『平家物語』巻第十、「戒文(かいもん)」にて、平重衡に受戒を与える法然上人の話である。法然上人は専修念仏を唱えた浄土宗の開祖であり、そこから鎌倉新仏教が始まっている。『平家物語』には、この時代の施政、合戦の経緯、世情、人となりの経緯、そして宗教的な唱導が語られている。重衡の慟哭が特に「戒文」で語られていると思われる。私の特に好きな語りであり、現代語訳にて記載させていただく。
「三位中将は、これを聞いて「やはりそうであろう。どんなに一門の人々が重衡の事を悪く思ったことだろうか」と後悔したが、しかたがない。まったく、重衡卿一人の命を惜しんで、あれほど大切な我が国の宝である三種の神器をお返し申しあげようとも思わず、この御返書の内容は前もって予想されていたが、まだ何とも返答を申されなかった間は、何となく気が重かった。返書はすでに到着して、関東へ下向になる事が決まったので、何の頼みの綱もなくなって、何かにつけて心細く、都の名残も今更の如く惜しく思われた。三位中将は、土肥次郎実平を召して、「出家しようと思うが、どうしたらよかろう」と言われると、実平は、この事を九郎御曹司(源義経)に伝えた。九郎御曹司が、これを院の御所に申し上げられたところ、「頼朝に三位中将を見せた後でならどうともこうとも取り計らうことができようが、今はどうして許されようか」と仰せれたので、この事を三位中将に伝えた。「それなら長年子弟の契りを結んだ上人にもう一度会って来世の極楽往生について教えを受けたい」と言うと、(実平は)「その聖は何と申す人でしょう」。三位中将は、「黒谷の法然坊(ほうねんぼう)と申す人です」。「それなら差しつかえありますまい」といって面会をお許しになった。
(写真:ウィキペディアより引用 平重衡像、後白河院像)
中将は、ひとかたならず喜び、上人をお招きして泣く泣く申された事には、「今度の戦で生きながら捕われましたのは、再び上人とお目にかかれる宿縁であったのでしょう。それにしても重衡の後生の安楽のためにはどうすべきでしょう。我身が自身の意のままだった頃は、御所への出仕にまぎれ、政務に束縛され、驕(おご)り高ぶる心だけが強く、まったく来世に我身がどのようになるかという不安はありませんでした。況(いわん)や運が尽き、世が乱れた後は、ここで戦い、あそこで争い、人を亡ぼし我身は助かろうと思う邪悪な心だけが邪魔をして、今まで善良な心が起こりませんでした。特に奈良の寺々を焼いたことは、君の命令でもあり武名の命令でもあって、家来として君に仕え、世間に従わねばならぬ道理から逃れられず、奈良の僧徒の悪行を鎮めるために出向きました。思いがけず伽藍が焼失してしまう事は、仕方のない事ですが、その時の大将軍であった以上、その責任は大将軍一人にかかると申すので、重衡一人の罪になってしまうと思います。又ひとつには、あれこれと人の思いも及ばない恥をさらし、すべてその報いだと思い知らされました。
今となっては頭を剃り、受戒して、ひとえに仏道修行をしたいのですが、この様な捕らわれの身の上になってしまったので、自身が自身の思うようにはなりません。今日、明日とも知らぬ身の行方ですが、どの様な修行をしたとしても罪業の一つでも助かりそうには思えないのが悔しく思います。どんな修行をしても、罪業の一つでも助かろうと思われないのが悔しゅうございます。つくづく私の一生涯に行った行為を考えますと、罪業は須弥山よりも高く、善行は微塵ばかりもございません。このようにして空しく命を失くしますならば猛火で焼かれる地獄の苦しみに会うのは疑い有りません。願はくは、上人の慈悲を起し、憐みを頂いて、こんな悪人の助かる方法があるならば、お示しくだされ」。その時上人は涙に咽(むせ)んで、しばらくは何もおっしゃらなかった。