鎌倉散策 平重衡 十二、室山の戦いと義仲の最期 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 寿永二年(1183)閏十月一日の水島の戦いに敗れた木曽義仲は、戦線が膠着状態となる中で頼朝の弟が大将軍となり数万の兵を率いて上洛するという知らせを受けた。義仲は平家との戦いを切り上げ、同十五日、少数の軍勢で帰京する。『玉葉』閏十月十七日条「或人伝はく、頼朝の郎従等、多く似て秀平の許に向ふ。仍(よ)つて秀平頼朝の士卒異心ある由を知り、内々飛脚を似て義仲に触れ示す」とあり、藤原秀衡が義仲に情報を伝えたとある。また同二十日条においては、義仲は君を怨み奉る二ヶ条として頼朝の上洛を促した事と、頼朝に宣旨を下したことを挙げ「生涯の遺恨」であると後白河院に激烈な抗議を行ったと記される。

 

 同十九日には義仲が法皇、公卿を連れ北陸に向かう風聞が流れた。この風聞は伯父である源行家が法皇に取り入るために流した風聞であり、翌日に義仲は、この風聞は行家が流した嘘であると否定している。西に勢力を再び伸ばしてきた平家の脅威を抱えながら阻止しようとする義仲と行家の関係は、険悪を極めた。義仲の敵は平家ではなく、東国の源頼朝に替わっていく。木曽義仲は、十九日に源氏一族による会合で法皇を奉じて関東に出陣するという案を出したが、行家と土岐光長の反対でつぶれ、二十六日には興福寺の衆徒に頼朝討伐の命が下されたが、衆徒は拒んだ。義仲の混成軍は既に凡解を始め、行家は義仲と別行動をとる。

源行家は、同年十一月八日、朝廷から西国の平家追討の任を公式に受けて出陣した。『玉葉』同日条に、行家の軍勢はわずか二百七十余騎であり、九条兼実が不審を抱いた事が記され、また『平家物語』では、室山に陣を置く平家勢は二万騎、源行家勢は五百騎と記されている。『平家物語』第八巻「室山」にて、少し史実と少し違った木曽義仲の経緯で語られている。

 

 「さる程にそうしているうちに)、木曽殿は備中国万寿の庄(現岡山県倉敷市北部都窪郡山手村・清音村に接するあたり)にて勢ぞろへして、八島へ既に寄せむとする(せめよせようとしていた)。其間の都の留守に置かれたる樋口次郎金光、使者を立てて、「十郎蔵人こそ(くらんど:源行家が)、殿(木曽義仲)のましまさぬ間に(不在の間に)、院のきり人して(院のお気に入りの人を通じ)、やうやうに讒奏せられ候なれ(院に色々と告口をしているようです)。西国の軍(いくさ)をば、暫(しばらく)くさしおかせ給ひて急ぎのぼらせ給へ」と申しければ、木曾、「さらば」とて、夜を日についで馳(はせ)上がる。十郎蔵人、あしかりなんとや思いけむ(具合が悪いと思ったのか)、木曾にちがはむと(顔を合わないように)丹波路にかかって(通って)播磨国を下る。木曽は摂津国をへて、みやこへ入る。

 

 平家は又木曾討たむとて(討とうと)大将軍には、新中納言知盛卿・本三位中将重衡、侍大将には越中次郎兵衛盛次(盛嗣:平家の庶流、越中前司盛俊の子)・上総五郎兵衛忠光・安久七兵衛景清(上総守忠清の第三子、景清は第四氏)、都合其勢二万余騎、千余艘の舟に乗り、播磨の地へおしわたりて、室山(現兵庫県揖保郡御津町室津の丘陵)に陣をとる。十郎蔵人、平家と軍(いくさ)して、木曾と中なほりせんとや思ひけむ(思ったのか)、其勢五百余騎で室山へとおしよせたれ。平家は陣を五つはる。一陣、越中次郎兵衛盛次二千余騎、二陣、伊賀平内左衛門家長二千余騎、三陣、上総五郎兵衛・悪七兵衛三千余騎、四陣、三位中将重衡三千余騎、五陣、新中納言知盛卿一万余騎で固めらる。十郎蔵人行家五百余騎でをめいてかく(大声で叫び仕掛けた)。一陣、越中次郎兵衛盛次しばらくあひしらふ様にもてないで(応戦する様なふりをして)、中をざっとあけて通す。陣、伊賀平内左衛門家長、おなじうあけて通しけり。三陣、上総五郎兵衛・悪七兵衛ともにあけて通しけり。四陣三位中将重衡、是もあけて入れられけり。一陣寄り後人まで兼ねて約束したりければ、敵を仲に取り込めて、一度に時をどっとぞつくりける(一斉に時の声を上げた)。十郎蔵人、今は遁(のが)れるべき方もなかりければ、たばかれむと思ひて騙されたと思って)、おもてもふらず(脇見もふれず)命ををしまず、ここを最後と攻めたたかふ。

