『吾妻鏡』の平重衡の記載は、歴史書であるため、ごく短く記載されている。しかし、元暦元年三月二十八日条の源頼朝の謁見に対しては、『吾妻鏡』にしては詳細に記され、千手前という女性についても記載されている事が特徴的である。元暦元年(1184)三月の記載をみる(現代語訳『吾妻鏡』五味文彦・本郷和人編、二平氏滅亡)。
三月二日条、「三位中将(平)重衡卿は、土肥次郎実平のもとから、源九朗主(源義経)の亭に移った。(土肥)実平が西海に赴く事になったからである」。
同十日条、「三位中将(平)重衡卿が、今日、出京し関東に赴いた。梶原平左景時が連行した。これは武衛(源頼朝)が申し出られたことによる」。
同二十七日条、「三品羽林(さんぽんうりん)重衡が伊豆の国府に到着した。おりしも武衛(源頼朝)は北条におられたので、(梶原)景時は使者を派遣して指示を仰いだ。早くここに連れてくるように、と命じられたので景時は(重衡を)伴って(北条に)参上した。ただし、明朝面会しようと重衡に伝えたという。」
同二十八日条、「本三位中将(平重衡)を廊で謁見され、仰った。「君(後白河)の御憤里を慰めるためや、父(源義朝)の亡骸の恥を雪(すす)ぐため、試みに石橋合戦を始めて以来、平氏の逆乱を退治する事は思いのままであった。よって、あなたとお会いすることが出来たのは名誉なことである。この上は、槐文(かいもん:平宗盛)と謁見することも疑い無いところである」。羽林(重衡)が答えて申した。「源平両氏は天下を警護してきたが、このところは当家が独り朝廷を御守りしており、昇進を許された者は八十余人に及んだ。だが、今、運命が縮まった事によって、因人としてここに参ったのであるから、あれこれ言うまでもない。弓馬に携わる者が、敵のため捕虜になる事は、決して恥ではない。はやく斬罪に処するように」。重衡は少しの憚(はばかり)りもなく答問した。これを聞いた者で感動しない者はいなかった。その後、(頼朝は)重衡を狩野介(宗茂:工藤重光の男,伊豆の有力在庁)に召し預けられたという。今日、「武家の者たちについて、仙洞(後白河)から御下命があった事は、あれこれを論ぜず速やかに成敗する。武家の方に道理がある場合には、追って奏聞をする。」と定められたという。」
四月の六日には、平治の乱で十四歳の頼朝の斬首から流刑に嘆願した故池禅尼の恩徳に報いるたに、一条能保と鎌倉に下向した池禅尼の子・平頼盛の勅勘の許しと所領存続を頼盛が朝廷に願い出ていた。そしてこの日に頼盛とその妻室八条院に勅勘の許しと所領存続が朝廷から下されている。
四月八日条、「本三位中将(平重衡)が伊豆国から鎌倉に到着した。そこで武衛(源頼朝)は御所内の建物一軒を指定して、重衡を招き入れられた。狩野介(宗茂)の一族・郎従たちに毎夜十人ずつ、当番を決めて(重衡を)警護させた。」
四月二十日条、「雨が降り、一日中止まなかった。本三位中将(平)重衡は武衛(源頼朝)の御許しがあって沐浴をした。その後、火灯し頃になって、(重衡の)徒然を慰めようと仰って、藤判官代邦通・工藤一臈(いちろう)祐経、そして官女一人〔千手前(せんじゅのまえ)と呼ばれる〕を羽林(重衡)のもとへ遣わされた。さらに酒・果物などを添えられて送られたので、重衡は大変喜ばれ、遊興で時を過ごした。祐経は鼓を打って今様を歌い、千手前は琵琶を弾き、重衡は横笛で和した。まずは五常楽(ごじょうらく:舞楽曲で太平楽と共に広く奏でられた)を吹いた。重衡は「私にとって、これ(五常楽)は後生楽と呼ぶべきだろう。」と称した。その後(重衡は)皇麞急(おうじょうきゅう:雅楽の皇麞のうちの「急」の部分)を吹いて。「往生急である。」といった。全く持って興を催さない芸能は一つとしてなかった。夜中になって、千手前が帰ろうとすると、重衡はしばらく彼女を留めて、盃を与え、さらに朗詠を吟じた。「燭暗くして、数行虞の涙、夜深くして四面楚歌の声」(項羽が漢の劉邦に包囲された時、四面の官軍が楚の歌を歌った。灯暗く、虞美人の涙が流れ、周囲が敵ばかりの声)と。その後、国通らは帰って午前に参上した。
