鎌倉散策 平重衡の墓標を訪ねる | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 京阪電車で京都の六地蔵経由を経由して京都市営地下鉄の石田から歩いて日野に向かう。三十二度の気温の中三十分近く歩き 南都焼き討ちの責を負い、一の谷の合戦で生け捕られた平重衡は、捕らわれの身として鎌倉に下向した。源頼朝は、伊豆で重衡と謁見している。

 

 『吾妻鏡』元暦三年三月二十八日条、「本三位中将(平重衡)を廊で謁見され、仰った。「君(後白河)の御憤りを慰めるためや、父(源義朝)の亡骸の恥を雪(すす)ぐため、試みに石橋合戦を始めて以来、平氏の逆乱を退治する事は思いのままであった。よって、あなたとお会いすることが出来たのは名誉なことである。この上は、槐文(かいもん:平宗盛)と謁見することも疑い無いところである」。羽林(重衡)が答えて申した。「源平両氏は天下を警護してきたが、このところは当家が独り朝廷を御守りしており、昇進を許された者は八十余人に及んだ。だが、今、運命が縮まった事によって、因人としてここに参ったのであるから、あれこれ言うまでもない。弓馬に携わる者が、敵のため捕虜になる事は、決して恥ではない。はやく斬罪に処するように」。重衡は少しの憚(はばかり)りもなく答問した。これを聞いた者で感動しない者はいなかった。その後、(頼朝は)重衡を狩野介(宗茂:工藤重光の男,伊豆の有力在庁)に召し預けられたという。今日、「武家の者たちについて、仙洞(後白河)から御下命があった事は、あれこれを論ぜず速やかに成敗する。武家の方に道理がある場合には、追って奏聞をす」。頼朝及び立ち会った武士が重衡の武人としての立ち振る舞いに感動したと記される。その後、鎌倉の御所の一室を与えられたとされ、一年少し鎌倉で過ごした。重衡の世話をする頼朝の室・政子の女房・千手前との語らいは平家物語で語られている。そして、南都焼き討ちに対し南都の大衆の要請があり、文治元年六月、鎌倉を後にして京に向かった。平重衡は京に入ることなく南都に向かう。

 

 『平家物語』巻第十一「重衡被斬」で「今回は都の中へは入らず、大津(現滋賀県大津市)より山科(現京都市山科区)を通り、醍醐路(現滋賀県大津市、逢坂関、山科、醍醐、京都伏見に繋がる道)を通ったので、日野(現京都市伏見区日野)は近くであった。重衡の北の方(正室)は、鳥飼中納言惟実(藤原惟実)の娘で、五条大納言国綱(藤原国綱)の養女(鳥飼中納言の娘は誤りで邦綱の実子とされる)、先帝(安徳天皇)の乳母、大納言佐殿(すけどの:邦綱の第三女で名は輔子)と呼ばれている。三位中将(平重衡)が摂津国一の谷で、生け捕りにされた後は、安徳天皇の供に付き従ったが、壇の浦で海に沈んだが、荒々しい粗暴な源氏の兵に捕らわれて、故郷に帰り、姉の大夫三位(藤原成子:六条天皇の乳母)の居に寄せ、日野という所におられた。三位中将(平重衡)の露の命、草葉の先にたまった露が今にも落ちそうになりながらもかろうじて残っているとお聞きになったので、夢の中で何度も見たが、今一度、姿を見たく、お会いしたいと思うが、それもかなわぬ事と、泣くより他に慰めもなく、日々を暮らしていた」。ここで警護の武士の計らいで二人は今生の別れを告げることが出来た。その「あはれ」を『平家物語』は今も人の心に語りかけている。

 

 斬首の日、昔重衡に仕えていた木工右馬允(むくうまのじょう)知時が重衡の最期を見届けに駆けつけた。重衡は、「できるなら最後に仏を拝んで斬られようと思うのだが、あまりに罪深く思えるので」と言うと、知時は、「お安い御用でございます」と言って、守護の武士に相談して、そのあたりの里から、仏を一体借りて戻ってきた。幸いにも阿弥陀仏だった。仏を河原の砂の上に据えて、すぐに知時が狩衣の袖の括(くくり:狩衣の裾口に通した紐)を解いて、その紐の一方を仏の手にかけ、紐のもう片方を重衡に持たせた。

 

「一たび阿弥陀仏の名号を念ずれば、無量の罪もたちまち消滅する。願わくは逆縁(悪行がかえって仏道に入る機縁となること)を以って順縁(仏道に入る縁となる善事)となるように、この最期の念仏によって、九品托生([九品]は[九品浄土]の略で、[西方浄土]で生きながらえること)を遂げさせよ」と大声を播上げて念仏を十返唱えながら、首を伸ばして討たれた。これまでの日頃の悪行はいうまでもないことだが、この有様を見て、数千人の大衆(衆徒、僧)も、守護の武士たちも、皆涙を流した。重衡の首は般若寺(現奈良市般若寺町)の大鳥居の前に、釘付けにして掛けられた。これは去る治承の合戦(南都焼き討ち)の時、ここに重衡が討ち入って、伽藍(寺院の建物)を焼き滅ぼしたからだという。」斬首されたという木津の河原近くに不成柿・首洗池、と安福寺があり、重衡の供養のため十三重塔が建立されている。

  

「北の方大納言佐殿は重衡が斬られたことを聞いて、「たとえ首ははねられるとも、骸はどこかに捨て置かれていることでしょう。骸を持ち帰り孝養(供養)しなくてはと申して、輿を遣わした。思った通り骸は河原に捨て置かれていた。重衡の骸を輿に乗せて、日野に担いで帰り、これを待ち受けて御覧になった北の方の心のうちは、察するほど「あはれ」であった。昨日まで立派な様子でおありだったけれど、暑い頃なので、早くも変わり果てた姿になってしまわれていた。そのままというわけにはいかないので、その辺りにある法界寺(現京都市伏見区日野にある寺院)に入れて、然るべき僧たち大勢にお願いして供養を受けて頂いた。」北の方・輔子が住んでいたとされる伏見区醍醐外山街道町に平重衡墓(石柱)として残されている。

「重衡の首は、大仏(東大寺)の聖である、俊乗房(重源)に願い出て、俊乗房が南都の大衆(衆徒、僧)にお願いしたので、すぐに日野に送られてきた。首も骸も煙(火葬)にして、遺骨は高野山に送り、墓を日野に作られた(日野の法界寺近くに重衡の供養塔が伝えられている)。北の方はやがて様を変えて仏門に入り、濃い黒染めの僧衣に替えてやつれ果て、重衡の後世菩提を弔われたのが哀れであった」。法界寺は日の薬師として知られているが、今はそこに重衡に関わる物は無い。