北条泰時の幼名・金剛が元服を行った記載がある。
『吾妻鏡』建久五(1194)年二月二日条、「幼名を金剛という十三歳になる江間殿(北条義時)の嫡男(後の泰時)が元服した。幕府でその儀が行われた。西侍に席を三列に設けた。時刻になって、時政が(元服する)童を連れて参上された。将軍家(源頼朝)がお出ましになり、御加冠(元服の中心儀礼で冠をかぶらせる)の儀があった。武州(武田義信)・(千葉)常胤が脂燭(しそく:松の木を燃やして灯明としたもの)を取って左右に祇候した。(童の)名は太郎頼時と号した。次に御鎧以下を(頼朝に)献上された。頼時はまた御引出物を賜った。御剣は里見冠者義成が渡したという。次に三献(酒肴を三回献じる酒宴)・垸飯があり、その後に盃酒が数巡回された。歌舞にまで及んだという。次に(頼朝は)三浦介義澄を右の座に召し「この冠者を婿とするように。」とよくよく命じられた。(義澄は)「孫娘の中から良い女性を選んで、仰せに従います。」と申したという」。烏帽子親の頼朝に取っても、嬉しい元服であり、歌舞にまで及んだことが記載されている。ここで、頼朝自身の一字を取って頼の字を与え頼時と名乗らせた。しかし頼時が泰時に改名したかは、次期・理由共に定かではない。この記述に対しても泰時で統一させていただく。頼朝は、北条と三浦の結びつきにより鎌倉幕府の一層の強化を願ったのかもしれない。頼朝の嫡子・頼家が寿永元年の生まれであり、泰時は寿永二年の生まれのため一歳下になる。嫡子・頼家と同じく泰時に頼を与えた事は、自身の甥であり、頼家の忠臣とした武士になる事を願っていたのかもしれない。翌年には、鶴岡八幡宮での流鏑馬の行事が行われた際に十六騎の内の一人に選ばれている。
『吾妻鏡』建久六年八月十六日条では、「(頼朝が)今日再び(鶴岡八幡宮に)参られた。馬場の儀式が行われた。流鏑馬の射手十六騎は皆(射芸に)堪能な者を選抜されたものである。一番、三浦義長・二番、里見義成・三番、武田信政・四番、東重胤・五番、榛谷重朝・六番、葛西十郎・七番、海野幸氏・八番、愛甲季隆・九番、伊藤成親・十番、氏家公頼・十一番、八田知基・十二番、結城朝光・十三番、下河辺政義、十四番、小山朝長・十五番、江間太郎(北条泰時)・十六番、梶原影茂」。北条泰時は、先述したように源頼朝の甥にあたるため、十六騎の選抜に加えられたのかもしれないが、将来の幕府の大幹部として嘱目され、泰時も頼朝の知遇に堪えて頼朝を尊敬していたと考える。そして泰時十八歳の建久十年(1299)一月十三日に頼朝は享年五十三歳で急逝した。
後年の泰時は、しばしば頼朝の法華堂に参詣しているが、堂上に上がる事を勧められても「御在世中、故将軍の堂上に上がらなかったのに、今そのような非礼をする事は出来ない」と辞退したという。後に執権となった泰時の施政は、頼朝の先例に基づく政策と訴訟裁断を行い死後に至っても頼朝への尊敬の念は絶えなかった。頼朝亡き後、将軍に長子・頼家が遺跡を継承する。正治二年(1200)泰時十九歳の時に、在京中の中原親能の郎等・吉田親清が、前若狭守藤原保季を殺害し逃亡した。保季が親清の妻を犯したのが原因で保季の父定長が親清は鎌倉に逃れ下るだろうと親清の処罰を訴えてきた。
『吾妻鏡』正治二年四月十日条に「今日、掃部頭(かもんのかみ)(中原)広元が江間殿(北条義時)に申し送って来た。「先月、若狭前司(藤原)保季を殺害した男(吉田親清)が手を束ねてやってきました。どのように処置すべきでしょうか。(義時の)御意見に従って(頼家に)披露します。」というと。御返事は「是非に随い披露するのがよいでしょう。」というと。江間太郎主(北条泰時)が仰った。「郎従の身で諸院宮の昇殿の物を殺害した事は武士として大した本意とするところではない。白昼の所業の罪かは重く、直に検非違使庁に召し進めて誅伐されるべきでしょう」。守宮(しゅきゅう:広元)はこの事を聞き、感嘆して涙を流したという」。若年に似ず武士の本文・理非をわきまえたこの意見に大江広元は感心したという。現在の私たちの社会では、何か不自然な裁きのようにも聞こえるが、当時の武士の道理としては、これが当然だったようである。
同月十一日条において、「広元朝臣が申した。吉田親清の罪名について、善信(三善康信)らの審議があった。降人として参向してきた以上は、しばらく(関東に)召し置き、事の次第を検非違使庁に報告して落居(落居:物事が解決して落ち着くこと)させるのがよかろう、と定められたという。そこで今日、(佐々木)広綱の使者は帰洛した。」 ―続く―