坂東武士と鎌倉幕府 九十二、北関東の勇 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 畠山重忠の乱、牧氏事件の終息を幕府と北条政子・義時姉弟により一葉の結末を計った。しかし翌月の八月に再び鎌倉及び坂東に謀反の風聞が流れた。

 

(写真:ウィキペディアより引用 北条政子像、北条義時像)

 『吾妻鏡』元久二年(1205)八月七日条、宇都宮頼綱の謀叛が発覚した。既に一族幷郎従らを率いて鎌倉に参上しようとしているとの風聞があったので相州(北条義時)・(中原)広元朝臣・(安達)景盛等が御台所(政子)の御邸宅に参り評議した。評議が終わり小山朝政を召した。朝政が参上し、義時の座に対して蹲踞(そんきょ)した。広元が仰せを承って朝政に言った。「近日諸人の狼藉が続き、関東では穏やかでなく、その鎮みが重いというのに、頼綱がまた悪事を企み、将軍家(源実朝)を滅ぼそうとしているという。朝政は、先祖(藤原)秀郷朝臣が(平)将門を追討し観賞に預かって以来下野国を譲り、その職は未だ中絶していない。国内(宇都宮)の奢(おご)りをどうして鎮めない事があろうか。だから(朝政は)去る寿永二年には志太三郎先生(源義広)の蜂起を退治したのであり(野木合戦)、多くの人々が感心した。そこで恩賞を与えられた時、将軍の御下文の趣旨は厳密なもので、これは武芸の名誉であった。それならば、また頼綱の驕(おご)りを退けるべきである」。朝政は「頼綱とは縁戚の誼(よしみ)があります。たとえ厳命に応じてその親しさに翻しても、すぐに追討使を受諾しては、思いやりがないではありませんか。速やかに他人に命じてください。ただし朝政は叛逆には同意しておりません。防戦には尽力するつもりです。」とこれを辞退した。

 

 同月十一日、「宇都宮頼綱が文書を相州(北条義時)に献じた。小山朝政が自身の文書をその文書に沿えて進上した。これは謀叛を企んではいないという弁明であった。おそらく朝政の助言を得た為であろう。それについて大官令(中原広元)らが評議を行ったが、返答はしないという。

同月十六日条、今日、宇都宮頼綱は下野国で出家した(法名は蓮生)。同じく出家した郎従は六十余人という

翌十七日条、蓮生法師は(宇都宮頼綱)が宇都宮を出発し鎌倉に向かった。これは誤りがないと陳謝するためであったという

 同月十九日条、宇都宮蓮生入道が鎌倉に到着して相州(北条義時)の御邸宅に向かったが、(義時は)面会されなかった。(蓮生は)結城朝光に託して髻を献上した。これは陳謝の余りの事である。朝光は丁寧にこれを取り次いだ。髻は(実朝の)ご覧に入れた後、朝光に預けられたという

 

 小山氏は、藤原北家魚名流の武蔵国を本領とする秀郷流太田氏を出自とする地方豪族であり、政光が下野国小山に移住し、小山氏を称した。小山政光は八田宗綱の娘を娶り、後に頼朝の乳母になった寒川尼である。石橋山で敗れた源頼朝が再起を計り、安房、上総、下総そして武蔵に入った治承四年十月二日、小山政光と嫡子・朝政が大判役で在京していたため、政光の妻・寒川尼は十四歳になる末子を伴い隅田宿を訪れている。頼朝は乳母であった寒川尼との対面を喜んだ。寒川尼は末子を頼朝の側近として奉公させたいと望む。小山氏の頼朝への臣従であった。頼朝は、その子息を自ら元服させて自身の烏帽子を取って与えた。後の結城朝光である。長沼氏は小山氏の傍流で小山政光の次男宗政を祖とする。結城氏は、小山氏の傍流で小山政光の三男朝光を祖とする。そして小山政光は宇都宮頼綱を猶子としてなっており、小山朝政、中沼宗政、結城朝光とは義兄弟であった。

宇都宮氏は藤原北家道兼流・藤原宗円あるいはその孫の藤原朝光を祖とし、三代当主である朝光の弟が八田知家であり、妹が寒川尼である。朝光の嫡子・業綱(成綱)であり、三十六歳で早去したため、小山正光が縁者・縁戚として頼綱を猶子にして後見したと考える。小田氏は宇都宮氏の傍流で、八田知家を祖とする。このように小山氏と宇都宮氏の縁者・縁戚としての関係が強かった。

 

 北条政子・義時、中原(大江)広元は、幕府にとって北関東の小山氏と宇都宮氏の勢力は脅威であり、どちらかを滅ぼすと言う事が幕府創立前からの常とう手段であった。特に宇都宮頼綱の先妻は稲毛重成の娘、その後北条時政の娘、そして梶原の景時の娘も娶っており、北条政子・義時には、何時反旗を返すかもしれない脅威であったと考えられる。

『吾妻鏡』には謀叛の詳細がなく、これも北条政子・義時、中原(大江)広元に作られた冤罪だと考えられ、北条執権体制の幕府運営の戸惑を示す一つだった。もしも、この時期に北関東の御家人が結束したならば、北条氏及び幕府をも滅ぼしかねない動乱に転じていたかもしれない。一触即発の事態において縁戚・縁者としての小山朝政の対応は、見事と言わざるを得ない。また、宇都宮頼綱は出家をし、そして結城朝光が沈静させた。その後の和田合戦において和田と三浦が敵対して、後に三浦も滅ぶが、北関東の一族の結束は、後もより強固なもとなっている。

 

 宇都宮頼綱は出家後、京嵯峨野の小倉山麓に庵を設けて隠遁したとされるが、頼綱の子は幼少であったため弟の朝業が宇都宮家の幕府への出仕を務めた。しかし頼綱は、承久の乱の後は、鎌倉留守居役を務めるなど政務に付き、重要な立場を維持していている。また、頼綱の父母、祖母譲りの歌人として著名で、同族の藤原定家との親交を深め、宇都宮花壇を京都歌壇、鎌倉歌壇に比肩するほどの地位を引き上げ日本三大歌壇と言わしめる礎を築いた。 ―続く