坂東武士と鎌倉幕府 五十九、一条忠頼 誅す | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 寿永三年・元暦元年(1184)六月十六日、『吾妻鏡』に「頼朝、御所で甲斐国武田信義の嫡子である一条忠頼を誅す」とあり、『延慶本平家物語』によると誅殺が四月二十六日となっている。一条忠頼は甲斐源氏の当主武田信義の嫡子であった。信義は、頼朝の挙兵と同時期に兵を挙げ、治承四年(1180)十月二十日に富士川の戦いにおいて頼朝と連携を取りながら勝利した。『吾妻鏡』では、信義が頼朝を通し駿河守護となったとされるが、去る十四日に駿河目代橘遠茂が富士野(現静岡県富士宮市)を回って甲斐国に襲来するとの知らせが入り、武田信義と安田義定等が出陣し,富士の西麓で遭遇し討ち取っている事から実際は信義自身の手により駿河国を手中に収めたものと考えられる。『玉葉』でも富士川の戦いや北陸出兵の追討宣旨の対象者として頼朝と信義は併記され、同格の扱いを受けていた。しかし、甲斐源氏の中で分裂が見られ、信義は頼朝との協調路線をとる。頼朝にとっては東国の武士の棟梁としての立場の誇示において、障害のある甲斐武田氏の排除、もしくは屈服させる動きに出る必要があった。そして、養和元年(1181)には後白河法皇が信義を頼朝追討使に任じたと風聞が流れているとして、義信は鎌倉に召喚される。信義はそれを否定するが、頼朝は「子々孫々まで弓を引くこと有るまじ」と起請文を書かせ、御家人の一人としての立場に置いた。

 

 六月十六日、一条忠頼が鎌倉に招かれ宴席で誅殺された理由について『吾妻鏡』では、「一条次郎忠頼が威勢を振るうあまり、世を乱そうという野望を抱いているとのうわさが聞こえてきた。武衛(頼朝)もこれを察しになり、そこで今日、忠頼を御所で誅殺されるところとなった。」とあり、その暗殺の状況についての記載は有るが、具体的な誅殺を行う理由が記されていない。この誅殺の前後に木曽義仲の嫡子義高の残党討伐という名目で甲斐・信濃に出兵した。この残党の決起に一条忠頼が関与していたのではないかとも推測される。『吾妻鏡』五月一日条には、佐竹氏に対抗する下総国の軍勢以外の御家人に招集をかけ足利義兼、小笠原長清らの軍勢が甲斐国に侵攻しており、『延慶本平家物語』では安田義定の甲斐下向の記事がある。忠頼誅殺と同時に開始され甲斐源氏征圧のための軍事行動朝考えられる。また朝廷において、寿永二年十月宣旨を下し、頼朝の復権と東海道と東山道の荘園・公領を領家・国司に従わせ、元の通りに年貢を納めさせるものであった。そして、この命に服さないものは頼朝に沙汰し処置させることを命じたものである。要するに、この宣旨により東国・坂東の地の年貢を頼朝の軍事力により納めさせ、東国の統治・行政権と年貢を運搬する京への道程での警察権を与えた妥協的な政策宣旨となった。

 

(写真:ウィキペディアより引用 以仁王像、後白河院像)

 寿永二年十月院宣は、頼朝にとって有利なものである。以仁王の令旨より後白河院の宣旨が東国・坂東の統治において有効であり、上洛と西国への出兵の大義名分を獲得したことになる。そこで院及び朝廷は、それ以上の頼朝に権限譲渡を避けたかったと考えられる。木曽義仲追討後、院と朝廷は、頼朝にそれ以上の権力を拡大させないために、頼朝との間で交渉が行われたと推測され、三月元暦元年(1184)三月二十七日に除目において、木曽義仲追討の賞とし、武衛(頼朝)が正四位下に叙された。また、「平家没管領」を頼朝に与える。この除目において義仲追討の勲功が行われたと考えられ、『吉記』寿永三(1184)年四月二日条に、この除目の下命に辞退の項目があり、信濃源氏の大内惟義の名が「左衛門慰源惟義」として記載され、除目で任じられた後にすぐに辞退したと推測される。そして一条忠頼も義仲追討に参戦していたため、叙任された可能性もあり、『尊卑分脈』では、忠頼傍注に「武蔵守」と在り、この記述だけで受領の任官に補任されたとするのは難しいが朝廷にとって甲斐源氏を懐柔し、頼朝の対抗勢力に位置付けようと、また忠頼自身、甲斐の隣国である武蔵国に進出しようとする意志があれば、あながちその人事の可能性は低くない。頼朝にとって実効支配する関東八ヶ国の一つ武蔵国が忠頼の手中に動けば、朝廷により東国権勢を否定されたことになり、容認できるものでは無かったと推測される。

 

 一条忠頼が三月二十七日に叙任を受けていたと仮定し、『延慶本平家物語』による誅殺が四月二十六日。『吾妻鏡』では、五月一日に足利義兼、小笠原長清らの軍勢が甲斐・信濃に進行、六月五日に一条忠頼が掌握していた駿河国を摂津源氏の源頼政末子の源広綱が駿河守、武蔵国を河内源氏義満流の平賀義信が武蔵守に補任された。これらの経緯から見て、私見であるが、『吾妻鏡』の六月十六日に誅殺が行われたとするなら日時的に義高残党決起関与説が考えられるが、残党の決起に忠頼が関与するとは精力的に考えられず、その後の残党の経過を示す『吾妻鏡』の記載も無い。『吾妻鏡』の編者が朝廷の関与を曲筆したのではないかと思われる。『延慶本平家物語』による誅殺が四月二十六日であったならば、「甲斐源氏制圧説」と「朝廷による忠頼懐柔策」とが絡み合った事で、忠頼の誅殺が行われたのではないかと考える。

 

 頼朝は、自身を清和源氏の棟梁として源氏を統括する上で同じ源氏に対し冷遇策と厚遇策を与えて格差をつけた。甲斐源氏に対しては、板垣兼信、安田義定等は冷遇策が用いられ、武田氏、加賀美氏と小笠原氏は厚遇された。平家追討において上洛する信義の子息・板垣兼信は、奉行する土肥実平の配下に就く事に不平を述べ、自身が上位であると示す文言を頼朝に求め書状を送っている。頼朝は、兼信に対して実平のこれまでの勲功において優位を示す返書を出した。また加賀美遠光に対しては「信濃守」の任官を朝廷に申請する等の厚遇している。頼朝の厚遇策による新和と冷遇策の弾圧・粛正により一族の結束が弱まり、勢力の分散が行われ、源氏の血統は頼朝を頂点に甲斐源氏は、御家人として取り扱われるようになった。 ―続く