『沙石集』には、鎌倉期の坂東武者の記述も残している。著者である無住の思考であるが、一般的な世情とも考えられ、当時の武士の概要を垣間見ることが出来る。
『沙石集』巻第七、四話「芳心ある人の事」
「故葛西の壱岐の前司(葛西清重)という人は、秩父氏の末流で、武芸の道で世間に認められた人であった。和田左衛門(和田義盛)が世を乱した時、葛西兵衛といって、荒武者で鬼のように恐ろしい和田一族を蹴散らした武士だった。心も勇猛で情けもあった人であった。
故鎌倉の右大将家(源頼朝)の御時、武蔵の江戸氏の所領が、事情があって没収され、葛西に与えられたところ、葛西は『御恩を賜りますのは、親族の者たちを世話するためです。わが身一つはどのようにも出もなります。江戸とは以前から親しくしております。間違いがあったのでしたら誰か他の者にお与え下さい』と申し上げた。頼朝が、『どうして受け取らぬのだ。受け取らないのなら、お前の所領も没収するぞ』と叱りつけても、『ご勘当を受けるのは運の窮まりという事でございましょう。どうしようもありません。そうかといって、頂くべきではない所領を、どうして頂くことが出来ましょうか』と申し上げると頼朝はさすがに江戸の所領も没収されなかった。上代は君主も臣かも仁義、情けがあった。末代は父子・兄弟が恨み敵対し、訴訟をして、土地の境界や財産を争うこと、年を追って世間に多く聞こえるようになってきた」。
葛西清重は桓武平氏の流れを汲む秩父氏・豊島氏の庶流で、源頼朝に従い、歴戦して鎌倉幕府初期の重臣となった。奥州藤原氏を追討後には初代欧州奉行に就き、葛西氏の初代党首である。
『吾妻鏡』治承四年(1180)八月十七日条に、平治の乱で敗れた源義朝の子・頼朝が挙兵し、北条時政らが韮山にある伊豆国目代の山木兼隆を襲撃し討ち取った。当時武蔵の国において畠山・河越・江戸・小山田氏・渋谷氏・豊島氏が所領を有していた。豊島氏は武蔵国手島郡と下野国葛飾郡葛西を有し、葛西氏は豊島氏の庶流であり、当主豊島清元の三男・清重が葛西を所領していた。しかし秩父氏の中では勢力的に葛西氏が最も低かったと考えられる。頼朝挙兵時には秩父氏の一族、畠山重忠・河越重頼・江戸重長は平家側に付き、三浦氏の居城である衣笠城を攻め、三浦義明は氏族を安房に逃がすために孤軍奮闘して討ち取られた。石橋山で敗れた頼朝は、再起のため安房に向かい、千葉常胤・上総広常・三浦義澄等を引き連れた軍勢三万騎に及んだ。
九月二十八日条には、江戸重長に「大庭景親の催促を受け、石橋山で合戦したのはやむを得ない事であるが、以仁王の令旨の通りに(頼朝に)従いなさい。畠山重能・小山田有重が折しも在京しており、武蔵国では現在汝が棟梁である。最も頼りにしているので、近辺の武士達を率いて参上せよ。」と伝えている。二十九日条には、江戸重長は頼朝の参陣の要求にも形成を観望して応じなかったので頼朝は葛西清重に「大井の要害であいたいと偽って重長を誘い出し誅殺するように命じた。
当時の頼朝の軍勢において、武力に優れた武蔵国の武士においても勝敗は決していた。交戦せず帰順するなら良いが、交戦した場合、被害を最低限にするため弱小の領主をえらび帰順させることで後の治政において有効である。またその勲功として所領を与えることにより恩義が拡大となり、後の武士においての勲功の礼となる。これは後の鎌倉幕府、将軍源頼朝への御家人の御恩と奉公にもつながる事である。
同年十月二日条には、大井川・隅田川を渡り渡り、平家の知行国である武蔵国に赴いた際、そこに真っ先に駆けつけたのが葛西清重であり、同四日に江戸重長は畠山重忠と河越重頼と共に帰順した。江戸重長も畠山重忠と河越重頼が参陣した事で、自身も帰順する。この帰順は、葛西清重が、次代の形勢を見計らい、源頼朝に帰順することが好ましい事を秩父一族に伝え廻らしたのではないかと推測する。
『沙石集』巻第七、四話「芳心ある人の事」の説話は、その時、頼朝の怒りは収まらず重長の所領を没収して真っ先に駆けつけた清重に与えようとしたものとされている。『沙石集』の著者無住は、吉田経房(藤原北家勧修寺龍の公家で頼朝から初代関東申し継を任じられた。吉田家後の甘露寺家の祖)や梶原一族との絡みで、頼朝は人を見る目と風雅を解する持ち主として描かれていたが、一方で激しい一面を見せる時もあった。そして葛西清重の頼朝の歓喜に触れても自信と一族の義と仁を貫く清重の姿に無住が賛辞を送ったと考えられ、また、清重の言葉を聞き入れた頼朝の懐の深さをも示している。この事が後に頼朝が葛西清重の忠義を認め重臣として初代奥州奉行に就かせたとも考えられる。そして「上代は君主も臣かも仁義、情けがあった。末代は父子・兄弟が恨み敵対し、訴訟をして、土地の境界や財産を争うこと、年を追って世間に多く聞こえるようになった」と括っているのは、故頼朝の時代から、無住の生きた鎌倉幕府末期の北条得宗体制の忠義と仁情けが無くなった違いを嘆いているのだと思われる。
―続く―