鎌倉散策 北条泰時伝 九、畠山重忠の乱 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 元久元年(1204)十二月、三代将軍源実朝は、京の坊門信兼京の娘信子を正室に迎える。北条時政等は足利義兼の娘を実朝の妻に迎えようと画策したが、実朝は受け入れなかった。実朝は京の文化を好み、すでに自身で使者を選び京に発して正室を求めた。そこには、兄頼家と比企の乱を目のあたりにした実朝は御家人から妻を娶る事が紛争を生む原因として拒んだとも考えられる。実朝の幕政は当初、兄の二代将軍頼家以上に権限が抑制され、北条時政や重臣達が担っていた。しかし、故頼朝が御家人等に下された御書を見て写し、頼朝の御成敗の意趣を知ろうとし、勤勉だった様子が残されている。後には、よく学ぶ実朝が次第に幕政に関与するようになってゆく。

 

 元久元年(1204)三月六日、北条泰時の父・義時が従五位に叙され相模守に任官した。泰時はこの後「相模太郎」と称し、その後も「相模修理亮泰時」と称し生涯一度も北条を名乗った形跡はない。

 元久二年(1205)一月五日、実朝十四歳で正五位に叙され、二十九日には加賀の介を兼ねる右近衛中将に任じられる。この時期に叡山の俗僧らの暴挙や、まだ平家の残党および武士たちの蜂起がまだ起こっていた。同年四月十二日、実朝が十二首の和歌を詠まれた。歌人としても知られ九十二首が勅撰和歌集に入集、後鳥羽天皇をも崇高している。承元三年(1209)四月十日十三位に叙せられ、公卿として政所開設することが許され、幕府の下文が「鎌倉殿下文」から「政所下文」変わる。七月五日に和歌三十首の評を藤原定家に請い、定家はこれに合点を加え、定家に寄りかかれた「近代秀歌」と知られる和歌の歌論書、詠歌口伝一巻を献じている。和歌の師匠として位置づけ、小倉百人一首にも選ばれ鎌倉右大臣とされた。また自身の歌集として『金槐和歌集』がある。源姓三代目の将軍は、武士というよりも京の公卿の様相を好んだ。これらにより御家人の非難もかっている。そして、またしても御家人の武士の誉れとされた畠山重忠の乱がおこる。畠山重忠の乱と言うより、比企の変同様、北条家の策略による虐殺であった。

 

(写真:ウィキペディアより引用 埼玉県深谷市 畠山重忠公史跡公園重忠像、重忠公墓所)

 畠山重忠は武士の鑑と称えられ、石橋山では平家に与し、石橋山の戦後に三浦義明を衣笠山で討っている。しかし頼朝が下総から武蔵国に入る際、参陣し忠誠を誓った。その後、治承・寿永の乱では常に先陣を務め多大な功績をあげる。また、頼朝に信頼を受け、奥州合戦には頼朝軍の先陣を務めている。源義経追討時に捕縛された静御前が、鎌倉の鶴岡で義経を思う「静の舞」を披露した際に重忠は銅拍子を討ち器楽にも長けていた。『吾妻鏡』においても頼朝生前には良く記載されており、二階堂の永福寺の造営に関する力仕事を頼朝は良く感心していた。重忠は鎌倉幕府においては有力な御家人の一人であり、正治元年正月の頼朝死去の際に頼朝から子孫を守護するように遺言を受けたとされる。北条時政は、比企の乱後、武蔵国の有力者であり、娘婿である畠山重忠の勢力の拡大を恐れた。また、武蔵国の武士団の惣領・最有力在庁としての畠山重忠と、同じく時政の娘婿である武蔵守に就いた平賀朝雅との対立もあったと考えられる。

 元久二年(1205)六月二十一日、畠山重忠の次男の畠山重保は北条時政の後妻・牧の方も娘婿になった京都守護の平賀朝雅と重保との遺恨により、朝雅が牧の方に讒言(ざんげん)した。前年の元久元年十一月に実朝が京に正室を求める使者として時政と牧の方の子・政範らが選ばれ、上洛する際途中で病気になり、京に着いた後に急死する。政範十六歳であった。この急死により京都守護朝雅が京に随行していた畠山重保に病気でありながら京まで来るよりも途中療養させるべきであったと叱責した。重保も、政範に療養を薦めたが、政範は、実朝から選ばれた事に対し使者としての責務を全うするため京都に急いだと説明した。朝雅と重保の争論による対立が遺恨を残し、畠山重忠の乱と牧氏事件へと繋がっていく。

 

(写真:鎌倉若宮大路 畠山重保の宝篋印塔)

