第二一十段 空のなごり
よろずのことは、月見るにこそ、慰むものなれ。ある人の、「月ばかりおもしろきものはあらじ」と言ひしに、またひとりが、「露こそあはれなれ」とあらそひしこそ、をかしけれ。折りにふれば、何かはあはれならざらん。
月・花はさらなり。風のみこそ人に心はつくめれ。岩にくだけて清く流るる水のけしきこそ、時をもわかずめでたけれ。「沅(げん)・湘(しやう)、日夜、東に流れ去る。愁人(しうじん)のためにとどまること少時(しばらく)もせず」といへる詩を見侍りしこそ、あはれなりしか。嵆康(けいかう)も、「山沢(さんたく)」にあそびて、魚鳥を見れば、心楽しぶ」といへり。人遠く水草清き所にさまよひありきたるばかり、心なぐさむ事はあらじ。
現代語訳
「すべてのことは、月を見るだけで、慰められるものである。ある人の、「月ほど感興的なものはない」と言うと、もう一人が「露の方こそ味わい深い」と口論した事こそ興味深い。
月・花は言うまでもない。風は、ことに人の心をしみじみと感じさせるようだ。岩に砕けて清く流れる水の様子こそ、四季を分かたず実に良いものだ。「沅・湘、二つの川の水は、昼となく夜となく、東の方へ流れ去ってゆく。都に帰りたいと思って、愁いに沈んでいる自分のために、しばらくの間も留まってくれない。(中唐の詩人で、載叔淪〔たいしゅくりん〕の、「湘南即時」と題する七言絶句の天結の肉を引用したもの。沅・湘は、沅水・湘水の二つの川で共に洞庭湖〔どうていこ〕に注ぐ。)」という詩を見た時に、どうしようもなく悲しく思った。嵆康(中国三国時代の魏の人。竹林の七賢の一人。)も「山や沢で遊んで魚や鳥を見れば、心も楽しいものだ(嵆康の友人である山濤〔さんとう〕(字は巨源)が、自分の後任に嵆康を推薦した際に、官吏は自分の性に合わない事を説き、山濤に絶交を宣した時の文章の一節『文選』巻二十二。)」と言った。人里遠くで水草清い所にそぞろ歩きしているほど、心癒されることは当然である。」。
第二十二段 古き世のみぞしたわしき
何事も、古き世のみぞしたはしき。今様は、無下にいやしくこそなりゆくめれ。かの木の道の匠の造れる、うつくしきうつは物も、古代の姿こそをかしと見ゆれ。
文の詞などぞ、昔の反古どもはいみじき。ただいふ言葉も、口をしうこそなりもてゆくなれ。「いにしへは、『車もたげよ』『火かかげよ』とこそ言ひしを、今様の人は、『もてあげよ』『かきあげよ』といふ。『主殿寮人数(とのもれうにんじゆ)たて』と言ふべきを、『たちあかししろくせよ』といひ、最勝講(さいしょうかう)の御聴聞所なるをば、『御講の廬(ごかうのろ)』とこそいふを、『講廬(かうろ)』といふ。口をし」とぞ、古き人は仰せられし。
現代語訳
「何事も、古き世を慕わしく感じる。今風のものは、むやみに下品になっていくようだ。指物師の匠が作る、美しい器物も古風な形のものに情緒があると見える。
手紙の言葉などは、昔の人が書き損じた方が素晴らしい。日常の会話に使う言葉も、情けないことになってゆく。「昔は『牛車の轅(ながえ)持ち上げて、牛をつけと』『燈火の燈心を掻き立てて、明るくせよ』と言ったが、当世の人は、『もてあげよ』『かきあげよ』という。『主殿寮人数(主殿寮の官人たちよ。座を立って火を灯せ。〔主殿寮の役人に列席して式場を松明りで照らせという命令〕)』と言う所を、『たちあかししろくせよ(松明に火をつけ、明るくせよの意)』といい、最勝講(五月中に五日間、宮中において金光明最勝王経を講ぜしめて、国家安穏を祈る仏事)の御聴聞所で、『御講の廬(天皇が講義せしめて国家安穏祈る)』というのを、『講廬』と言う。情けない事だ」と、ある古老の方は仰る。
第二十三段 皇居のめでたさ
