令和六年十二月、鎌倉から大阪の住居へ向かう。今年四回目の帰阪である。毎回六日程度滞在して、友人に会い、また奈良、京都を歩く。今回は奈良の新薬師寺を訪ねた。
観光客が多い近鉄奈良駅から三条通りに行き、紅葉を写す猿沢の池、鷺池の浮御堂を歩く。次第に観光客も少なくなり、春日大社の脇道を歩くと、群れから外れた鹿が佇んでいた。志賀直哉の旧邸がある高畑の地区を散策して新薬師寺に向かう。薬師如来像と薬師如来を守る十二神将を拝観するためである。昔二度ほど訪ねた事がある。素朴な入母屋造の本堂の佇まいは、質素であるが、何故か趣深く、奈良期に立てられ、国宝とされる。そして本尊の薬師如来と十二神将は、力強く何度見ても良いものだ。古の天平の時代の彩りを想像すると予想以上の独特な美しさをしめす。
新薬師寺は、天平十九年(747)に、病気がちであった第四十五代天皇である聖武天皇の病気平癒を祈願して、光明皇后によって創建された寺院である。当時の天平年間は、火災や地震、そして疫病(天然痘)が多発し、社会不安をもたらしていた。聖武天皇は、仏教に深く帰依し、天平十三年(741)に、国分寺建立の詔を出し、天平十五年(743)に動植物が悉く栄える世の中を目指して、皆で力を合わせ、盧舎那(るしゃな)大仏を造営することを発願する。近江国紫香楽宮で行基をはじめ多くの人々と共に大仏造営に着手した。国政は橘諸兄(公明皇后の異父兄)が執り仕切り、この年に耕されない荒れ地が多いために、新たなに墾田永年私財法を制定する。これにより律令制の根幹が崩れることになった。
天平十七年(745)に入り、山火事や地震が頻発し、造営計画は中止されて都が平城京へ戻るとともに現在の東大寺仏殿がある所に造立が開始された。大仏師として国中連公麻呂(国公麻呂、)鋳師の高市大国(たけちのおおくに)、高市真麿(たけちのままろ)らが制作に携わった。聖武天皇は、この年体調を崩され、病気を治すために、都とその近郊の名高い山、清らかな場所で、薬師悔過(やくしけか)が行われ、都と諸国に薬師如来七軀を造立し、薬師経七巻を写経することが命じられた。悔過とは、あやまちを悔い改めるという意味で、薬師悔過、病苦を救う薬師如来の功徳を讃嘆し、罪過を懺悔して、天下奉平万民快楽を祈る法要である。これは悪いことが起こるのは、貪(欲ばり)、瞋(怒り)、痴(愚かさ)の三毒によって生じる罪業が、穢れとなって人々の心に蓄積されるからで、身を清め薬師如来の御前で罪を懺悔することによって心の穢れを取り除き、悪いものを掃い、服を招くことが出来るという考えである。
平城京の東の春日山の香山堂でも僧侶たちが精進潔斎して籠り、薬師悔過が勤修されたと考える。これをきっかけに、光明皇后によって春日山、高円山の麓に、新薬師寺(当初は香山薬師寺、香薬寺とも呼ばれた)が造営された。天平勝賓寶三年(752)に東大寺で大仏開眼供養会が営われた。新薬師寺の金堂には、七仏薬師(善名称吉祥汪如来、抱月智厳光音自在王如来、金色宝光妙行成就如来、無憂最勝吉祥如来、法海雷音如来、法海勝慧遊戯神通如来、薬師瑠璃光如来)が祀られた。金堂は平安時代の応和二年(962)の台風により倒壊し現存していないが、現在の本堂の西方百五十メートルやや南寄りにあり、堂内七薬師、脇侍の菩薩二軀ずつ、十二神将が並んだ東西に長いお堂(横幅六百メートル)だったことが最近の発掘調査で確認され、その他に壇院、薬師悔過所、政所院、温室、造仏所、寺園、東西の党が存在したことが資料から分かっている。現在の寺地の八倍強はあり、大きな寺院であった。鎌倉時代までに、稲門、南門地蔵堂、鐘楼などが立てられ、本堂を中心とした現在の伽藍が整備され、修理を繰り返し今に至っている。現在でも一月八日と四月八日には薬師悔過が行われている。
新薬師寺は、この規模の寺院としては国宝に指定されている物が多く、先述した本堂、そして奈良期から平安初期に制作されたとする像高百九十一センチメートルの薬師如来像である。頭と胴体など体幹部は一本のカヤの木から掘り出され、手と足は同じカヤの木から寄せ擬し、全体の木目を合わせて一本の木から丸彫りしたように作られている。光背には宝相華樹が大きな葉を翻らせ花を咲かせながら上に伸びて、花の上の六軀の小仏は本尊と併せられて七仏薬師を示す。薬師如来は東方浄瑠璃界の仏で菩薩として修行していた時、体から光を出して世界を照らし出す事、人々の不足を満たす事、病気をいやす事、正しい道に導くこと災難を取り除く事等、十二の願い事を立てられた。そして右手は恐れを取り去る法相で、左手には薬壺を持っておられる。目は大きく開き、穏やかで力強く、ふくよかな姿をされている。
十二神将立像は、像高が152から166センチメートルであり、奈良期の塑像の作で、国宝である。塑像は、木の骨組みに縄を巻き付け、そこに藁を混ぜた粘土をつけて大まかな形をつくった上に、紙の繊維と雲母を混ぜた土で上塗りしたもので、眼球は紺、緑、褐色のガラスの吹き玉で表現されている。現在ではほとんど灰色の塑像であるが、当時の色合いが、かすかに残されている。奈良柏原考古学研究所において三次元測定が行われ、当時の色合いも再現されている。表面の体軀には青、朱、緑に繧繝(うんげん)彩色と言う同系統の色ごとに濃淡をつけ立体感を生み出すグラディエーションされている。これら塑像は、白鳳期から奈良期にかけて作られ、平安期に入ると少なくなり、木彫りの仏像が作られ、鎌倉期には運慶快慶の慶派の寄木作りの木彫り彫刻が主流となった。
境内の入母屋造の地蔵堂、鐘楼、切妻造りの南門は鎌倉期の作とされ、切妻造の東門は平安後期から鎌倉期の作とされそれぞれ重要文化財である。
この十二月に入った新薬師寺の風景は、温暖化によるものか、まだ秋の気配を醸し出し、紅葉の色合いが墨絵の様な奈良の寺院の配色と重なり合って古の風景を引き立たせていた。 ―了―