頼朝は酒宴の次第を尋ねられた。邦通が申し上げた。「羽林(重衡)は言葉も芸能も全く持って優美です。五常楽を後生楽と言い、皇麞急を往生急と称しました。これは、みな由緒のある事です。楽名の中の廻忽(かいこつ:唐学に属する平調の曲で舞いを伴わない)はもともと廻骨と書き、大国の葬礼の時にはこの額を演奏したと言うことです。自分が因人として誅されるが、間近に迫っていることを心得ているのでしょう。また千手前が帰ろうとした時、さらに四面楚歌の句を詠字ました。かの項羽が呉の国を通った時のことを、その時に思い出したからでしょう」。頼朝は特にそのことの様子に感激され、「世間の噂を憚って、自分はその座に臨まなかった。うらめしい。」と仰ったという。頼朝はまた宿衣(とのいぎぎぬ)一両を千手前に持たせて、もう一度、重衡のもとへ遣わされた。その上で祐経を通じて、「田舎武士の娘は帰って興或るものでしょう。(この相模国に)御在国の間は、(千寿の前を)あなたの御側に召し置いてください。」と[重衡に]仰ったという。祐経は頻りに重衡を憐れんだ。以前、小松内府(平重盛)に仕えていた時、常に重衡と顔をあわせていたので、今も旧交を忘れていなかったからであろう。」
頼朝は、「世間の噂を憚って、自分はその座に臨まなかった。うらめしい。」と言い。自分もその場に射たかったと惜しんだ。阿弥陀仏を特に信仰する頼朝にとって南都焼き討ちの主犯である重衡に対し、焼き討ちが本意ではなく、大将軍としての責を問われる重衡の武士としての態度に共感を覚えたのだろう。壇ノ浦の合戦前であるが平重衡が鎌倉に下向時に対面した。しかし、文治元(1185)六月七日、合戦後捕らえられた平氏の総帥である前内府・平宗盛と対面は取りやめになっている。
(写真:ウィキペディアより引用 大江広元)
『吾妻鏡』六月七日条にて、「大江広元が「今度は以前の例とは異なります。君(源頼朝は)国内の反乱を鎮められ、その位は既に二位に叙されております。宗盛は過失を犯して朝敵となり、今や無位の因人です。対面されることは、かえって軽率の誹りを招くでしょう」。…簾中(れんちゅう)から宗盛の姿を見て、比企能員を通して「御一族に対しては、それほどに深い恨みはないが、勅命を承ったので、追討使を派遣した結果、たちまちこの田舎にお招きすることになりました。そして恐れ多いとは思いましたが(平氏の総数であるあなたにお目にかかる事で)武芸に携わる者の名誉としたいと思ったのです」。能員が宗盛の前に蹲踞(そんきょ)してお言葉を詳細に述べたところ、宗盛は座を動いて(敬意を表し)、しきりにへつらう様子であった。(能員に)話した内容もはっきりしなかった。「ただ命を助けていただきさえすれば、出家して仏道に専心したい。」と言っていた。この宗盛は四代の将軍の子孫として武勇の家に生まれ、相国(平清盛)の次男として官位も報酬も心のままであった。だから武威を恐れ憚る事はないし、官位を恐れることもない。どうして能員に対して礼を尽くす事があろうか。いくら礼を尽くしたからといって死罪を許されもの者でもない。この様子を見た者は(宗盛を)非難したという。」。
(写真:ウィキペディアより引用 平重衡像、平宗盛像)
『平家物語』では、物語として平重衡と平維盛を対称的な哀れを記しており、史書として『吾妻鏡』が全て正確な物ではないが、平重衡と平宗盛の人物像を比較している旨がある。鎌倉では、今も重衡にまつわる逸話、史跡等が残されている点、あながち平重衡の話は創話ではないと思われる。 ―続く