鎌倉散策 五代執権北条時頼 五十五、奥州禅門 北条重時の死去 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 文応二年(1261)二月二十日に弘長元年と改元される。弘長元年二月三十日、関東新制条々が発布され、寺社の神事の勤行の事、本社を修造すべき事、定められた勤行をすべき諸堂の年中行事などの事、諸堂を管掌する者に本尊を収蔵させる事、仏事の間の事、放生会の淺敷は倹約する事等。仏事・神事において慣例的行事は、衰えさすことなく必ず行い、臨時的行事には贅沢になることが無いように行う事が示され、僧侶に対しての質素倹約と勤行に励まない者は職を免じられるとする等の法制発布を行った。関東に祗候する諸人については、家屋の造作や出仕の際の装い以下の贅沢を禁止するよう定められている。また、放生会の淺敷は倹約する事、博奕の禁止する事、鎌倉中の橋の修理し、在家の前を掃除する事、病者・孤児・死体を道端に息を禁止する事、念仏者が女性以下を招き寄せる事、僧侶が頭を裹(つつ)んで鎌倉中を往来する事(保々に命じて禁止するように)、鷹狩りは、神社の供祭以外は禁止する事、早馬の事などが発布された。

 同年四月二十三日には、北条時宗十一歳が、安達義景の娘・堀内殿十歳と結婚している。堀内殿(葛西殿、後に覚山尼)は安達義景の娘で、堀内殿が生まれて間もなく父・義景が亡くなり、二十一歳違いの兄・泰盛が養父として育てた。時頼の母は義景の妹の松下禅尼で、安達氏は北条得宗家の支持勢力であった事から、再び次期執権となる時宗に嫁がせた事から外戚として幕府の最有力御家人の位置を保持する極めて政略的な意味合いが強いものであった。一歳違いのこの二人は、母方系の従妹同士で甘縄に住んでいた松下禅尼を祖母とする時宗と、叔母とする堀内殿は、幼少の頃から顔を見した仲で、時宗が祖母の邸宅に伺うと遊び相手でもあったと考えられる。また二人は仲睦まじく、時宗の妻は正妻の堀内殿のみであった。

 

(鎌倉 甘縄神社 安達盛長邸跡)

 翌二十四日、宗尊が、御息所宰子を伴い重時の新造極楽寺山荘に入御している。翌二十五日に、小笠懸が催されるため手配が行われた。射手十四名の記載が『吾妻鏡』記され、同日条に、「最近では必ずしもこの射芸を嗜まないいため、総じて堪能な者がいなかった。最明寺禅室(道崇、北条時頼)がこれを御覧になって自賛された。「故笠懸の芸については、太郎(北条時宗)がたいそう優れています。これを呼んで射させたいと思います」。皆たいそう面白がった。この時、太郎殿(時宗)は鎌倉の御邸宅におられた。そこで特使を遣わして招き奉られた。城介(安達)泰盛が奉行して御道具等を用意し、御馬は長崎左衛門尉(光綱)がさし出した。御的は武田五郎三郎(政綱)が造り進め、工藤次郎右衛門尉(頼光)が立てた。すでに馬場に列し、御馬〔鬼鴾毛という〕を出されたところ、この御馬はかねてより遠笠懸けに慣れていたため、的の前を走り過ぎようとしたため、的の前を走り過ぎようとした。そこで(時宗は)弓に番(つが)えた引目(鏑矢の一種で、笠懸や犬追い物などに鏃を除いて大型の鏑矢をつけたもの)を制されて、御馬を止められた。そこで時頼が「一度通り過ぎた後に射るように。」と仰った時、(時宗は)一度通り過ぎた後に射られた。その御矢は的串の一寸ほど上に命中し、的は塵のようにして烏帽子の上に舞い上がった。(時宗は)そのまま馬場の端から直接に鎌倉に(馬を)馳せて帰られた。人々の歓声とどよめきはしばらく止まなかった。将軍家(宗尊)の御感心は再三に及んだ。時頼は、「(時宗は)我が家を継ぐに相応しい器量だ。」と仰ったという」。

 

(鎌倉 甘縄神社 )

 六月一日に、奥州禅門(観覚、北条重時)が、急病で、その周辺に人々が群集した。この日、庭で怪異を御覧になった後、心身が呆然となったという。『吾妻鏡』同月十六日条によると、「奥州禅門(観覚、北条重時)の病気については、去る一日以後、毎日夕方に発作が起き、瘧(間歇熱の一種、多くはマラリヤを指す)の様である。そこで同十一日から若宮僧正(隆弁)を招いて加持をさせたところ、来る二十二日に快方に向かうであろうと、今夜、隆弁が申された。数人の御子息や縁者・祗候人はこれを聞き、いずれも不思議に思ったという。六月二十二日には、奥州禅門も病気がこの日の夕方に回復し、心身は元に戻ったと記されている。またこの日、三浦泰村の弟・大夫律師良賢を諏方兵衛入道蓮仏(盛重)・平左衛門尉盛時らが亀谷の石切谷の辺りで捕らえられた。これは謀叛の企てがあったためである。駿河禅師八郎入道(三浦種村)矢の元尼(若狭前司三浦泰村の娘)以下、その首謀者は数名であった。その為鎌倉中が騒動し、夜になって近国の御家人等が馳せ参じたという。二十五日には、この良賢の事を六波羅に伝えられ、都鄙の騒動を鎮めるため、御教書が送られた。謀反の企てがあったが、その身柄を拘束し、与した者はたいした者はいなかったため、在京や西国の御家人が鎌倉に参る事を禁じた。

