治承四年(1180)十二月十二日に、源頼朝は十月から施工されていた大倉郷の新造の御邸へ移る儀式が行われた。鎌倉は元々辺鄙な土地のため漁師や農民以外は住む場所ではなく、村里にも名が無い状態であったが、この時に道を治し、新道を作り、村里に名を付けられる。また、頼朝を鎌倉の主として推載する御家人達もこぞって居館を構え、家屋が並び、門扉が軒をめぐらすようになった。武士の都、鎌倉が整えられていく。またこの日、『吾妻鏡』に「今日、園城寺が平家のために焼失した。金堂以下の堂社や塔廟、それに大小乗の経巻、顕密の聖教がほとんど灰となってしまった」と記される。
同月十四日、頼朝は武蔵国住人の多くに、元から知行していた地主職(じしゅしき:土地に対しての権益で、ここでは地頭職に近い)は、今まで通り執り行うようにと命じ、北条時政、土肥実平が奉行し、藤原邦綱が文書を記した。十六日には鶴岡若宮に鳥居が立てられ、長日(長い日数の日)の最勝王経(法華経・仁王経と共に国家鎮護の三部経)の講讃(仏教で経文の意味内容を講義し、その功徳を讃える事)が始められた」。頼朝は、水干の装束で馬に乗り参詣している。
同月十九日には平の知盛の家人橘公長が頼朝の祖父源為義の恩義を忘れず、子息の公忠・公成を伴い鎌倉に下向し、御家人となることを許された。また、新田義重が帰順を示し、孫の里見義成が京より参上している。この間にさらなる東国・坂東武士達が頼朝の下を訪れたのであろう。
同月二十四日、木曽義仲は自立の志のため、父(源義賢:頼朝の父源義朝の弟)の遺領である上野国多胡庄に入っていたが、関東での頼朝の権威が高まっていたため、上野国を去り信濃国に帰ったという。その後、『吾妻鏡』に二十五日、「平重衡が平相国禅閤(清盛)の使いとして。数千の官軍を率いて、南都の衆徒を攻めるために出陣した」と、また二十八日に、「平重衡が南都を焼き払ったという。東大寺・興福寺の核内にある同党は一つもこの炎上を逃れることが出来ず、仏像・経論も同様に焼けてしまったという」。と記されており、鎌倉中期の編纂の『吾妻鏡』であるため、この日に追記したと考えられる。
年が明け、治承五年(1181)正月、武士の都の鎌倉が形取られ、一日の日に頼朝は鶴岡若宮を参詣した。この年の七月十四日に改元が成され、養和元年となっている。同月六日に石橋山の合戦で北条時政の嫡男・宗時を討った後、姿を消していた伊豆国平井郷の武士である平井紀六久重を工藤景光が生け捕った。すぐに北条時政の所に連れて行き、時政は頼朝に伝えた。頼朝は紀六を和田義盛(侍所別当)に預ける。そして勝手に挙手してはならないと命じ、その後糾問し、宗時を殺したことを認めたという。そして、この年の四月十九日、腰越浜の辺りで因人として晒し首にされている。
同月十一日に昨年土肥実平が連れてきた梶原景時を頼朝は参上を命じ初めて対面した。石橋山での合戦で「大庭景親は頼朝の後を追って峰や谷を探し回っていた。ここに梶原平左景時という物がおり、確かに頼朝の御在所を知っていたが情けに思うところがあり、この山に人が入った痕跡は無いと偽って景親の手勢を引き連れて傍らの峰に登って行った」、と『吾妻鏡』に記されており、後に和田義盛に代わり侍所別当となり頼朝の懐刀となる。この日の頼朝は、景時は文筆に携わる者では無かったが、弁舌に巧みであり、非常に気に召されたとされる。文筆に携わる者では無かったと記されるが、これは藤原邦通の公的文書に長じた者では無いという意味である。景時は、後の源平合戦の軍奉行・軍師として、明瞭な戦況報告と義経の讒言を頼朝に報告しており、頼朝はその文面を称えており、後に侍所別当を和田義盛から梶原景時に変更した要因とも考えられる。また、和歌を好み長けている面、「武家百人一首」にも選出され、『愚管抄』等においてもその評価は高い。
同月二十一日、この月の五日以来熊野さんの悪僧が伊勢・志摩両国に乱入し合戦が度々行われ、十九日になり浦六ケ所ですべての民家を追捕した。悪僧により平家の家人は要害の地を捨て、多数の死傷者が出ている。この日、勝ちに乗じた悪僧は、二見の陣かを焼き払い四ツ瀬川の辺りに攻め寄せたところ平家一族の関出羽守平信兼が軍兵を率い船江の辺りで防戦したところ悪僧の張本である戒光に信兼の矢が当たった。そのため衆徒らは、二見浦に退き、三・四十歳の下女から十四・五歳の少童を捕らえ、舟で熊野浦に戻った。これは当時、南海道は平相国禅門(清盛)が奪い取った地であるため関東の繁栄を祈禱していた熊野山は、平家を滅ぼそうとしてこの企てがあったとされる。清盛のおごりのあまり、朝廷の政治を軽んじて、神威を疎かにし、仏法を破滅させ、人民を悩ませた。そして最近では、伊勢神宮の神三郡に使者を送り、兵糧米を賦課し、民家を追補している。天照大神が鎮座して以来の千百余年、今までこの様な例は無かったという。このニ・三年、清盛とその子孫は敗北するだろうと都も地方も、貴き人も賤しき人も皆夢に見た。 ―続く