令和六年の年末、鎌倉に居住して五年間、十二月の二十八日から二十九日は、北鎌倉の円覚寺塔頭の龍隠庵に御餅つきのお手伝いに行っていた。毎年二十九日にはお手伝いの人が集まるが、二十八日は人が集まらない。特に餅つきの返し手は、経験と安全の配慮が必要で難しく重要であり、私が担っていた。初日は、集まった若い人に返し手の要領を教えながら、二日目には、返し手も多くなり、二日を乗り切る。檀家の人達が二十九日、福の日(二九)に二百人を超える人が集まり、その人達に餅を打ってもらうのだ。
お手伝いを終えた翌日には、筋肉痛や腰痛で体が動かず、年の瀬を過ごしていた。しかし、今年はクリスマスの後、持病の肩の痛が出て右手が肩より上がらなくなり、また今年は、二十八日が土曜のため人も集まるだろうと思い、断念した。当日ブログの資料や写真などを整理していると、十一時前に住職から電話がかかってきた。毎年、開催の有無やお手伝いの有無など連絡は無く、自然発生していた。返し手がいないで困っておられるのだろう。状況を説明して今年は、お手伝いが出来ない事を伝えると残念がられた。
今年は、よってのんびりと過ごし、食材を買いに大船の商店街を歩いた。年末、大阪にいる妻から、かまぼこ、昆布巻き、くぎ煮、数の子、いくら、つぶ貝、おつまみ缶詰、お餅等を毎年送って来てくれるので、鍋の具材と刺身、栗きんとん、みかんを買った。下町の風情を残す大船の町も新鮮に思える。大晦日には、紅白歌合戦も見ずにデオ三昧と明け暮れ、十二時前に寝床に入ったが、除夜の鐘は聞こえず、今年最後の夜を過ごした。
翌日の元旦は、七時前に起床して、朝食をすませて八時過ぎのバスで鶴岡八幡宮に参詣に出た。正月の三が日は、鎌倉街道の小袋谷から通行禁止となり、鶴岡八幡宮に向かうバスは、渋滞なく進む。八幡宮裏が終点となり、横道から入ることが出来なくなり、三の鳥居の参道迄歩くことになる。二年前の大河ドラマ「鎌倉殿と十三人」を終えた元旦は、すごい人出であり、参道の流鏑馬の道の前から並んだが、前年、今年と舞殿からの行列となり、本殿に続く階段での安全を計るための人数制限が掛けられる。四回制限にかかり、待ち時間が三十分で本殿に上がることが出来た。何時ものように自身の健康と家族の健康を祈り、おみくじを引く。今年は小吉であり、和歌や、その意味を伝える文言には、慎んで過ごせばよい事も起こるという意味であった。十分な年初めである。その後、白旗神社に参り、鶴岡八幡宮の境内を歩く。九時を回っており、三の鳥居の池の横には、屋台が広がり多くの人でにぎわっていた。
正月三が日の間、鶴岡八幡宮周辺と若宮大路、鎌倉駅周辺は、歩行者天国となり、何時もと変わった雰囲気になる。例年、元旦に行われる鎌倉えびすを見に小町の本覚寺に向かうが、コロナ以降規模が小さくなり、以前はこの日と本えびすの日には、福娘がおり、祝い酒を振舞っていたが、コロナ後その賑わいは無くなった。毎年ここでえびす大福とお茶を飲んでいるが、鎌倉も少しずつ正月の風景が変わっていくのだとしみじみと感じた。JRの鎌倉駅から横須賀線に乗り、北鎌倉でおりて、台峰を通り住居に戻る。山道に続く住宅街を登って行くと、北鎌倉の山之内の町から獅子舞だろうか、御囃子の音が聞こえて来る。いつまでも残してもらいたいものである。