『吾妻鏡』は、文永元年(1264))の記載が欠落しており、文永二年から加筆され、そして文永三年の七月で完結した。北条時頼の死去により、嫡子・時宗が北条得宗家の家督を継承し、また将軍家(宗尊)と御息所(藤原宰子)に惟康王が文永元年四月二十九日に生まれている。
文永元年(1264)七月に時宗が執権になるまで目代としてその地位についていた六代執権・長時が出家し、八月に死去した。一門の長老となる北条正村(北条泰時の異母弟)が七代執権となり、そしてこの年に十四歳になった時宗は、執権の補佐を担う連署に就任し、正村及び金沢流の祖・実時の協力を得て幕府内での次期執権としての地位を確立していった。北条得宗家専制政治の始まりである。『吾妻鏡』によると、文永二年(1265)九月二十一日に藤原宰子が姫宮(後の娘掄子)を産んだ。十月二十五日には、北条時頼の三回忌が最明寺で行われたことが小さく載せられている。また北条得宗家及び諸流と将軍家は、この年も親密なやり取りを行い、山之内の時宗邸や庶流の館に赴いて親交を固めていたようである。 この年将軍家・宗尊は、 二十五歳になっていた。
文永三年(1266)三月に、宗尊の内々の使者として藤原親家が上洛し、六月五日に親家が京から鎌倉に戻ると後嵯峨上皇から宗尊へ正室・宰子に関する諷諫(諫言)を伝えている。そして仙洞(後嵯峨から)内々に(宗尊に)御諫めの事があったと言い、それは中御所(藤原宰子)の事であったという。『外記日記』には宰子と良基の密通を宗尊が知り、父・後嵯峨院に師事を求めた物としている。同月二十日に、執権・正村、連署・時宗、実時、安達泰盛等の寄合衆による「神秘の御沙汰」が行われ、同日出産した宰子の験者を勤めていた幕府護持僧の松殿僧正良基が逐電した。
『吾妻鏡』六月二十三日条には、「御息所(藤原宰子)と姫宮(後の掄子)が急に(時宗の)山之内殿に入られ、若宮(後の惟康王)は相州(時宗)の邸宅に入られた。その為に人々が多くそこに駆けつけ、総じて鎌倉中が騒動した。二十六日条には、「近国の御家人が、蜂のように(鎌倉に)競り集まり、(鎌倉の)建物・路上にあふれたという」。
七月一日条、「御家人らに、関所を破って鎌倉に駆けつけたり、道を迂回して密かに参じた者があり、いずれも武器を持って郊外の民家に潜んだ。酉の刻(午後六時頃)になって急に騒動が起こり、群集した人々は具足を着用し、弓矢を持っていた。しかし何事もないままに暮れた」。
同月三日条、「明け方に木星が五諸侯(二十八宿の一つ井宿〔せいしゅく〕にあたるという星官の一つで、帝師・帝友・三公・博士・太史の五つ。ふたご座の一部)の第三星に接近した。今朝方より世情が不安定になり、家屋を破壊したり、資材を運び隠したりする者がいた。これはいずれも戦場になることを恐れたためであろうか。巳の一点(午前九時頃)に甲冑を着た軍勢が旗を掲げて東西から集まり、相州(北条時宗)の(邸宅の)門外まで密かに接近してきた。次に(軍勢は)政所の南大路で一同し、鬨の声を上げた。その後、少入道卿入道心蓮(武藤景頼)・信濃判官入道行一(二階堂行忠)が時宗の御使者として御所に参った。往復は二三度に及んだという。以前この様な軍勢が動いた時には、将軍家は執権の邸宅に入られ、またしかるべき人々が御所中に参上してこれを守護したようである。今度はそれが行われず、世間は怪しんだ。(宗尊)朝夕親しく近侍した近臣たちはみな(御所から)去り、周防判官(島津)忠景・信濃三郎左衛門尉(二階堂)行章・伊東刑部左衛門尉祐頼・鎌田次郎左衛門尉行俊・渋谷左衛門二郎清重らばかりが御所中に残ったという。
