文治五年(1189)七月十二日、頼朝は再度、飛脚を京に送り、追討準備を整えて泰衡討伐の宣旨を待っていることを伝えた。
「奥州の藤原泰衡を追討すると、以前に申し上げましたので、きっと宣旨が下されるだろうと考え、軍勢を招集しましたが、すでに何日も経過してしまいました。また宣旨は、官使を下されるのでは遅くなりましょうから、右兵衛守(一条能保)に命じて、この飛脚によって頂戴したいと思います」。
しかし、朝廷は、去る七日、「藤原泰衡の追討の宣旨の事について、摂政の九条兼実・公卿等が度々審議し、「義顕(義経)の生死が分かった今、この上泰衡を追討するのでは天下の大事となってしまう。今年中ばかりは、やはり思いとどまられるのが良い。」と宣旨が下されていた。
頼朝は、この飛脚にて宣旨をもらうよう依頼したが、追討を今年中は思い留まるようにとの宣旨が下される。帥中納言藤原経房が能保に連絡して急ぎ鎌倉に伝えた。頼朝はそれを聞き、特に御鬱憤を抱き、
「多くの軍勢が鎌倉にあらかじめ参上しており、すでに多くの出費もある。どうして後年に先送りできようか。今になっては出陣するつもりである。」と言った。
去る六月三十日に、大庭景能から「軍中には将軍の命を聞き、天子の詔(みことのり)は聞かないと申します。すでに奏聞された以上は、強いてその返答を待つ必要はございません。そもそも泰衡は先祖代々から御家人の家を受け継ぐ者で巣から、綸旨が下されなくとも、処罰されることに何の問題がございましょうか。とりわけ集結している軍勢日数を費やすことは、かえって諸人の負担となります。速やかに御出兵くださいませ。」と進言しており、頼朝は奥州討伐を決断していた。
頼朝は七月十七日に軍議を開き、東海道の大将軍千葉介常胤、八田右衛門尉知家それぞれ一族と常陸・下総の武士を引き連れ宇田(現、福島県相馬市)・行方(なめかた:福島県南相馬市)を経由して岩城(福島県いわき市北東部)・岩崎(福島県いわき市北西部、南東部)方面を廻り阿武隈川の湊を渡り、大手軍と合流。北陸道の大将軍比企藤四郎能員・宇佐美平治実政は下道(しもみち:鎌倉街道)を経て上野国高山・小林・大胡・佐貫の武士を従え越後国、出羽国の念種関(ねずがせき:山形県鶴岡市鼠が関)を経て合戦を遂げるよう。頼朝の大手軍は先陣畠山次郎重忠に就かせ中路(なかみち:鎌倉街道)の下野国を経て奥州へと三軍をもって執り行うことが決められた。
同月十八日、頼朝は伊豆山の僧専光房を召し、願をかけ祈禱を命じ、この日比企能員が奥州に向け鎌倉から出陣している。翌十九日、東海道、中路の頼朝大手軍の奥州に出陣した。三方向から奥州に集められた頼朝の兵力は十七万騎、後に『吾妻鏡』では、陣岡、で北陸軍と合流した頼朝の勢力・幕府軍は二十八万四千騎に達したという。出所は不明だが、泰衡の奥州軍は十七万騎ともいわれるが、両軍勢が誇大に記されたと考えられ、幕府軍は多く見ても十八万騎ぐらいで、奥州軍は四万基程度であったと考えられる。同日、梶原景時に預けられていた因人の城四郎長茂(平宗盛により越後守に任じられ平家滅亡時因人として扱われる)が頼朝の大手軍に加わることを許され、また自らの旗を指すことも許された。長茂は「自分の旗を着けると逃げている郎従たちが集まってくる」と喜び語っている。