 

 平家の侍ども、「源氏の大将に組めや」とて、我先にと進めども、さすが十郎蔵人におしならべて組む武者一騎もなく刈りけり。新中納言むねと頼まれたりける(主だった家来として頼りにされていた)紀七左衛門・紀八左ヱ門・紀九朗なんどいふ兵ども、そこ似て皆十郎蔵人に討ちとられえぬ(討ち取られてしまった)。かくして十郎蔵人、五百四騎が纔(わずか)に三十騎ばかりに討ちなされた。四方はみな敵、味方は無勢なり、いかにしてのがれるべしとは覚えねど(どうすれば逃げられるのかわからなかったが)思い切って、雲霞のごとくなる(うんか:雲や霞の様にあつまる)敵の中をわって通る。されども我身は手も負わず(傷も負わず)、家子・郎党二十四騎、大略手負て(おおかた傷を負い)、播磨の国高砂(現兵庫県高砂市)より舟に乗り、おしいだいて(海に押し出して)和泉国(現大阪府堺市以南)にぞ付きにける。それより河内へうち超えて長野城(現大阪市河内長野市にあった城)にひっこもる。平家は、室山・水島二ケ度のいくさに勝ってこそ弥勢はつきにけれ(いよいよ勢いづいたのである)。

 

 行家は室山で命からがら逃げ延びた。行家と袂を分けた義仲は、勢力を回復しつつある平家と少数ながら伊勢に拠点を置く頼朝の東国の軍勢に挟まれ孤立していく。後白河院は十一月四日、源義経の軍勢が不破の関にまで達したのを知ると、義仲を京から放遂するため延暦寺、園城寺の協力を得て、法住寺殿の武装化を図る。また、義仲陣営にいた摂津源氏・美濃源氏等を引きいれ義仲勢の兵数を上回った。『玉葉』十一月十七日条によると、優位に立ったと判断した後白河院は義仲に対し「直ちに平家追討のため西下せよ。院宣に背いて頼朝軍と戦うのであれば、宣旨によらず義仲一身の資格で行え。もし京都に逗留するならば謀反と認める」という厳しいものだった。義仲は「君に叛くつもりは全くない。頼朝軍が入京すれば戦わざるを得ないが、入京しないのであれば西国に下向する」と返答した。『玉葉』十一月十八日条で九条兼実は「義仲の申状は穏便な物であり院中の御用心は法に過ぎ、王者の行いではない」と擁護している。同月十八日、後鳥羽天皇、守覚親王、円恵法親王、天台座主・明運が御所に入り、後白河院は義仲への武力行使を決意した。

 

(写真:ウィキペディアより引用 後白河院像、木曽義仲像)

 義仲は、これまでの鬱憤を晴らすように同年十一月十九日、法住寺合戦を起こした。義仲の猛攻により、院方は大敗し、後白河院を捕縛、幽閉する。明運、円恵法親王が討たれ、『愚管抄』によると義仲は天台座主(天台宗の最高の地位)の明運の頸を「そんな者が何だ」と川に投げ捨てたと記している。『玉葉』十一月二十二日条に、九条兼実は「未だ貴種高僧のかくの如き難に遭ふを聞かず」と慨嘆(がいたん:なげきおどろくこと)した。同月二十日、『百錬抄』同日条、『吉記』二十一日条にて、五条河原に院側に与した美濃源氏の土岐光経以下百四の頸を晒したとある。

 

 政権を手中に収めた義仲は、寿永三年(1184)正月十五日に征東大将軍となり、平家との和睦工作や後白河院を伴い北国下向を模索するが、すでに義仲には人望も無くなっていた。源頼朝の代官とした源範頼・義経を大将とする頼朝軍が京に迫り抵抗を示すが、宇治川で衝突し、敗走した義仲は、正月二十一日に近江国粟津で討たれる。享年三十一歳。『玉葉』同日条にて、「義仲天下を執る後、六十日を経たり。信頼(源義朝と平治の乱の首謀者)前蹤(ぜんじょう:先の足跡)と比するに、猶(なお)その晩(おそ)きを思ふ」と評している。 ―続く