養和元年二月一日、足利義兼が北条時政の娘を娶り、加賀美長清が上総広常の婿となっていている。人柄が穏やかで忠貞の志を持っており頼朝の命により、このように御家人同士が姻戚関係を持つ。加賀美長清は甲斐源氏の加賀美遠光の次男で、高倉天皇に滝口武者(蔵人の下で内裏の警護に当たった武士)であり、父から甲斐国巨摩郡を継承した。長清が元服の際に高倉天皇から小笠原姓を賜ったとされている。
源頼朝の挙兵の際には、長清が十九歳で兄の秋山光朝と共に京で平知盛の被官であった。しかし、母の病気を理由に高橋(平)盛綱を取り次ぎとして帰国の願いを出して許され帰国する。『吾妻鏡』治承四年(1180)十月十九日条に、富士川の戦いで頼朝の下に参じた。また十二月十九日条では、同じ平知盛の被官であった橘公長等を頼朝の御家人に引き入れる仲介を担う。同月十二日条には、大倉御所新邸に移る儀式の際に頼朝の乗る馬の左に付く役を担っており、そして鎌倉幕府御家人、信濃守護小笠原氏、弓馬術礼法小笠原流の祖として小笠原氏の基礎を築いた。
同月九日、『吾妻鏡』に治承四年の冬、「河内国で平家のために殺された源氏の前武蔵権守石川義基の首が今日都大路を渡されて獄門の樹に懸けられた。…また義基の弟義資・紺戸義広は生け捕られたため、兄の首と共に左の獄舎へ遣わされたという」。源義基は、源(八幡太郎)義家の六男・義時の三男として下総権守、武蔵権守を歴任し、河内源氏の源頼信以来の河内国石川荘(大阪市羽曳野市)に拠り、石川を苗字にした石川源氏の棟梁である。
『平家物語』巻第六、飛脚到来において「河内国石川郡に居住する武蔵権守入道義基・子息石川判官義兼は、平家に背いて兵衛佐頼朝に心を通わせ、すでに東国へ落ち行く事が聞こえた。入道相国(清盛)は追っ手を遣わせ、大将に源季貞、摂津の判官盛澄、都合其勢三千余騎を出発させた。城内には武蔵権守入道義基・子息石川判官義兼と百騎ばかりの軍勢であった。戦い始めに兵士を鼓舞させる鬨の声を上げ、戦を始める矢合わせを行い、入れ替え、入れ替え激しく戦う。城内の兵は力の限り戦い、討ち死にする者は多く、武蔵権守入道義基は討ち死にした。子息石川判官義兼は痛手を負い生け捕りにされた。同十一日、義基法師が頸、都へ入って大路を渡される」。この歳に高倉(太上天皇)上皇が崩御され、「まことに暗し」喪に服する期間に賊首を渡らせる事は、堀川天皇崩御の時に源義家の第二皇子で為義の父・前対馬守義親が任期中に人を殺し隠岐に流されるが、乱を起こす。嘉承三年(1108)正月に、平正盛に討伐されて、その首が都大路を渡されたのが先例で、それ以来の事てある。
平清盛は、以仁王の令旨により蜂起する源氏に対し河内源氏のかつての本拠である河内石川に拠る石川源氏を危険視した。策略を用い石川源氏の主力を鳥羽(京都市伏見区)まで誘い出し、一気に包囲して殲滅させた。この戦いで、先頭に立ち戦った老齢の義基は、ここで討ち死にしている。子息の義兼は本拠石川城におり、清盛は源義家以来の河内石川源氏を殲滅するため源季貞、平盛澄に石川城攻めを命じた。義兼は叔父の源義資・紺戸義広と共に決死の攻防戦を行い平家の軍勢を散々てこずらせた。しかし、やがて衆寡敵せず、落城。義兼は地頭を決意するが敵方の兵に幾重も折り重なられて生け捕りにされた。叔父の源義資・紺戸義広と共に投獄されるが。その後の木曽義仲の入京と平家の都落ちの混乱に乗じて獄舎を脱出して河内に戻り再武装する。そして、源頼朝の参加に入り治承・寿永の乱を戦った。河内源氏後裔の頼朝からは「河内随一の源氏」と評されている。義兼の子孫は鎌倉幕府御家人となり、南北朝時代には石川源氏として存続し、その後の子孫は石川氏として存続している。
