鎌倉散策 北条泰時伝 十、牧氏の変 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 畠山重忠誅殺後、冤罪であったことが疑われた元久二年(1205)六月二十三日に『吾妻鏡』には、もう一つの記載が記されている。「酉の刻に鎌倉の内でまた僧堂があった。これは三浦義村が再び思いをめぐらし、経師谷口において、謀って榛谷重朝・同嫡男茂季・次郎秀季らを討った。稲毛入道は大河戸行元に誅殺され、子息小沢次郎重政は宇佐美祐村が誅殺した。今度の合戦の発端は、多田重成法師の謀略であった。すなわち平賀朝雅は畠山重忠に遺恨があり、その一族が叛逆を企んでいると、頻りに時政の妻室の牧御方に讒言し、時政が密かにこの事を重成に相談されたので、重成は親族の縁を翻した。(重成の)「現在、鎌倉の内で軍兵の蜂起がある。」と言う消息に従い、重忠は(鎌倉に)向かう途中で不慮の死を遂げたのである。悲歎しないものは無かったという」と記され、稲毛重成にすべての罪をかぶせた幼稚な説明であった。

 

(写真:ウィキペディアより引用 源実朝像)

 北条時政の後妻・牧の方が平賀朝雅を関東の将軍にして現将軍家を滅ぼそうとする風聞があり、北条時政邸にいた実朝を北条義時邸にうつし守護している。平賀朝雅は河内源氏二代目棟梁・源頼義の三男・義光(新羅三郎を称した)を祖とする清和源氏義光流で、朝雅の父が義光の四男・義信であり平賀氏を称した。源頼朝が挙兵し、寿永二年(1183)に木曽義仲追討の際、信濃の佐久地方を本拠とする平賀義信の貢献により、頼朝と義仲は和解するが頼朝の優位性を高めた。後に頼朝の信頼が厚く、当時の席次において源氏門葉として御家人筆頭としている。朝雅は父・義信の四男で妻は北条時政・牧の方の娘であり、時政の娘婿であった。また『愚管抄』では、源頼朝の猶子となっている。

 『吾妻鏡』元久二年閏七月十九日条、「牧御方が悪巧みをあれこれ考えて、(平賀)朝雅関東の将軍にして、現在の将軍家(源実朝)を滅ぼそうとしているとの風聞があった。そこで尼御台所(北条政子)は長沼宗政・結城朝光・三浦義村・胤義・天野政景等を遣わして羽林(源実朝)を迎えられ、すぐに(義時)の御邸宅に入られたので、時政が招き集めた勇士はすべて義時邸に参って実朝を守護した。同日の丑の刻に時政は急に出家された。同時に出家したものは数え切れなかった」。北条時政は六十八歳であった。

 

(写真:ウィキペディアより引用 北条政子像、北条義時像)

 同月二十日条、「辰の刻遠州禅室(北条時政)が伊豆の北条郡に下向された。今日、相州は(北条義時)が執権の事を承られたという。今日、前大膳大夫(中原広元)・属(さかん)入道三善安倍)・東九朗右衛門尉(安達景盛)等が義時の御邸宅に参会し、審議があって使者を京都に送られた。これは右衛門権佐(平賀)朝雅を誅殺するよう、在京御家人等に命じられたためである」。

 平賀朝雅の誅殺が決められ、同二十七日、京にいた平賀朝雅は謀殺されている。この牧氏の変は、畠山重忠の誅殺により始まっており、無実の罪で誅殺された重忠に対する北条への反感が尾を引いたのではないかと考える。御家人たちの何らかの反発に幕府が対応せざるを得なくなり、北条時政と妻室・牧の方の悪巧みで解決したのではないかと。政子と継母・牧の方の関係上、治承四年の亀の前事件後、良好な関係ではなかったと考えられ、むしろ牧の方と政子が対立関係であったのかもしれない。畠山重忠の乱で、時政と政子・義時は政治的対立を深めたとも考えられる。全てが、あまりにも早急な対応と対処に疑問を持つ。政子による実朝の将軍確立を行うとともに、義時に北条家を継がせ、二代執権職を与え、将軍実朝の下、政子が政治的権勢を強化するため、弟の義時・時房との連合体を組織することで義時を動かしたと考えざるを得ない。二俣川の戦いの一月後で、幕府内での畠山重忠の乱は終わった。

 元久二年(1205)閏七月、北条時政は牧氏事件において鎌倉追放伊豆国で隠居を送り政治の表舞台に出ることは無く、建保三年(1215)一月六日、腫瘍の為、死去した(享年七十八歳)。墓所は伊豆の国市寺家願成就院である。時政の孫の三代執権泰時は頼朝、政子、義時を幕府の祖廟として事あるごとに参詣したが祖父に当たる時政は牧氏事件等での首謀者として存在を否定され仏事等は一切行われなかった。

 『愚管抄』では、牧氏の変を記述した後、「こうして北条時政を追い込めたが、時政の子と言うのは、実朝の母で頼朝の後家であるから親に対しても何の躊躇もしない。義時にとっても時政は親であるが、今の妻(牧の方)の関係でこのような悪事をすれば容赦はしない。その上、孫の実朝は母方の祖父が自分を殺そうとしたのであるから、時政が幽閉されたのも当然であった。相して実朝の世となり、しっかりとした幕政が行われていったが、時政の娘で実朝・頼家の母(政子)がまだ生きていたから、実朝の母の世であったと言えよう。時政の子の義時という者の事を天皇の御耳に入れ、またさっと高い身分にし、右京権大夫と言う官職に就けて、この姉と妹で関東の政務をとっていたのであった。」と記している。

 

 平賀朝雅の妻は、公卿の権中納言・藤原国道に再婚し、牧の方も時政死後、娘を頼り上洛して京都での余生を過ごした。政権移行の政変を目論んだ重罪人の二人が、幽閉と時政死後に牧の方が上洛している事は、本来考えられるだろうか。これらを総合的・客観的に、また後の経緯を考えても「畠山重忠の乱」における終息を「牧氏の変」において北条家の立場と実権を憂慮した北条政子と義時の対応であったのではなかろうか。北条泰時はこれらの鎌倉幕府の北条執権体制をさながら見定めていた。 ―続く―