鎌倉散策 『徒然草』第二百三十九段から第二百四十一段 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

第二百三十九段 婁宿

 八月(はつき)十五日・九月(ながつき)十三日は、婁宿(ろうしゅく)なり。この宿、清明(せいめい)なる故に、月をもてあそぶに良夜とす。

 

現代語訳

 「はつき(八月)十五日・ながつき(九月)十三日は、婁宿である。この婁宿という星座は清く明るいために、(それに当たる日は)月を賞味するのに良い夜である。

 ※婁宿は中国古代の天文学において、黄道に沿って天球を二十八に区分して星座の位置を明らかにし、月・日・春分・冬至点などをの位置を示す基準とした。これを「二十八宿」と言い、「老宿」はその中の一つである。その当時行われていた宣明暦では、二十八宿の中の牛宿を除いた二十七宿に、一年の毎日を当てはめていた。それによると、八月十五日と九月十三日は、いずれも老宿にあたる。この婁宿という星座は清く明らかなものである。

 

(鎌倉 長谷寺)

 

第二百四十段 結婚について

 しのぶの浦の蜑(あま)の見るめも所せく、くらぶの山も守る人しげからんに、わりなく通はん心の色こそ、浅からずあはれと思ふふしぶしの、忘れがたきことも多からめ、親・はらから許して、ひたふるに迎へ据ゑたらん、いとまばゆかりぬべし。

 世にありわぶる女の、似げなき老法師、あやしのい吾妻人なりとも、にぎははしきにつきて、「さそふ水あらば」などいふを、なか人、いづかたも心にくきさまに言いひなして、知られず知らぬ人を、迎へもて来たらんあいなさよ。何事をかうち出づる言(こと)の葉にせん。年月のつらさをも、「分けこし葉山(はやま)の」などもあひ語らんはんこそ、尽きせぬ言の葉にてもあらめ。

すべて、よその人の取りまかなひたらん、うたて心づきなきこと多かるべし。よき女ならんにつけても、品くだり、見にくく、年も長(た)けなん男は、かくあやしき身のために、あたら身をいたづらになさんやはと、人も心劣りせられ、わが身は、むかひゐたらんも、影はずかしく覚えなん、いとこそあいなからめ。

梅の花かうばしき夜の朧月(おぼろづき)にたたずみ、御垣(みかき)が原の露分け出でん有明の空も、わが身ざまにしのばるべくもなからん人は、ただ色好まざらんにはしかじ。

  

(鎌倉 鶴岡八幡宮)

現代語訳

 忍んで(しのぶの浦)逢おうにも人(漁夫)の見る目もうるさく、闇にまぎれて合おうともするにも見張りの人が多く、無理をして女のもとに通ってゆくと言った切ない恋心こそは、心の底からしみじみと感じる思い添いの折の、忘れがたい事も多いであろうに、親・兄弟から許されて、公然と妻の座に迎え据えたのは、実に照れ臭い事であろう。

 生計を立てかねている女が、年の不似合いな老法師で、素性の卑しい関東の田舎ものであっても、生活の豊かなのに心が引かれて、「あなたの方に、妻として迎えようというお気持ちがあるのなら」などと言うのを、仲人が、男女のいずれをも奥ゆかしい様に言いつくろって、(お互いに)知らない同士を、迎えて連れてきたというようなのは、何ともつまらない事である。そのような場合には、どういう事を話しの糸口にしようか(と考える)。長い年月の辛さも、「こうなるまでに随分と障害が多かったね」などと語り合う事こそ、お互いに話の尽きる事も無いであろう。

 すべて、第三者が取り計らってまとめたような結婚は、何とも気に入らない事が多い事か。(迎えた妻が)良い女であったとしても、その女より身分が低く、顔が醜く年も取った男は、このようないやしい身分のために、むざむざとその身を棒にふる事があろうかと、その女も思いのほかにくだらなく感ぜられる。男自身は、そうした立派な女と対座しているものの、見にくい自分の姿を恥ずかしく感ずる事であろうというのは、まことに何とも味気のない事だろう。

 梅の花が香ばしい夜の朧月にたたずむことも、恋人の住む家の庭の露を分けて帰ろうとする有明の空の色も、自分の身の上の事として思い出される事も無い人は、色恋をしないのに越した事はない。

 

(鎌倉 杉本寺)

第二百四十一段 所願皆妄想

 望月のまどかなる事は、しばらくも住せず、やがて欠けぬ。心とどめぬ人は、一夜(ひとよ)の中(うち)に、さまで変わるさまも見えぬにやあらん。病(やまひ)の重(おも)るも、住(じう)するひまなくして、死期(しご)すでに近し。されども、いまだ病急ならず、死におもむかざる程は、常住平生(じやうぢゆうへいぜい)の念に習ひて、生(しやう)の中に多くの事を成じて後、閑(しづ)かに道を修せんと思ふほどに、病を受けて死門にのぞむ時、所願一事も成ぜず。いふかいなくて、年月の懈台(けだい)を悔いて、この度、もしたちなほりて命を全(また)くせば、夜を日につぎて、この事かの事、怠らず成じてんと願ひを起こすらめど、やがて重りぬれば、われにもあらず取り乱して果てぬ。このたぐひのみこそあらめ。この事、まづ人々いそぎ心におくべし。

 所願を成じて後、暇(いとま)ありて道に向かはんとせば、所願尽くべからず。如幻(によげん)の生の中に、何事をかなさん。すべて、所願皆妄想なり。所願心に来たらば、盲心迷乱すと知りて、一事をもなすべからず。直ちに万事を放下(ほうげ)して道に向かふ時、さはりなく、所作なくて、心身ながくしずかかなり。

 

現代語訳

 「望月の真ん丸なのは、少しの間もそのままではなく、すぐに欠ける。気を付けてみない人には、一夜のうちに、それほどまで変わるさまも見ることが出来ない。病の重くなるのも、同じ状態に留まっている間も無くて、死ぬ時が早く迫っているのだ。しかし、(人は、)いまだ病状が進まないで、死に向かわない内は、この世の中は永久に不変で、人は平穏にいつまでも生活つしてゆけるものという考え方に慣れきっている。生きている内に多くの事を成し遂げて後、閑に仏道を修行しようと思っているので、病を受けて死を目の前にした時、願い事は一つもなす事がない。いまさら何といっても仕方がなくて、年来の怠慢を後悔して、此度、もし病気が治って生きながらえることが出来たならば、日夜をかけて、いかなる事にも怠らずに成す事を心中に祈願をこらすようであるが、そのまま(病が)重くなれば、われにもあらず取り乱して死んでしまう。世間には、この類の人ばかりであろう。この事、今すぐ人々の心におくべし。

 願い事を成した後に、暇が出来て仏道に向かおうとすれば、願い事は尽きることが無い。幻のようにはかない人間の生涯の中で、何事を成す事が出来ようか。全て、人間が心に抱く願望は、すべて心の迷いなのだ。願い事が心中にあるならば、誤った考えが自身の心を迷わせ乱すのだと悟り、一事も成してはいけない。直ちにすべてを投げすてて仏道に専念するときに、そこには何の障害もなく、心身を労する何らの行為もなく、心身は長く安静になる。」。

 ※人間の願望は全て妄想に過ぎない事、万事を放下して仏道に向かうべき事などについては、これまでにも何度か説かれているけれども、人間の願望の数々を列挙する事に起筆した『徒然草』を終筆に導くという意味で、次の段ともに構成上、重要な役割を有する段ということが出来るであろう。」。