 

(北条時頼像)

 この年の『吾妻鏡』は、鶴岡八幡宮の放生会について供奉人や随兵の諸役が定められるが、病気、老齢のため辞退者が相次いで出た事が記載されている。そして十一月三日、病気が回復されたと記されていた奥州禅門(観覚、北条重時)が急死した。

 『吾妻鏡』弘長元年十一月三日条、「寅の一点(午前三時頃)に、入道四位上行陸奥守平朝臣(北条)重時が死去した。発病した当初から、全てを投げ打ってひたすら念仏を唱え安らかに臨終したという」。この時は極楽寺の別荘に住んでおり、六月一日に、瘧の様な病を発症して鶴岡八幡宮別当隆弁の加持が行われ、二十二日に症状が回復すると子息たちに伝えたという。二十二日には、重時の病が平癒した事からこれを喜んだ重時や室家(平基親火)、嫡子・長時らが隆弁に馬・南廷(銀)・剣などを送っている。しかし、この日に急死した。死因は不明であるが六月の病が再発したかもしれない。享年六十四歳であった。

 

(鎌倉 極楽寺)

 北条重時は、三代執権・北条泰時の異母弟であり、承久の乱にはまだ年若く、従軍はしていなかった。しかし、同母兄の朝時よりも異母兄の泰時を慕い、泰時もまた重時の心情と武士でありながら文官としての資質を見抜いていた。父・義時急死後に、三代執権に泰時が就くと、自信の後任の六波羅探題北方に重時を就かせて朝廷との調整役を担わせた。仁治三年(1242)幕府による御嵯峨天皇擁立の際は、重時の同母妹竹殿を妻としていた土御門(源)定通と連携して擁立したとされる。泰時が病状の際に重時を鎌倉に下向させ後の幕府の対応を託したとされる。この際、南方の従兄弟・時盛が無断で鎌倉に帰還したため探題を解任され、泰時が没すると、泰時の孫の経時、そして時頼と執権に就く。不安定な時期に単独で六波羅探題を五年の間つとめた。寛元四年(1246)の宮騒動で前将軍の九条頼経が京へ送還され重時が御嵯峨上皇院司葉室定嗣を呼び、事件に関与した九条道家親子の更迭を御嵯峨上皇に奏上するよう要請する五代執権・北条時頼の書状を渡し幕府と上皇に御仲介を行っている。

 北条時頼は、鎌倉に重時を呼び戻す手配をするが、三浦泰村は、頑なに拒んだ。宝治元年(1247)の宝治合戦により時頼と外戚の安達氏により、三浦氏が滅亡した。その後、連署として重時は鎌倉に戻った。私見による推測であるが、もしも宝治合戦前に温厚であり誠実で合理的な重時が鎌倉に戻っていたならば、三浦氏の滅亡は無かったかもしれない。泰村は自身を窮地に追い込んでしまったかもしれない。

 

(京都 六波羅蜜寺 鴨川)

 御嵯峨天皇は、重時が京を離れる事に不安と悲しみの愁いを葉室定嗣に託した。常に北条得宗家を支援し続けた重時は、六波羅探題の後継は嫡子・長時を就け、長女・堀内殿(葛山尼)を時頼の継室に嫁がせ、後の八代執権になる時宗を産んだことで、舅と外戚の立場を得ている。自身の極楽寺流北条氏を得宗家に次ぐ家格にあげ、また、摂関家将軍が反得宗家の糾合の元となる事を避け、親王将軍の擁立に成功させた。その要因は、後嵯峨上皇が北条重時の信頼の上に成り立ったと考えられる。重時は、建長八年(1256)に出家し、連署を異母弟の正村に就任させ、時頼が病で出家した際に、嫡子・長時に時宗が執権に就くまでの中継ぎ(眼目)として執権に就任させ、後任の育成に努めたと考える。自身は、極楽寺別業に隠居し、後見として北条得宗家を補佐して、幕府政治の安定に寄与した。またその立場を厳守するために『六波羅探題御家訓』『極楽寺殿御消息』を著して、極楽寺流北条家を存続させるために子孫に託している。長年の京生活により熱心な念仏信者であったことを『吾妻鏡』は、「発病した当初から、全てを投げ打ってひたすら念仏を唱え安らかに臨終したという」と、重時らしい最期を記している。  ―続く