七月二十四日、頼朝の大手軍は下野国古多橋に着き、宇都宮神社で戦勝祈願を行った。同二十六日宇都宮を出る佐竹四郎秀義(金砂状の戦いに敗れ逃亡するが後に頼朝から許される)が常陸の国から追って加わる。秀義の旗が紋の無い白旗であり、頼朝の旗と同じだったために月の出を描いた扇を佐竹に与え、旗先に付けるよう命じた。同二十八日、下野国那須郡の新戸部の駅に着き、軍勢を掌握する為に御家人に手勢を報告させると、城長茂の郎従は二百余人であった。頼朝は大層ご機嫌だったという。同二十九日、白川関を超え関明神に奉幣される。八月七日、陸奥国伊達郡阿津賀志山(あつかしやま)の近く国見の駅に到着。藤原泰衡は頼朝が出陣したことを聞き、阿津賀志山に城壁を構え阿武隈川の水を率いれ二重の堀を作り要害としていた。泰衡の異母兄の西木戸太郎国衡を大将軍とし二万騎の軍兵を布陣させ、山内の三十里は軍勢であふれた。また刈田郡にも城郭を構え、名取、広瀬の両川に大縄を張り柵とした。泰衡は国分原(仙台市東部)の鞭盾(むちだて:仙台市宮城野区榴ヶ岡付近)で陣を敷き、栗原・三迫・黒岩口・一野辺には、若九朗大夫・余平六をはじめとする大将軍として数千の勇士を置いた。出羽においては田河太郎行文・秋田三郎到文を置いて防衛の策をとる。この日、明朝に泰平の先陣である阿津賀志山の攻撃が命じられ、畠山重忠率いる人夫で八十人が用意した鋤鍬で土砂を運ばせ人馬の障害がなくなるよう堀を埋めた。
(写真:ウィキペディアより引用 佐竹扇に月丸)
同八日、金剛別当秀剛は数千騎を阿津賀志山の前に陣取った。頼朝は卯の刻(午前六時前後)畠山重忠、小山朝光、加藤景兼、工藤行光、同祐光等を遣わし矢合わせが始まった。秀剛は防戦するが大軍の幾重にもなった攻撃で大木戸に退却し、西木戸国衡に敗戦を報告し計略を練った。また、石那坂(現福島市飯坂)では、泰衡の郎従である信夫佐藤庄司基治は叔父の川辺太郎高綱・伊賀良目七朗高重路を率いて、石名坂(福島市平石の石名坂付近)の上に陣取り、堀を彫り、阿武隈川の水を引き入れ、柵を設けて石弓(城壁やがけから石を落下させる)を張って討手を待った。陣取ったが常陸入道念西の子息である常陸冠伊佐為宗・同次郎為重・土卯三郎資綱・同四郎為家が秘かに秣に甲冑、部具を隠し運び伊達郡沢原の辺りに進み激戦の上、為宗、為重、為家は傷を負いながら信夫佐藤庄司基治を始め主な者、十八の首を討ち取り、阿津賀志山の経岡(きょうがおか:福島県伊達郡国見町大木戸字経ヶ丘付近)に首を晒した。
(写真:ウィキペディアより引用 歌川芳虎『奥州高館大合戦』 )
同九日。夜になり明朝、阿津賀志山を越え合戦を行う事と決めた、三浦義村、葛西清重、工藤行光、同祐光、狩野五郎親光、藤沢次郎清親、河村秀高の子息の十三歳になる河村千鶴丸の七騎は先人の畠山重忠の陣を追越して阿津賀志山を進もうとした。これは夜が明け、大軍が山越えするために先人が難しいためであった。その時、重忠の郎従榛沢成清が「先陣を任されているのが名誉であり、傍拝が先駆けをするのを見過ごすわけにはいかない」と言うと、重忠は「それは適当ではない、先陣が任された上は重忠が向かわないうちの合戦は、すべて重忠一心の勲功となる。しかも先陣を進もうとする者を妨げる事は武略の本意ではないし、我が身一人の賞を願うようなものである。ただ知らないふりをしているのが良い」と言った。七騎は夜を徹し山を越え木戸口に馳せた。泰衡の郎従で陸奥六郡第一の強腕の伴藤八をはじめとする強兵が攻め戦い。工藤行光が先駆けを果たしたが、狩野五郎は命を落とした、泰衡の郎従・伴八郎と工藤行光は両人轡(くつわ)を並べ組み合、生死をかけ争ったが、ついに行光が討ち取った。藤沢次郎清親が組み合っているのを見て、加勢し共に討ち取った。また、清重と千鶴丸も数人の敵を討ち取っている。 ―続く