弘長元年(1261)年の正月、この年の埦飯も相州禅室(道崇・北条時頼)、奥州禅門(観覚・北条重時)、相州(北条正村)の差配で行われた。『吾妻鏡』においての記載は、一日、「埦飯〔相州禅室の差配〕。両国氏(北条正村・長時)以下が布衣を着て出仕した。まず東西の侍に祗候し、次に(宗尊の)お出ましの時刻を告げられた後、庭上の東西に分かれ得て着座した」。西座七十人、東側九十五名の氏名が記され、例年以上に盛大に行われたように窺える。正嘉三年(1259)からの正嘉の大飢饉も落ち着きを見せたようであった。
『吾妻鏡』同日条によると、「両国氏(北条正村・長時)以下が布衣を着て出仕した」とあり、その以下に北条時宗の名があったとされる。文応元年の三月に近衛宰子が御所に入った時に付き従った者が、北条正村、長時、大仏朝直、名越時章、北条義正、北条時宗・宗政であった。四月に将軍家(宗尊)が婚礼のため北条重時邸に入った際に、宰子も同車しており、供奉人(随兵)の中に相模三郎時利(北条時輔)の名があり、時宗・宗政は既に御所にて待機している。六月十八日には、鶴岡八幡宮放生会に将軍御息所・宰子の参詣に供奉する御家人の名簿が宗尊に提出され、その内容は、時宗を布衣供奉、時利を随兵とした差をつけたものであった。しかし、将軍家(宗尊)は北条時宗と時利(時輔)が、御息所御方の供奉とするように命じたが、北条時頼は元のように時宗を宗尊の布衣供奉、時利を随兵として従わせている。
弘長元年(1261)正月四日、北条時頼は、子息の序列を定めた。『吾妻鏡』同日条によると、「七日の供奉の事は、(宗尊)が御点(おとぼし:将軍や大名が家臣に御恩として与えられた土地)を加えた人員について、承知したとの返事を召し進めた。そうしたところ、最明寺殿(北条時頼)の御子息については、散状の様な物に記される順序がある。すなわち、相模太郎(北条時宗)・同四郎(宗政)同三郎(時輔)・同七朗(宗頼)と、この順序である。これは禅室(道崇、時頼)が内々に考えられていたところである。今回の書き様は、たいそう(時頼の)お考えにとは異なるという。工藤三郎右衛門尉光泰がその旨を受けて、事情を越州(金沢実時)に告げたという。実時が返答する事には、『今回の散状については、人々がすでに承知した旨を返答しています。この上は、今になって書き改めることはできないでしょう。(時頼のお考えを)直接に承った後、今後の方法を改めます。』という。この事は今日に限った事ではない。去年、安藤左衛門尉光成が継げたのもこの通りという。大層実時の考えとはことなっているのであろう。武藤少卿(景親)も同意見のため、去年の冬頃、時頼の御前でしばらくいとまを申し、勘当されたという。総じて太郎殿(時宗)が兄(時輔)の上に着座されるよう命じられたという」。何故か意味を読み取るのに難しさを感じる。
(鎌倉 東慶寺)
北条時頼は、子息の序列を定めた事は、継室(正室)が北条重時の娘・葛西殿で、得宗家の維持に極楽寺北条家・北条重時の能力と勢力が必要であったことは言うまでもない。また時輔(時利)の母が出雲国の御家人・三処氏の娘で、幕府女房であった讃岐局であった事から家格が違った。当時は、正室の子が嫡子となるか、家格の高い妻の子を嫡子となる。源頼朝も三男であったが、家格が高い正室であった母が、熱田大宮司・藤原季範の娘・由良御前であったため嫡子となっている。北条泰時の場合は、稀であり、母未詳でありながら、北条政子が弟・義時の長子で、その才覚を訴えて嫡子として執権職を継承させた。北条時頼の子息の序列として、相模太郎(北条時宗、十一歳)・同四郎(宗政、九歳)同三郎(時輔、十四歳)・同七朗(宗頼)と、時輔が長子でありながら序列を三番目に与えたのである。『吾妻鏡』においての時輔の記載は、時宗と比較するとやや簡潔であるが、出生から元服の記載もあり、元服の際の時宗の烏帽子親が宗尊親王、時輔の烏帽子親が足利利氏であった。利氏は清和源氏嫡流の当主であり、代々北条氏から妻を娶り、北条泰時の嫡子・時氏の娘を母に持つ利氏は烏帽子親として決して不当なものではなかった。時宗が元服するまでの間は、さほど差のあるような対応はなされず。それなりに父・時頼の処遇を受けていた。しかし、正元二年(1260)正月に時利から時輔に改名され、得宗家を担う時宗を助けるために輔の字が当てられたとされる。これらにより北条時頼は、正式に子息の序列を示し、嫡子・時宗として得宗家を継承する事を宣言した。この正式表明は、北条時頼自身が本来嫡子ではなく、兄・経時の死により執権になった経緯から家督としての正統性を欠いており、また時輔自身の意思にかかわらず、反得宗勢力の結節点になる危険性があったため、このような序列を示す事で回避しようとしたと考えられる。北条時頼にとっても、時輔の対応に苦慮していたと考えられる。
(京都六波羅密寺)
後のことではあるが、北条時頼の死後、翌文永元年(1264)八月に時宗が十四歳で連署となると、六波羅探題北方は北条時茂(北条重時三男)であったが、南方は存在していなかった。同年十月に十七歳の時輔が、六波羅探題南方となっており、佐助流北条時盛以来二十二年ぶりの南方となった。従来から得宗家近親者が京に派遣されることは多く、南方再建の命を含んでいたと考えられるが、一方、年少の時宗が執権に就くまで不安定な時期であり、反得宗家に担ぎ上げられる危険性があったために時輔を鎌倉から遠ざけられたともされる。時輔は無冠のまま京に上がっていたが、翌文永に年(1265)四月に、二十八歳で従五位以下式部丞に叙任されており、歴任した役職や官位などは北条庶流と見劣りする物は無く、得宗家庶子としては相応の扱いであったと考える。
文永五年(1268)二月に、蒙古牒状が来日し、元弘の危機を前にして権力の一元化を計るために三月には、時宗が執権に就任した。文永七年(1270)正月に六波羅探題北方の北条時茂が死去する。後の二年の間後任が決まらず、六波羅は時輔の影響が強くなったと見られた。文永八年に北条重時の嫡子で執権であった赤橋流の祖・長時と嫡子・義宗が六波羅探題北方に就任した。翌文永九年(1272)二月十一日に、鎌倉で北条(名越流北条氏)時章・教時兄弟が謀叛を理由に誅殺され、その四日後の十五日に六波羅探題南方の時輔も謀反を図ったとして、執権時宗の追討の命を受け六波羅探題北方・北条義宗により誅殺される。二月騒動である。時輔、享年二十五歳であった。時輔が上洛して九年目、時宗が執権となった三年目であり、蒙古襲来前に、反得宗家勢力の一掃により、北条時宗は、得宗独裁体制を確立した。時輔の母・三処氏の娘である讃岐局は、時輔が殺害されると出家して、父の所領地である横田荘に帰り、岩谷寺で時輔の菩提を祈った。その後に幾度と時輔の生存説が、風聞として示されており、多くの御家人や庶民が冤罪により誅殺されたことを惜しみ流れたのであろう。源義経の判官贔屓と同様に考えられる。 ―続く