坂東武士と鎌倉幕府 九十三、建永・承元・健暦の実朝 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 三代将軍源実朝は、北条時政が伊豆北条に追われた後、北上政子・義時の後援のもとで次第に幕政を担うようになる。また実朝は和歌に興味を持ち、元久二年(1205)四月に十二首の若を試作した。後鳥羽上皇が勅撰した『新古今和歌集』を京から運ばせ和歌の才能も開花させていく。建永元年(1206)二月四日、大雪が降り、その晩に行きを見るため名越山あたりに出かけ、北条義時の山荘に立ち寄り、北条泰時、吾妻重綱、内藤知親らと歌会を催している。

 同月二十二日、従四位以下に叙され、十月二十日には、兄・頼家の子息・善哉(後の公暁)を政子の命により実朝の猶子(ゆうし)として初めて御所内に入った。善哉の乳母夫は三浦義村で賜物等を献上している。

 

 実朝の生誕が建久三年(1192)八月九日の生まれで、承元元年(1207)正月五日には十六歳になり、従四位以上に叙された。二月には北条時房が武蔵守に任じられ、平穏な日が続く。幕府の政務は各地からの訴状などが多く、裁定されていたが、武士たちは大きな戦もなく安定した日々により気の緩みも生じていた。承元二年(1208)二月十日、実朝は、当時において致死率の高い病であった疱瘡(天然痘)になり大変苦しんだとされる。二十九日には回復した。その後、疱瘡は瘢痕が残るため、それを恥じて、三年ほど鶴岡八幡宮の参拝を止めている。山本みなみ氏は、承元三年(1209)四月から建暦二年(1212)十一月に書かれたとされる慈円の書状には、その期間実朝は籠居していたとあり、また同時期の書状には幕府の相談先に義時・政子・広元の名が記されている。実朝が疱瘡による瘢痕形成が大きな精神的打撃を与え政務全般を行いきれなかったと見解を出している。同年十二月九日、正四位下に叙される。承元三年(1209)四月十日、従三位に叙され、五月二十六日には右近衛中将に任ぜられた。従三位になると公卿となり、政所の開設資格を有し、新再建を凝視し始める。この頃から幕府の下文が「鎌倉殿下文」から「政所下文」に変化した。また、実朝は、和歌に対し傾倒して行き、この年の七月五日に藤原定家に和歌三十首の評を請うており、定家はこれに合点を加え、「近代秀歌」として知られる詠歌口伝一巻を献上した。その後も建暦二年八月と県ら喜二年十一月の五回の交渉があったとし、脾臓の万葉集の贈呈、そして定家が伊勢の小阿射賀御厨の地頭渋谷左衛門慰の「非法新儀(しんぎ:旧例によらず事を処理する事)」の取り締まりを訴え、実朝は「歌道を賞せられる故なり」と直ちに命じてその非議を停止させている。

 

 同年十一月十四日、北条義時が、(皆伊豆国の住人で、主達と号した)年来の郎従の中で手柄のあった者を侍に準じると命じられるように望み、内々で審議が行われたが実朝は許さなかった。「そのことを許せば、その者たちが子孫の代になり以前の由緒を忘れ、誤って幕府へ直参を企てる。後の災を招く元であり、許してはならない」と激しく命じたとされる。

 建暦元年(1211)正月、実朝、正三位に叙され、美作権守を兼ねる。同年六月二日、実朝が急に病気となり、大変重い様子であった為、戌の刻に御所の南庭で属星祭(ぞくしょうさい)が行われ、安倍泰貞が奉行した。翌三日、実朝は病気について夢のお告げがあり、霊験があったと言い、回復している。同年八月には中原広元が病悩に苦しみ様々な祈祷が行われ、同月二十七日実朝は疱瘡を患って以来、初めて鶴岡八幡宮に参っている。同年九月十五日、猶子に迎えていた善哉は出家して公暁と号し二十二日に授戒を受けるため上洛した。 

 

 建暦二年(1212)三月一日、「旬の蹴鞠」を始めたいという実朝の威光により「幕府御蹴鞠始」を行う。『吾妻鏡』の実朝の蹴鞠の記事は、頼家に比べ格段に少なく四年前の承元二年の後鳥羽上皇が催した「承元御鞠」を模したものとみられる。後鳥羽上皇への憧憬と忠順が窺われる。

 同年五月七日、昨年、京より下向した佐渡の守(藤原)親康の娘で、実朝の御台所の女房に北条義時の次男・朝時が好きになり恋文を出したが受け入れられず、昨夜に夜が更けた後、秘かに女性の部屋へ行き誘い出したと言う。この事で実朝の怒りを受け、義時も義絶したため、駿河国富士郡に下向した。朝時は、義絶されていたにもかかわらず、後の和田合戦の際、鎌倉に出向き兄・泰時と共に鎌倉での市外戦で功を挙げる。また、承久の乱では、北陸軍の大将として武功を挙げ、名越流北条氏の祖である。

同年六月七日、御所内の侍所で宿直の田舎侍が乱闘を起こし、その場で死去したものが二人、負傷した者が二人出る事件が起こった。鎌倉内が騒動し、御家人らが馳せ参じた。佐々木義清が犯人を捕らえ身柄を進めた。侍所別当の和田義盛が数人子や孫、僕従等を率いて参り、一身の者を探し求めてその罪を糺断(きゅうだん)する。翌月の七月二日には実朝は先月の刃傷事件により、御所の侍所の新造を望み、不要と申す御家人がいたが認めず、千葉成胤に新造を命じ、勧めるように定められたという。そして、同年十二月十日、実朝は従二位に叙された。

 

 慈円の書状の中で、この頃に実朝上洛の風聞が慈円の耳に達している。『沙石集』にも時気は不明だが、源実朝が望む上洛については、人々は否定的であったが実朝に憚(はばか)って幕閣も意見が出来ずにいた。そこで八田知家は「獣の王である市史は、何も思うところがなくてもその鳴き声だけで獣たちを怖れてしまいます。君主が人臣を悩まそうと思っていなくとも、人民の畏(おそ)れは、どれほどの物でしょう」と諫言し、実朝は上洛を中止したという。

 建保元年(1213)二月十五日、信濃の住人青栗七郎の弟、阿静房安念法師を千葉之介成胤が生け捕り、評議の結果二階堂行村に叛逆の実否を問い糺すように命じられた。安念法師の白状により、謀叛の者が諸所で捕縛され、二百名に及んだとされる。事の内容は信濃国住人の泉小次郎親平が一昨年より、捕縛された諸者に対し、尾張中務丞が養育している故二代将軍頼家の子息・栄実を大将軍として北条義時を討つ企てであった。捕縛された中に侍所和田義盛の息子・義直と義重がいた。 ―続く