鎌倉散策 五代執権北条時頼 四十二、足利泰氏の出家 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 『吾妻鏡』の建長三年十二月二十六日に、了行法師が捕縛され、尋問により謀反の一部始終が露顕した。この建長の政変は、宮騒動・宝治合戦で粛清された千葉氏の庶流・三浦氏の残党が再び幕府の転覆と九条頼経の将軍復帰を求めるための謀反を計画したとされている。鎌倉中は各近隣から御家人が集まり騒動となった。幕府は、騒動の拡大を恐れ、建長三年十二月二十七日に、謀反の衆を誅殺、また配流している。事件の首謀者の一人であった了行は、千葉氏庶流の出であり、かつ千葉氏本家の被官となっていた原氏の出身のため、千葉氏の菩提寺千葉寺の僧であった。宋への渡航僧であった事から、京都の九条家の御堂の僧となった人物でもある。『歴代皇記』建長四年正月一日条に、「関東飛脚到来す。九条大御堂住僧了行房、勧進と称し、謀反廻文の結構露顕の間、これを召取る。縁者ら召し取るべきの由と云々」とあり、了行が九条家大御堂住僧であった事と、勧進活動と称して謀反の与党人を募り、さらに京都でもそれに関わる縁者がいた事が示される。了行が千葉氏と九条家・九条道家とに非常に近く密接な関係であった。

 

 『鎌倉年代記 裏書』では、「了行の騒動により、九条道家一族は多くが天皇の処罰を受けた。ただし二条良実の親子は処罰を免れた」とある。九条道家と二条良実親子は不仲であり、宮騒動による鎌倉幕府将軍・九条頼経の失脚は、良実の讒言のせいであるとし、九条道家は良実を義絶していた。『吾妻鏡』建長三年二月十日条の末部に、今日相州(北条時頼)が自ら筆を執り、御書を二条殿(九条良実)に差し上げられた。今後、御心安く思うとの事という。」と突拍子に記され意味が不明であったが、この時に北条時頼は二条殿(九条良実)から謀叛の情報を取得して、時頼から良実に安堵を知らすものであったのではないかとも推測する。また首謀者の一人の矢作左衛門尉常氏は、千葉氏庶流の国分氏の出身でありながら、本家千葉氏は何ら連座の罪にも問われていない。元服が何時頃だったのかは不明であるが、当時十三四歳であった頼胤は、元服後に千葉氏八代当主として千葉介を称した。宮騒動(寛元の政変)・宝治合戦で追放・追討された上総権介千葉秀胤のように咎めを受けていない。本家千葉氏からの情報があったのではないかとも推測する。これらの謀反の情報取得により、鎌倉での短期的に粛正を可能とさせたと考える。また北条時頼は、九条道家・頼経・頼嗣らの存在が幕府の根幹を揺るがす事に危惧し、排除を慎重に画策したのではないだろうか。時頼は、将軍・頼嗣を北条執権体制に合う将軍として育成に努めたが、九条家の血を引く頼嗣が将軍である限り道家・頼経の政治的影響力は排除できなく、ついに見切りをつけたと考えられる。また足利氏が、この建長の政変に関与したかのようにも見られる。

 

 建長三年も終わり建長四年の正月を迎える。埦飯の差配、一日北条時頼の差配で行われ、御剣に北条正村、御調度に名越時章、行縢に安達義景が行う。二日は北条重時が差配を行い、御剣に大仏朝直、御調度名越よき長、行縢に二階堂行義が行った。三日は足利正義・義氏が差配し御剣に名越時章、御調度に安達義景が差配し、行縢に二階堂行方が行っている。先述したように、『吾妻鏡』での埦飯が足利正義、義氏の差配で行われたのは、北条泰時執権時の仁治二年正月二日の埦飯であった。埦飯の差配により、時の権力序列の体制を窺うことが出来る。この当時の足利氏の勢力は最大であり、北条庶流の大仏・金沢・名越と同格の地位を占めていた。建長六年まで埦飯の差配は続き、正嘉元年(1257)には再び北条得宗家と北条庶流による差配が行われているが、足利家の当主であった足利泰氏は建長三年(1251)十二月に幕府に無断で出家し、その咎で、所領の下総国埴生荘を没収された。

