寿永二年(1182)に生まれた泰時は、幼名を金剛という。先述したように母が定かではなく、どのように育てられ、過ごしたかも定かではない。金剛は、源頼朝の甥になれる。世の中は頼朝により平家を壇ノ浦で破り、唯一の武家の棟梁として征夷大将軍を叙任した。建久元年(1189)に入ると鎌倉は平穏な年を迎えていた。
『吾妻鏡』建久三年(1192)五月二十六日条に、十一歳になった金剛が散歩中に馬に乗った多賀重行が乗馬で通りかかった。重行は下馬の礼をしなかった。源頼朝はそれを聞き、
「「礼儀というのは老少によるものではない。さらにまた、その人物によるべき事である。中でも金剛のような者は、汝らの同輩に準じてはならない。どうして後の聞こえを憚(はばから)らなかったのか。」と直に重行に仰せ含められた。重行はおびえながら、
「まったくそうではありません。まず若君(金剛)とその従者にお尋ねください。」と陳謝した。
そこで頼朝は金剛に尋ね、そのような事はなかったと申された。奈古谷橘次(頼時:伊豆国奈古谷郷の住人か、北条氏の被官)もまた重行は馬から降りたと申した。頼朝はその時たいそうお怒りになり、
「後で取り調べて明らかになるのも恐れず、すぐにだまし欺く言葉を考えて一時的に処罰から逃れようとするとは、心がけと言い、行いと言い、まことに怪しからん。」と何度も仰ったという。次に金剛はまだ幼少なのに心の端に仁恵の心を持っており、優れて麗しい。と感心され、御剣を金剛に与えられた。これは頼朝が長年所持されたものという。その御剣は承久の乱の兵乱の時に、宇治合戦で(泰時が)携えられたという。」。この記載が泰時の『吾妻鏡』の初見である。
この記載は、頼朝が金剛(泰時)を寵愛していた事と泰時の高潔な人柄を表すものと言われ、『吾妻鏡』が鎌倉後期に幕府の北条氏を中心として編纂されたため泰時を礼賛する記述が著しく多い。しかし、後々の資料での泰時を見た場合、誇張はあるかもしれないが、人となりを語っていると考える。
(写真:鎌倉 妙本寺 比企一族の墓)
『吾妻鏡』建久三年(1192)九月二十五日条には、泰時の父北条義時が制裁を娶る記載がある。「比企の籐内朝宗が息女、当時権威無双の女房なり。特に御意に叶う。容顔太だ美麗なり」と記述されている。頼朝の気に入る女房(女官又は女性使用人)であったが、義時は一年余り恋文を送るが、なびかず、頼朝はそれを見かね「絶対離縁致しません」という起請文を書かせ二人の仲を取り持った。頼朝の仲介で比企(籐内)朝宗の娘である姫の前(誉れ高い幕府女房であった)を正室に迎え翌年・朝時(義時から義絶されるが承久の乱で呼び戻され北陸道大将として武功を挙げる。後、泰時に忠誠を誓う)・名越北条と、重時・極楽寺赤橋北条、そして竹殿女子一人も授かっている。美麗な話として姫の前とは仲むずましかったと考えられるが、その背景には源頼朝が北条と比企との婚姻による結びつきを即した事も考えられる。泰時が十一歳の時であり、少年期は姫の前を継母として育てられた。
頼朝死後、義時は、妻方の比企一族を父・北条時政と共に滅ぼす。比企の乱後『吾妻鏡』では、姫の前の消息は記されておらず、『明月記』によると嘉暦二年(1226)十一月五日条によると「源具親(村上源氏房流で元久二年(1205)従四位下、左近少将に至る)の子(源輔通)は北条朝時の同母弟で、幕府からの任官の推挙があった」と記している。輔通は元久元年(1204)生まれであることから、姫の前が比企の乱直後に義時と離別して上洛し、源具親と再婚して輔通を生んだとされる。輔通は院近臣であるが、幕府から任官の推挙がだされた。不可思議であり、義時も元仁元年六月十三日(1224)に没しているため義時の配慮とは考えられず、執権の泰時の配慮による可能性が高い。また『明月記』には、承元元年(1207)三月三十日条に「前日の源具親少将の妻が亡くなった」と記され、姫の前は再婚後三年ほどで京都でなくなっている。この再婚に義時が関わっているかは定かではないが、具親の次男・輔時も姫の前の子とされ、天福元年(1233)に北条朝時の猶子となっている。これ等は承久の乱後に六波羅探題に就任した泰時と、その後の嘉禄元年(1225)に南方を継いだ異母弟・北条重時の配慮ではないかと考える。当然であるが重時は、執権の泰時を同母兄の朝時以上に慕った。当時に朝時は越後守となるが、幕府評定衆に加えられるのは嘉禎二年(1236)であるため京との係わりが少なく影響力もほとんど無い。北条泰時から重時の連携で、姫の前の子・同母弟を源輔通の任官・輔時を姫の前の子としての長兄・朝時の猶子としたと考えられる。輔時は、宝治二年(1248)従三位右近中将に叙されているが、これは仁治三年(1242)六月十五日に北条泰時が没している事から、後嵯峨院政下の村上源氏に対する処遇の一環であると考えられ、右近中将任官の翌年の建長元年(1249)六月七日に享年四十六歳で死去した。この様に異母弟・縁者を大切にした事は、幼少期から育てられた背景と継母・姫の前の影響があったのではないかと考える。
北条泰時は名執権とされるが、資料を見る限り、賢い子供であったと考える。しかし「聡明」という物ごとの理解が早く賢い。「利発」という頭の回転が早い事。「賢明」という物事の判断が適切である事。「明哲」という聡明で物事の道理に通じている事。これらの聡明、利発、賢明、明哲という言葉が当てはならないように思われる。敢えて言うなら優しく、賢く、道理に通じ、それに反する事は屈強に動じない子供であった。武芸には長じていたようであるが、文才にも優れており、人を引き付ける魅力と人望の持ち主であった事が窺われる。しかし不器用な人物であり、動乱期においては、通用する武将・為政者として評価する事は難しいが、承久の乱後の混乱期を乗り越える政治力には長けた人物であった。
(写真:ウィキペディアより引用 和田合戰義秀惣門押破(歌川国芳) 、)北条泰時花押
北条泰時は、源頼朝や父・北条義時の施策・施政を目の当たりに見て育ったことで、後に優れた為政者となる。多くの資料において、父義時との親子関係においては、あまり良くなかったとされる記述や、義時は嫡子として泰時を認めていたと考えられる記述もある。それは、父・義時が行った鎌倉幕府執権体制の草創期に比企の乱や和田合戦のような対立抗争的な施策・施政とは違った政治を取ったとことがその要因であった。しかし混乱期であった義時もまた合議制を主としており、後の泰時が用いた十三人の評定衆による裁定や御成敗式目制定の大きな要因であったことは言うまでもない。 ―続く