建長三年(1251)五月十五日、北条時頼の継室である葛西局が、男子・正寿丸(後の時宗)を産んだ。時頼には、側室の宝寿丸(後の時輔)が生まれていたが、正室である葛西局の子が嫡子として育てられることになる。正寿丸の「正」は生着を意味し、母葛西局の胎内か、北条得宗家と極楽寺流北条家の政治的要素を存在させる意味合いがあった。
建長三年六月五日、幕府は、訴訟における評定衆の下に置かれていた三方引付から六方五人に結番されて改められる。安達義景が奉行した。訴訟の停滞が多くなったためであろうと考えられる。しかし、同月二十日に再び三方十人に改めている。
同年六月ニ十七日、建長元年二月に後深草天皇の皇居である京都の閉院内裏が焼失しており、幕府の手により再建が進められていた。閉院内裏は、この日完成されて遷幸される。それに伴い北条時頼は正五位下に叙された。
同年十月八日に、昨年九月に北条時頼邸が出火により焼失していたが、新しく完成した新造の小町邸に移っている。
同月二十一日には、北条時頼の新たに生れた若君(時宗)の五十日、百日の儀式を行われる。同年十一月八日には、建長寺の創建の事始め行われた。同月二十九日に、大般若経を信読が時頼自邸で行われ、関東安全の祈祷であった。
宝治二年(1248)四月二十九日に、幕府が鎌倉中の商人の人数を定めたが、三十年前の建保三年(1215)七月十九日にも鎌倉中の商人の数を決めていた事が、『吾妻鏡』に記されている。しかし、武家の政治的中心としに、それを補うものも必要になり、また貨幣経済の発展が、人口増加を呼び込んだ。そして商人の規制も有名無実化していたと考えられる。同年十二月三日には、鎌倉の商業区域を定めた。
『吾妻鏡』建長三年十二月三日条、「鎌倉中の在々所々の小町屋と売買の施設については制限するよう、このところ審議が行われた。今日、その場所が定められた、この外はすべて禁止するよう厳しく伝えられた。佐渡大夫判官(後藤)、基政・小野沢左近大夫入道光蓮(仲実)らが奉行した七か所の地域以外では一切禁止する。鎌倉中の小町屋の事について定められた場所は、大町・小町・米町・亀谷辻・和賀江・大倉辻・気和飛(化粧)坂上 牛を小路に繫いではならない事 工事を掃除すべき事」とする法令を出している。先述したが、当時の鎌倉の人口を推察して見ると、発掘調査により、約六万四千人から十万一千人という試算がなされている。現在、令和六年(2024)一月一日の鎌倉市の鎌倉地区(鎌倉切通内)の人口は44892人であり、この小さな町の人口が現在の1.5倍から2.4倍であったと推測され、相当の人口過密状態であったと考えられる。また幕府は、商業地域を限定する事で、商人を掌握し、公認と引き換えに税の徴収を行おうとしたとも考えられている。
建長三年も穏やかに終わろうとし、十二月十二日、時頼自邸にて大般若経転読を行う。これは関東の安泰を祈願するものとされるが、二十二日に鎌倉中で理由もなく騒動や謀反の者があると巷説(こうせつ:ちまたの噂)が飛び交わった。何らかの兆しがあったのだろうかは定かではないが,大般若経信読を行っていることから何らかの事案が発生していたとみられる。幕府と北条時頼の邸宅の警備がたいそう厳重になった。
『吾妻鏡』建長三年十二月二十六日条には、「雹がふった。地面に三寸も積もった。今日の未の一点(午前一時過ぎ)に、世間で騒動があった。近江大夫判官(佐々木)氏信・武藤左衛門尉影頼が了行法師(原忠常の男で千葉氏の一族。藤原頼経・頼嗣の実家九条家との関係が深かった)・矢作左衛門尉(常胤:千葉氏の一族で矢作常義の男。千葉介頼胤の近親)・長次郎左衛門尉久連(長氏の一族)らを生け捕った。この者らは謀叛の企てがあったという。そこで諏訪兵衛入道蓮仏(盛重)が承って尋問し、太田七朗康有がその言葉を記した。逆心が全て露見したという。その後鎌倉中はいよいよ騒動となり、諸人が争い集まったという」。
建長三年十二月二十七日条、「謀反の衆を誅殺された。また配流された物もあったという。近国の御家人が(鎌倉に)群参し雲霞の様であった。皆、帰国するように命じられたという」。
この幕府転覆計画の事件から将軍頼嗣の排除迄を「建長の政変」と呼び、事件の首謀者の一人であった了行は、千葉氏庶流の出で、かつ千葉氏本家の被官となっていた原氏の出身のため、千葉氏の菩提寺千葉寺の僧であった。了行は中国・宋に渡った経験もあり、京都の九条家の御堂の僧となった人物でもある。千葉氏と九条家・九条道家とに非常に近く密接な関係であった。矢作左衛門尉は、同じく千葉氏庶流国分氏の出身で常氏という人物にあたる。長氏は、鎌倉期において、幕府御家人となった長谷部信連より始まり、信連は幕府から能登国大屋荘を与えられて領主化した。その子孫が「長」姓に改め鎌倉末期には、足利氏の家人となったと細川重男氏が『鎌倉遺文』から指摘しており、この当時から足利氏と関係があったとされている。千葉頼胤は、延応元年(1239)生まれで、父・時胤が早世したため、幼少の頼胤は、分家であった上総権介千葉秀胤が後見としていた。しかし秀胤が宮騒動で失脚し、上総国に追放され、宝治合戦で三浦に与した事で追討され自害している。その為に父の兄弟である千葉保胤が後見として、任に就く。頼胤が元服後に千葉氏八代当主として千葉介を称した。建長三年(1251)時の頼胤の年齢は十三四歳であるため、この建長の政変には関与しておらず、宮騒動・宝治合戦で粛清された千葉氏の庶流・三浦氏の残党が再び幕府の転覆と九条頼経の将軍復帰を求めるための謀反を計画したとされている。
『皇代暦 裏書』の建長四年正月一日条には、「鎌倉から使者が到着した。九条御堂の僧了行が、勧進と称して謀反の趣意書を回覧していた事が発覚し、捕らえられた。仲間も逮捕されたという」。この事からも九条家の関与が疑われている。『保略間記』には、「了行を尋問したところ、前将軍九条頼経が謀叛を起こそうとしていることが分かり、九条家一族は多くが天皇から処罰を受けた。現将軍頼嗣も京へ帰る事となった」としている。村井昭介氏の『北条時宗と蒙古襲来』に、頼経を慕う諫言・法事の政変の敗残者たちを集めて、頼経を将軍に戻し、執権には時頼に買えて足利泰氏をつけるというのが陰謀の確心的内容であったと推測されている。 ―続く