 

 『吾妻鏡』建長三年十二月二日条、「宮内少輔(足利)泰氏朝臣が所領の下総国埴生庄で密かに出家され(年は三十六歳)、年来の願いを遂げたいという。ひたすら(俗世を離れ)山林で修行するという志を抱いたという。これは左馬頭入道正義の(足利義氏)の嫡男である」と記されており、足利泰氏の急な出家の真実の原因は定かではない。推測する原因としては、捕縛された謀叛者の一人である長氏にあるのではないか。長氏は、鎌倉期において、幕府御家人となった長谷部信連より始まり、信連は幕府から能登国大屋荘を与えられて領主化した。その子孫が「長」姓に改め鎌倉末期には、足利氏の家人となったと細川重男氏が『鎌倉遺文』から指摘しており、この当時から足利氏と関係があったとされている。足利泰氏が直接的謀反の首謀者では無いと考えるが、了行、矢作左衛門尉常氏、長次郎左衛門尉久連とに謀反の勧誘があったのではないかとも考える。どこまでの関係性があったかは定かではないが、もし出家がこの謀叛に関係するものであるなら、整合性が得られる。了行、長次郎左衛門尉久連の勧誘があったのではないか。もしも勧誘があっても、幕府にその情報を提供する事で足利氏は何ら罪科を受けないであろう。しかし泰氏が何らかの関与があり、了行と長次郎左衛門尉久連の計画の失敗を予測して、足利氏に類が及ばないように早々に出家したのではないかと細川重男氏が指摘されている。

 

 足利泰氏の父・義氏は、北条泰時の娘もしくは義時の娘を正室とした。生まれた泰氏は、北条時頼の父・時氏の娘であり、時頼の妹を正室として、嫡子頼氏を産んでいる。足利氏は、清和源氏の河内源氏棟梁源義家の四男の義国流で、その子・義康が下野国足利に住して、足利の姓を称した。鎌倉幕府を開いた源頼朝の河内源氏の庶流である。本来は、伊豆の一部を有し、平氏と名乗る北条氏とは、家格が歴然と違っていた。この当時の足利氏は、鎌倉期において最も勢力が拡大していた時期でもあり、北条時頼及び幕府は、宝治合戦の様な大きな戦乱を避ける必要があったのかもしれない。幕府は許可なく出家した事を咎め所領である下総国埴生庄を没収し、泰氏は足利の本領に閉居させた。以降、政治の舞台には出る事はなかった。泰氏の出家後も足利氏は地位や所領を保ち泰氏の嫡子頼氏が祖父義氏の所領が相続されている。翌年の建長四年三月に五代将軍藤原頼嗣の京への強制送還がおこなわれ、足利泰氏と関連性があると推測されているが、詳細は定かではない。

 

 建長四年(1252)正月七日、子・丑の二刻に鎌倉中騒動し、諸人が駆け付けている。甲冑を着て旗を掲げ、幕府及び執権北条時頼邸に武士集結した。明け方になると鎮まったという。『吾妻鏡』第四十一巻は、この一月で終えて、第四十二巻は再び建長四年一月から始められている。

 『吾妻鏡』一月八日条、「新皇受け(宗尊)〔上皇(誤差が)の第一皇子〕が 仙洞で元服された。保延の先例〔雅仁親王(後白河)の元服の時左大臣源有仁が加冠役を勤めた〕が用いられた。加冠は左大臣(藤原兼平)。年預(ねんよ:院庁の役職の一つ)の左中弁(藤原)顕雅朝臣が今日の事を行った。殿下(藤原兼経)〔(直衣:のうし)公卿の日常服〕が参られた。これより先に兼経は親王の御袍〔ごほう:官人の上衣。紫、立涌雲文(たてわきくももん:波上の線が縦に向い合って並ぶ立涌雲文に雲の文様を組み合わせた文様)。裏を打つ(裏地を付ける)〕・御笏〔檀紙(和紙の一種)で包んだ〕などが献上された。蔵人左衛門権左(藤原)資定が御使者となったという。御冠の後、(宗尊は)三品(親王の位階を示す語)に叙された」。  ―続く