同月四日条、「申の刻(午後四時頃)に雨が降った。今日午の刻(午後零時頃)に騒動があった。中務大輔(名越)教時朝臣が、甲冑を着た軍兵数十騎を引き連れ、薬師堂谷(現鎌倉市二階堂。大蔵薬師堂の付近)の邸宅から塔辻(げん鎌倉市小町三丁目付近か)の宿所に来た。これにより、その近隣は益々騒動した。相州(北条時宗)は東郷八郎入道を解して、中書(中務省の唐名)(教時)の行動を制止された。(教時は)陳謝しなかったという。戌の刻(午後八時頃)に、将軍家は(宗尊)が入道勝円(北条盛時)の佐助の邸宅に入られた。女房輿をもちいられた。帰洛されるための御出門という」。名越北条氏は常に反得宗家の首謀的位置づけとなり、常に将軍家の近臣となっていた。宗尊の京都送還により、教時は北条時宗の制止を無視して軍兵数十騎を引き連れ、示威行動に出たのである。しかし、後の二月騒動で教時は、兄・時章と共に誅殺されている。
宗尊は、この日に女房輿で京に送還された。同月二十日に京に到着し、「左近大夫将監(北条)時茂朝臣の六波羅の邸宅に到着されたと記され、『吾妻鏡』は、この七月二十日の記載で終わっている。『五代帝王物語』等には、同月二十四日に三歳になる惟康王が将軍に就いた。十一月に宰子と掄子が御嵯峨上皇の取りなしで京に送還された。また、京に帰った宗尊親王に対し御嵯峨院は義絶して謁見を許されなかったとある。
(京都 清水寺)
『外記日記』の。この年の十一月二日に幕府は、宗尊に領地五箇所を献じ御嵯峨院に義絶を説くよう要請している。また、十一月十七日には、宰子と娘・掄子が御嵯峨上皇の取りなしで京に送還された。逃亡した良基について『外記日記』文永四年(1267)二月十四日条に、「良基僧正、去年鎌倉逃亡後、流浪して高野山に至り、断食をして入滅の風聞あり。」とある。その後、良基の弟子たちは十三回忌の供養を修めたが、良基は宰子と夫婦になり暮らしていたが露顕し、宰子の所領越前邦坂北庄が関東より召し上げられたという風聞が記されている。
宗尊親王が将軍を解任され京へ送還されるに至っては詳細な事情は定かではないが、宰子と良基の密通事件を口実に宗尊が謀反の嫌疑が掛けられ、将軍解任と京への送還が決定されたとする見方もある。また近藤誠一氏の『鎌倉幕府と朝廷』で、宗尊が宰子を離縁する様な強硬な措置を取ろうとして父の御嵯峨天皇に相談したが、後嵯峨はそれを好まず、幕府にとっても宗尊の行動は執権・連署との相談なしの独走であったために、宗尊は孤立してしまったのではないかとする推測もある。
(京都 鴨川 六波羅蜜寺)
文永五年(1268)正月に、高麗の施設が源の国書を持って大宰府を来訪し、蒙古への通商を求めながら服属と見られえる内容の国書が送られてきた。そして同年三月五日に、時宗十八歳が正村から執権を継承して八代執権となり、蒙古に対応するため得宗家一元化を計る事になる。北条時頼が死去して五年後の事であった。
時代は急激に変化して行く中で、文永九年(1272)二月に蒙古襲来の危機を迎える。幕府は、北条時宗を中心とした一元化体制を敷くために、北条得宗家と幕府の反勢力を一掃するために鎌倉では名越時章・教時(宗尊親王の側近)兄弟、京都では六波羅探題南方の異母兄の時輔を誅殺する。いわゆる二月騒動であり、そして二度に渡る鎮西(九州)での元の侵略戦に立ち向かうことになる。 ―続く