鎌倉幕府五代執権北条時頼について綴って来たが、私自身が北条時頼を評価するのには難しい点がある。。『吾妻鏡』を見る事で御家人や民衆に対し撫民政策を展開しながら善政を施した事で名君としての評価は高く、仏教に対しての宗教心は高く感じられる。また『徒然草』において質素で堅実な記載が残されている。能において『鉢の木』に登場する人物として「廻国伝説」が有名で、時頼が諸国を旅して民状視察を行う事が物語られている。しかし、どうしても好感を持つことが出来ない面がある。
政治的に見ると、北条時頼の執権の継承は、寛元四年(1246)三月二十一日に、兄経時が深刻な病状に陥り、危篤状態となり、治療や「逆修」などの仏事が行われた。前将軍九条頼経が子息・頼嗣に将軍職を譲り頼経は大殿として鎌倉に残り、反執権・反得宗一派が巻き返しを図ろうとしていた時期である。同月二十三日に経時邸での「神秘の御沙汰」と呼ばれる幕府重臣の重代秘密会議が行われた。この会議で経時の二人の息子が幼少であったため、次弟の時頼に執権職を譲ることが決められる。『吾妻鏡』では、「執権を弟の大夫将監(北条)時頼朝臣に譲られた。これは、在命の見込みがない上に、二人の子息(後の隆政・頼助)がまだ幼いため、事態の混乱を防ぐために(時頼が)処置されるよう、虚偽の無い(経時の)本心から出たという。左親衛(時頼)はすぐに承知されたという」。これは経時の発案であったと言う。この記述は、時頼の相続を正当化するめに経時の発案と強調しており、また二十五日に、時頼が将軍家(九条時頼)と入道大納言家の両御所に参り、執権相続のお礼を申されとある。この執権継承に将軍家が関与していた事に疑問が残り、二十七日に、経時は出家の希望について内々に大殿(九条頼経)に申しでた。そして閏四月一日経時が三十三歳で死去している。順序が逆のように思われる。
兄・経時の子息・後の隆政・頼助の二人を見ると、経時の死後、六歳になる隆政は時頼の意向で隆弁に入室して僧侶となるが、時頼が死去する弘長三年の一月に二十三歳で死去している。『吾妻鏡』において、この日の死去の記述だけが記されている。三歳であった頼助は、時期は不明であるが、弘長二年以前(1262)には、兄と同じく出家していおり、山宝院・安祥寺・仁和寺各流を受法し、仁和寺流・法助の弟子となった。文永六年(1269)に頼守から頼助(らいじょ)と改名し、鎌倉に戻り父・経時の菩提寺である鎌倉笹目の遺身院を拠点とし笹目頼所とも呼ばれる。弘安四年(1281)四月十六日には元弘の危機を目前として執権北条時頼の命により、宿老の陣を差し置いて異国降伏祈禱を行った。弘安六年(1283)八月に、北条氏出身者として初めて鶴岡八幡宮十代別当に就任し、各寺の別当、東寺長者を歴任した後、正応五年(1292)に大僧正・東大寺別当に就任している。仁和寺の法助から頼助宛の置き文に、寺の事は鎌倉の執権北条時旨と重臣安達泰盛によくよく相談するように書かれており、鎌倉と京都仏教界の仲立ちを勤めたとされるが、法助の言葉から頼助が何故か危うい立場にいるように見て取れるのは私だけであろうか。
この経時の子息・隆政、頼助の時頼による待遇に、疑問が残るが、後々に二人が反執権・反得宗と結びつき、執権就任の正統性が損なわれた場合、時頼自身の得宗体制に大きな脅威となる事は言うまでもなかった。これらの教訓が、自身が出家し、院政のように権力を掌握しながら、幼少である自身の子息・時宗への継承問題で、目代として得宗家に従う北条庶流の長時や正村を目代として立てた。祖父北条泰時は、反執権・反得宗に対して法と政策により他の御家人から信頼と敬愛を受けていた事は言うまでもない。