 元久二年(1205)六月、北条時政は子息、義時、時房を名越の自邸に呼び内々に畠山重忠の謀反の謀議を行った。当初、義時は「重忠は治承四年以来、ひたすら忠節を尽くして来たわけで、右大将将軍(源頼朝)はその志を鑑みられて、(頼朝の)子孫を護るよう、心を込めた御言葉を遺されたものです。とりわけ金吾将軍(源頼家)に仕えられていながら、(比企)能員との合戦の時は味方に参り、忠節を尽くしました。これはすべて父子の礼を重んじた為です(重忠が時政の婿)。そうしたところ、今度のような憤りがあって叛逆を企てているのでしょうか。もし度重なる勲功を心にとめず、軽率に誅殺すれば、きっと後悔するでしょう。罪を犯したか否か真偽を糺した後に処置したとしても、遅くはないでしょう」と、重忠の謀反の審議を行うべきで、謀殺には反対であったとされる。しかし、牧の方の強い訴求により義時は、それ以上逆らうことは出来なかった。義時はこの頃まだ江馬姓(北条氏の分家名)を称しており、北条氏の嫡男として処遇されていなかった。時政と牧の方のとの間に亡くなった政範がおり、牧の方が嫡男として処遇することを望んだとされ、この時も義時は、江間四郎義時を名乗っている。牧の方の子を思う気持ちが敵視となり、畠山重忠・重保親子に向かったのだろう。

 

 北条時政は、娘婿であった稲毛重成(妻は義時の同腹妹で、亡くなり橋供養を行った際頼朝も参列し、その帰りに落馬したため亡くなったとされる)を使い、重貞が御所に上がり、重忠謀反を訴え十四歳になる将軍実朝が重忠討伐を命じた。

同月二十二日、時政は重忠謀殺を行う手始めとして、夜半に重保を鎌倉で謀反が起こったと呼び出し、討伐のために出向いた重保は、時政の命を受けた三浦義村に由比ヶ浜で騙し討ちにより誅殺される。義村には、祖父三浦義明が衣笠城に手重忠に討ち取られた事への遺恨が残っていたのだろうか。この後三浦氏は明確に北条氏の下に就く。重忠は鎌倉に変事があったと知らされ、急遽鎌倉に駆けつけるが、翌二十三日に北条義時を大手の大将軍、先陣には重忠と同じ秩父平氏の葛西清重が就き、足利義氏、小山朝政、三浦義村、結城朝光、宇都宮頼綱、八田知重、安達景盛、相馬義胤、そして同族秩父平氏の河越重時、江戸忠重等の軍勢が従った。関戸には、北条時房・和田義盛が大将軍に就いた。重忠の諸士百余人は、幕府軍の大軍に二俣川(現横浜市旭区)で遭遇し激戦の末、討たれる。武蔵の武士の首領であり、幕府に忠誠をつくした平姓畠山氏は滅んだ。泰時もこの戦に参戦したと思われるがその記録はない。

 

 『吾妻鏡』元久二年六月二十三日条、鎌倉に戻った北条義時は父・時政に「重忠の弟・親類はほとんど所にいて、戦場に赴いたものわずか百余人でしたので、(重忠が)謀叛を企てたということはすでに偽りでした。あるいは讒言によって(重忠は)誅殺されたのではないでしょうか。とても憐れです。首を斬って陣に持ってきたのを見ましたが、長年顔を合わせて親しくしていたことが忘れられず、悲涙を抑える事が出来ませんでした。」と言うと、時政は一言も仰らなかったという。

 『吾妻鏡』を読む者にとっては、義時の弁明の記述として美談的に記載されており、編纂時に曲筆されたと考える。北条時政が動き将軍実朝の討伐の命が出され、義時・時房が追討する。そして翌月の七月八日、十四歳の実朝に変わり北条政子により畠山重忠や残党の所領を功勲のある者に賜った。畠山重忠を二俣川で討ち、その後に謀反では無かったにもかかわらず、重忠の所領を功勲のある御家人に賜っている。そして、義時の弟・時房に武蔵守が補任した。北条氏は、この事件により武蔵国を得て相模国と二国を手にいれた。畠山重保の墓は若宮大路、一の鳥居脇に宝篋印塔が祀られている。また、今小路の八坂社は畠山重保の屋敷の傍に建立された。社の北西にある観音山の頂には「望夫石」と呼ばれる大岩があったらしい。畠山重保が北条氏の策謀により由比ヶ浜で討たれた際、重保の妻がこの岩から由比ヶ浜を望み、悲嘆にくれて亡くなり、石になったという伝説が残されているらしい。 ―続く―