おとろえたる世の末とはいへども、なほ、九重の神さびたる有様こそ、世づかず、めでたきものなれ。露台(ろだい)・朝餉(あさがれひ)・何殿・何門などは、いみじとも聞ゆべし、あやしの所にもありぬべき小蔀(こじとみ)・小板敷(こいたじき)高遣戸(たかやりど)なども、めでたくこそ聞ゆれ。
「陣に夜の設(もうけ)せよ」と言うこそいみじけれ。夜の御殿(おどの)のをば、「かいともしとうよ」などいふ、まためでたし。上卿(しゃうばい)の、陣にて事おこなへるさまはさらなり、諸司の下人どもの、したり顔になれたるもをかし。さばかり寒き夜もすがら、ここかしこに睡り居るたるこそをかしけれ。
「内侍所(ないしどころ)の御鈴の音は、めでたく優なるものなり」とぞ、徳大寺太政大臣は仰せられける。
現代語訳
「〔何事も〕衰徴した末世とは言うものの、なを、幾重もの間に囲まれた宮中の神々しい様子こそ、世俗の風に染まらず、素晴らしいものである。露台(紫宸殿と仁寿殿との間にある板敷きの台)・朝餉(朝餉の間。清涼殿の一室で、天皇が朝夕、略式の食事をされるところ。)・何殿(宮中の中の、紫宸殿・清涼殿・仁寿殿・後涼伝その他の殿舎を総称して言う。)・何門(皇居の建礼門・建春門・朔平門・承明門・玄輝門その他の諸門を総括して言う。)等は、すばらしく聞こえても当然だが、貧しい者の家にもあるはずの小蔀(上下に懸け外しできる格子作りの小型の戸。皇居内ででは、清涼殿の石灰の檀の南の壁の上方にある小窓に取り付けてある物を言う。)・小板敷(皇居内の中では清涼殿殿上の間)・高遣戸(「遣戸(やりど)」は左右に開く戸で、皇居の中の高遣戸は、清涼殿の西南の渡殿南側にある。)等も、素晴らしいように聞こえる。
(宮中で政務や儀式の際に、諸卿の着座する所で、警護の役人が「陣に夜の設せよ(夜間の設備で、燈火の用意などをすることをいう。)」と言っているのを聞く。天皇の御寝所を「かいともしとうよ(油火の燈篭を早く灯せ)」などと言うのは、また素晴らしい。宮廷行事を取り計らう公卿の、陣にて指図をして事を進めている様子は言うまでもなく、様々な役所の下級役人どもの得意顔に物慣れた振る舞いをしているのも面白い。寒い真冬の夜に(警護のその下級役人たちが)あちらこちらで眠っている様子も面白い。
「(天皇が聞かれる)内侍所(神鏡を奉安してある温明殿の別名)の鈴の音は結構で優雅なものである」と、徳大寺太政大臣(藤原公孝)は仰っている。
(奈良 春日大社)
第二十四段 斎王・神の社
斎王の、野宮におはしますありさまこそ、やさしく、おもしろき事のかぎりとは覚えしか。経・仏など忌みて、なかご・染紙など言ふなるもをかし。
すべて、神の社こそ、捨てがたくなまめかしきものなれや。ものふりたる森のけしきもただならぬに、玉垣(たまがき)しわたして、さか木の木綿(ゆふ)かけたるなど、いみじからぬかは。ことにをかしきは、伊勢・賀茂・春日・平野・住吉・三輪・貴布禰・吉田・大原野・松尾・梅宮。
現代語訳
「(伊勢神宮には奉仕する未婚の皇女を伊勢に下向の前、その)皇女・斎王のために一定期間籠る仮宮に移る(平安期以降、京都西郊嵯峨野にあった。)有様こそ、優美で、興味あるものはないと思われる。(伊勢信仰は仏教を忌避し)経・仏などを忌み嫌って、堂の中心に安置する仏を「なかご」・経文を写す料紙(黄色あるいは黒色・紺色を用い)を染紙などと言うのも興味深い。
すべて、神の社こそ、捨てがたく優雅なものである。何となく古びた感じの森の景色も普通では無い上に、玉垣(神殿の周囲に廻らした垣の美称)を長く作り廻らし、榊の楮(こうぞ)の革を剥いだ繊維で作った布など、じつに素晴らしいではないか。特に趣の深いのは、伊勢・賀茂・春日・平野・住吉・三輪・貴布禰・吉田・大原野・松尾・梅宮である。