この間、平家は美濃国までの追討を行っている。同月十二日、頼朝の軍を追討するため出陣した平知盛、清経、行盛が、知盛の病のため近江国から京に戻り、美濃国で討ち取られた源氏とそれに従った武士の首が、この日に入洛したとある。
同年二月二十七日、安田義定の飛脚が遠江国から鎌倉に参上した。平家の大将軍平通盛、維盛、忠度が数千機を率い下向し尾張に達して武士の派遣と防戦の対策を講ずるべき進言を行っている。
そしてこの日、平清盛は、原因不明の熱病に臥せった。三日三晩に亘(わた)ってうなされ悶え苦しみ、重ねて来た悪行のために成仏できそうにない己の顛末に思う。清盛が炎のような高熱にさらされ臨終の間際に「今生の望一言ものこる処なし、ただし思ひおく事とては、伊豆国の流人、前兵衛佐頼朝が頸をみざりつるこそやすからね。…やがて打手をつかわし、頼朝が頸をはねて、わが墓のまえに懸けるべし。それぞくようにてあらんずる」と言ったとされる。治承・寿永の乱に勝利する源頼朝であったが、平治の乱後、平清盛の継母・池禅尼が梟首される頼朝を清盛に懇願されたことで流罪とし、命を救われた。清盛にとっては、いかに悔やまれる思いだった事かと窺われ、閏二月四日、平清盛六十一歳で死去した。
平家の悪行の最たるものとして、後白河院幽閉、南都焼き討ちが挙げられるが、平清盛にもその言い分はあった。「金が無いのに使うばかりで策を打たず、各地に反乱が起きても治める事も出来ない。何も出来ず貴族と偉そうにするばかりの坊主が支配する、このむさ苦しい世を富と武力で変えた」。平安期において、南都北嶺の大衆(僧兵)は、仏教の教えを学ぶ事無く、教えに反して強硬な武力勢力として位置付けされ、各寺院は僧兵により守られた。朝廷や摂関家に対し強訴を繰り返し、宗教的権威を背景とする強訴は僧兵の武力以上の威力を持ち、しばしば朝廷や院を屈服させ、国府や他領との紛争を有利に解決させている。朝廷はその対策を何も出来ず、軍事貴族に頼らざるを得ず、悪僧を滅ぼすとも批判は少なかった。しかし、寺院の伽藍を焼亡した事が後の世にも平家の悪行が語られるが、絶対的な天皇制律令国家において後白河院の幽閉及び朝廷に対する行為が後の世まで平家の大罪と語り継がれた要因とも考える。しかし、本来なら律令国家であり、朝廷に対して行った鎌倉幕府執権北条義時と後鳥羽院との承久の乱でも大罪と称すべき事例である。鎌倉幕府滅亡後も足利氏が創立した室町幕府は、南北朝の戦乱を生じさせた大罪である。また室町幕府の政治政策は、鎌倉幕府を継承し、北条義時と泰時の治世を基に開かれたため、承久の乱の批判的な文献は残されなかったと考える。
平清盛は「仏敵」の汚名を付けけられ、そして治承五年(1181)閏二月四日、清盛が没した。遺言の中に「子孫らはひたすら東国を帰伏させる計略を立て行う事」が残されていたという。平家は宗盛を長としたが、早世した長子・重盛とは比較にならないほどの男であり、また、京に及び西国においては数年前から飢饉が続き、養和の大飢饉に襲われた。院政派の勢力復活と後白河院の策略に翻弄され平家は東国に出兵することが出来ず。そして、木曽義仲の入京と平家の都落ち源平合戦へと平家滅亡の道をたどって行くのである。 ―続く