少し時をおいて、「まことに六道(地獄道・餓鬼道・阿修羅道・畜生道・人間道・天道)に輪廻する中で、人間界に生れるのは難しいのに、せっかくその人間の身を受けながら,空しく三悪道にお帰りになられることは、どんなに悲しんでも尚足りません。それなのに今では、煩悩に穢れたこの娑婆を嫌い、仏菩薩の住む清浄な浄土に生まれることを願うのに、悪心を捨てて善心を起されました事、過去・現在・未来の三世の諸仏もきっとお喜びになられることでしょう。それについて迷いの境界を離れ出て、仏門に入る方法は人それぞれと言いますが、仏法が衰え濁った末の世に救いを求めるのは念仏を唱える事が大事とします。
志す浄土を九段階に分け、仏道修行を南無阿弥陀仏の六字に縮めて、どんな愚かな者でもそれを唱えれば生きるためのよりどころを得られます。罪が深いからと言って卑下する事はありません。十悪五逆を犯した者でも改心すれば往生をとげることができます。功徳(くどく)が少ないからといって望みを捨ててはなりません。南無阿弥陀仏を一回唱えても十回唱えても、念仏を唱えるという気持ちになれば仏が迎えに来てくださいます。善導(中国浄土教の僧)は、「専称名号至西方(せんしょうみょうごうしせいほう)と経文の意味を解釈して、専(もっぱ)ら南無阿弥陀仏の名を唱えると、西方浄土に至るのだと教えています。「念々称名常懺悔(しょうみょうじょうざんげ)」と唱えて一瞬一瞬に弥陀を唱えれば、それが常に過去の罪業を悔い改めていることになるのだと教えたのです。「利剣即是弥陀号(りけんそくぜみだごう))を頼りにすれば魔物は近付きません。
「一声称念罪皆除(いっしょうしょうねんざいかいじょ)」と念ずれば、罪は皆、除かれたと見えるのです。浄土宗の極意はそれぞれに簡略を主として大要を知る事が肝要だとします。但し往生を得るか否かは、信心の有無によるのです。ただ深く信じて、ゆめゆめ疑ってはなりません。もしこの教えを深く信じて、行住座臥(ぎょうじゅうざが:行く事、止る事、座る事、臥す事の日常の起居動作)において、あらゆる時と場合を選ばず、三業四威儀:さんごうしいぎ、身・口・意)の行いの際に心念口称(心に弥陀の名号を念じ、口に名号をお唱えになる事)をお忘れにならなければ、臨終の時を境にしてこの苦しみの多い現世を出て、あの極楽浄土にて往生なさる事、何の疑いがありましょうか」と教え諭(さと)されると、中将はひとかたならず喜んで、「このついでに受戒し仏戒を守ろうと思いますが、出家しなければ叶わないのでしょうか」と申されたところ、「出家しない人も戒をたもつ事は世の常のならひです」といって、法然上人は、重衡の額に剃刀を当てて剃る真似をして十戎(仏道修行者が守らなければならない十の戒律)を授けられたので、中将は随喜の涙(随喜:ずいきの涙、心から有難く思って流す涙)を流し、これを受けてお守りになる。
上人もすべてが哀れに思えて暗く沈んだような気になり、泣く泣く戎を解かれた。重衡は、御布施と思われて、長年いつも遊んでいた侍の所へ預けておられた硯を、知時(ともとき)を使って召し寄せて、上人に差し上げた。「これを人にお与えにならず、いつも御目の届く所に置かれて、重衡の物であったと御覧になるたびに私とみなして、御念仏をお唱えください。時間が許せば、経をも一巻でも御廻向(冥福を祈る)くださいますなら本当に有難い事でしょう」などと、泣く泣く申されたので、上人は何の返事もなさらず、この硯を取って懐に入れ、涙に濡れた墨染袖を絞りながら、泣く泣くお帰りになった。この硯は親父入道相国が、多くの砂金を宋朝の帝へ献上されて、その返礼として、「日本和田の平大相国のもとへ」と贈られたとかいうことだった。その名を松陰(まつかげ)と申した。」 ―続く
(写真:京都 法然院)