には、大井川・隅田川を渡り渡り、平家の知行国である武蔵国に赴いた際、そこに真っ先に駆けつけたのが葛西清重であり、同四日に江戸重長は畠山重忠と河越重頼と共に帰順した。江戸重長も畠山重忠と河越重頼が参陣した事で、自身も帰順する。この帰順は、葛西清重が、次代の形勢を見計らい、坂東武士が、朝廷・貴族に搾取されなく、安定した所領運営を営むために、源頼朝に帰順することが好ましい事を秩父一族に伝え廻らしたのではないかと推測する。

 

 畠山重忠は、鎌倉に入るまで頼朝の軍勢の先陣を任され、その後は木曽義仲の追討、源平合戦、奥州討伐において勲功を尽くし、源頼朝から寵愛を受け重臣として扱われた。頼朝死後の比企氏の乱においては、北条時政の娘婿であったため北条氏に付いている。しかし、北条時政に謀反の嫌疑をかけられ、元久元年(1204)六月二十二日に嫡子・重保が鎌倉の由比ヶ浜で誅殺され、「鎌倉に異変あり、至急参上されたし」と、虚偽の知らせを受けた重忠は、狩衣姿で百三十騎を伴い鎌倉に向かう。しかし、途中の武蔵国二俣川で北条時政の子息・義時と時房他幕府の軍勢数万騎が待ち伏せ、従者たちから領地に戻り体制を立て直して戦に臨むことを進言されるが、逃げる事により謀反を肯定するならば、このまま戦って謀反を否定することを望み、奮戦して討死し、畠山氏は滅亡した。

鎌倉初期において畠山重忠と河越重頼とは、幕府内部の抗争によって滅ぼされたが、葛西清重と江戸重長は幕府に仕え子孫も反映している。

 

 『沙石集』米沢本巻四の三話「聖の子持てる事」、『雑談集』巻七「礼儀事」に畠山重忠の記述がある。「概して時代が下り、人の器量も劣り、知恵も行徳もある商人は年を追うごとに希になったと思われる。上古には尊い上人も智者も多かった。そのわけを考えると在家と出家と道は異なっても、昔は心勇ましく、増長した振る舞いもあった。昔の武士は王位さえも奪おうとし、将軍の面目をつぶそうとした。平将門が平親王と言われたように、また畠山重忠が館の中に煙を立てなかったのは鎮守府将軍の地位を念頭に置いていたからだと言われている。そのような武士の親類骨肉で出家して仏道に入った者は、皆、知恵も深く修行も激しく気量も優れて志も大きいのである」。

 『雑談集』「礼儀事」には、「世間の人は礼儀があれば家を治めて身も安泰である。礼儀を乱して増長した人は、昔から皆滅び失せた。平将門・藤原純友・藤原信頼・平清盛などである。近頃も増長した人が早くに滅んだ和田義盛・畠山重忠はそのたぐいである。礼儀を重んじる人は皆、家が安泰なのである。」と記される。畠山重忠というと頼朝の忠臣として、坂東武士の鑑として称された人物であり、幕府の評定衆には加わることなく、評定衆と同格と見られる待遇を持ち、正治元年一月の頼朝の死に際して、重忠は頼朝の嫡子頼家を守護するように遺言を受けたとされる。しかし、無住にとってはこのように捉えられたのも興味深い。

 

 重忠の幼少の末子は、誅殺を免れて日光山に引き取られ、出家して重慶と名乗っている。重忠死の八年後の建保元年(1213)九月十九日、重慶が謀叛をたくらんでいるという知らせをうけ、将軍実朝は、長沼宗政に重慶を生け捕るように命じたが、宗政は重慶の首を持って鎌倉に戻った。実朝は、重慶を生け捕るように命じ、陰謀の如何によって処分すべきであったと宗政を叱責して、出仕を止めた。それを伝え聞いた宗政は、「この件は叛逆の疑いなし。生け捕って参れば、女どもの申し出により必ず許しの沙汰があると考えて今後このような事があれば、忠節を軽んじて誰が困ろうかと」と述べ、勲功の恩賞も武士には与えられず、女房・女官に与えられ、将軍が武芸を疎かにし、歌や蹴鞠などの芸事を盛んにする事で武芸が廃れると批判している。この長沼宗政を『吾妻鏡』では、「荒言現悪口の者」と記された。  ―続く―