それは、祖父北条泰時の御成敗式目と撫民政策を見ることで理解できる。これらの政策を時頼は継承するが、政治的手腕において泰時の執権時には、一度も鎌倉に戦火を交えることが無かったが、宝治合戦において三浦に対して虚言の様な形で、安達氏の急襲により三浦氏を滅亡させている。いわゆるだまし討ちである。本来、時頼の思惑とは違う安達氏の急襲であるならば、安達氏においても戦後、何らかの処罰が必要であったことは言うまでもない。しかし母松下禅尼が安達氏の出身であり、自身の執権としての立場において、強力な後見人となる御家人が必要であったことも言わざるを得ない。これらの事により優柔不断ある側面を見ることが出来る。江戸時代の国学者の観点から本居宣長は忌避し、新井白石も『読史余論』の中で、「後世の人々が名君として賞賛するのが理解できない」と否定的な評価を下した。
仏教に対する信仰は、この時代、化学的根拠を示す事も出来ないため神仏に全てを委ねることは必定であっただろうが、最終的に決定するのは、その時代の為政者である。北条時頼が仏教に傾倒するのは、『吾妻鏡』を見ると祖父泰時の影響によるものが大きいが、特に宝治合戦の後からは、その傾向が強く示されている。曹洞宗の宗祖・道元が波多野義重らの招請により鎌倉に下向した事が、『永平道元和尚広録 三』『正法眼蔵随聞記 巻二』に記されており、『永平寺三祖業行記』、『建撕記(けんぜいき)』等の伝記では、時頼の招きにより鎌倉に赴いたとあるが、道元自身の記録・法語録等では、北条時頼からの招聘の事実は全く見られない。『建撕記』によると、道元は時頼に菩薩会を授けたという。そして時頼は、道元に対し寺院を創建するので鎌倉に留まるように要請するが、道元は「越前の小寺院(永平寺)にも檀那があり、大事にしなければならないので」と固く辞退したという。道元により知ったとされる禅宗について、その後に南宋から来日した臨済宗の僧である蘭渓道隆が鎌倉にたどり着くと、北条時頼により建長寺を建立され住持している。また、真言律宗の叡尊を鎌倉に迎え入れ、受戒を授かり、叡尊の鎌倉の逗留を懇請し、西大寺に荘園の寄進を申し入れたが、道元と同じようにこれを固辞した。叡尊が鎌倉を去った後に北条時頼は、蘭渓道隆と円爾の招きにより来日していた兀安普寧を鎌倉に迎え、普寧の指導により悟りを開いたと認められ印可を得た。そして後の建長五年(1253)に、建長寺第二世に就かせている。
蘭渓道隆は、建長寺で、南宋出身者の僧を集め、寺院においては全て中国語での会話を求め、無住の『雑談集』に「建長寺はまるで異国の様であると」記しており、南宋の臨済宗寺院のようであったと語られている。また規則と修行が厳しく、三十二年も滞在しながらも日本語を習得することが無かったという。建長寺二世となった兀安普寧は、建長寺本尊の地蔵菩薩を自身より下位であるとして礼拝しなかったという。当時として先鋭的な思想を持ち難解な講釈を行い、建長寺の本邦の僧徒もめごとが多かったことから、日本語の慣用句の「ごたごた」(基の単語は「ごったんごったん」)のの起源となったとされる。弘長三年に北条時頼が死去すると、支持者を失い文永二年に帰国してしまっている。前述した本邦の僧である道元並びに叡尊は、北条時頼に招かれながら、鎌倉の逗留と寄進を固辞した。
北条時頼が宝治合戦後に自信の業に対しての恐れを打開するように仏教に厚く頼っていったのかもしれない。石井進氏は北条時頼に対し、「聖人君主である北条泰時と比較すると、強硬手段や、悪辣な事も多くやっている」と評し、とにかくまじめで責任感は強く感じられながら優柔不断なところもある人物と考察するのは私だけであろうか。 ―完