京では、後白河院が神器返還を平家に求めるが、謀略多き院の言葉に平家は信じる事が出来なかった。院は高倉上皇の二人の皇子・三之宮(惟明親王)と四之宮(尊成親王、後の後鳥羽天皇)のいずれかを擁立する事に決める。しかし、木曽義仲は、自身が保護していた以仁王の皇子北陸宮を即位させようと比叡山の天台座主・俊尭(しゅんぎょう)を介し朝廷に申し立てた。平氏の悪行が無ければ以仁王が即位してとしその系統が正当な皇統であると。また、平家を都落ちさせた大綱は以仁王の宣旨から挙兵を行った義仲の大綱は北陸宮にあるとした。朝廷は、天皇の皇子が二人もいる中、王の子に過ぎない北陸の宮を即位させるという皇統を無視した提案を受けるはずもなかった。
(写真:ウィキペディアより引用 後白河法皇像、木曽義仲像)
九条兼実の日記『玉葉』八月十四日条に「王者の沙汰に至りては、人臣の最にあらず」と武士の介入に不快を示している。そして、寿永二年八月二十日、四之宮(尊成親王)が践祚(せんそ)された。この一件は、伝統と格式を重んじる朝廷から木曽義仲を宮中の政治・文化・歴史への知識・教養が無い「粗野な人物」として疎まれる最大の要因だったと考えられる。また、大軍を率い入洛した義仲勢は、源行家、安田義定、近江源氏、美濃源氏、摂津源氏等の混成軍で兵糧もなく、養和の大飢饉で疲弊した民衆の民家や寺社に略奪を行う等を行うため、義仲の京の治安回復は遅れた。後白河院は同年九月十九日義仲を呼び出し「天下静まらず。又平氏放逸、毎時不便成」と責め立て、義仲は立場の悪化を自覚し、失落した信用の回復と兵糧の獲得のために平家追討に向かう。その直後法皇は源頼朝に「寿永二年十月宣旨」を下し、東海道・東山道諸国の行政権・警察権を与えている。
(写真:ウィキペディアより引用 備中水島合戦良寛壮付から見た玉島港)
平家一門は屋島に入り、再び勢力を整えつつ山陽道八ケ国、南海道六ケ国、合せて十四ケ国を討ち取った。木曽義仲は、同年閏十月一日、備中国水島(岡山県倉敷市玉島)にて平家の軍勢と挑む。平家勢千艘に対し源氏勢五百艘、七千騎であった。『平家物語』第八巻「水島合戦」において、
「平家は讃岐の八島にありながら、山陽道八ケ国、南海道六ケ国、合せて十四ケ国ぞうちとりける。木曾左馬頭、是を聞き、やすからぬ事なりとて(癪にさわり)、やがて討手をさしつかはす。討手の大将には矢田判官代(足利)義清、侍大将には、信濃国の住人海野(うんの)弥平四郎行広(幸広)、都合其勢い(あわせてその勢)七千余騎、山陽道へ馳下り、備中国水島の渡(と)に舟を浮べて、屋島へ既に寄せむととす(寄せようとしている)。同閏十月一日、水島がとに小舟一層出てきたり。海人船(漁船)、釣り船かと見えるほどに、差は無くして、平家方より朝(牒状を持った)使い船なりけり。是を見て、源氏の船五百余艘ほしあげたるを(浜に干し上げていた)、おめきさけむでおろしけり(呻き叫んで海におろし浮かべる)。平家は千余艘でおしよせたり。
平家の方の大手の大将軍には新中納言知盛卿、搦め手の大将には、能登守教経なり。能登殿のたまひけるは、「いかに者共、戦をばゆるに仕るぞ(たいまんないくさをするのか)。北国のやつらばらに生け捕られをば心憂いしとは(悔しいとは)思わずや。御方の船をば組めや(味方の船を連結せよ)」とて、千余艘がとも綱・へずなを組み合わせ、中にむやひ(もやい:舟を岸とにつなぎとめる綱)を入れ、あゆみの板(渡板)を引きわたし渡しわたいたれば(渡ったので)、舟の上へはへいへたり(平になった)。源平両方時をつくり(時の声を上げて)、矢合(やあわせ)して、互いに舟どもおし合わせて攻め戦ふ。遠きをば弓で射、近きをば太刀で切り、熊手にかけて捕るもあり、捕らるる者もあり。引組んで海に入るもあり、刺し違えて死ぬる者あり。思ひ思ひ心心に勝負す。源氏型の侍大将、海野の屋平四郎討たれけり。これを見て、大将軍矢田の判官代義清、主従七人、小舟にて、真っ先に進んで戦うふ程に、いかがしたりけむ(どうしたのか)舟踏み(舟が転覆して)沈めて皆死にぬ。平家は鞍置き馬を船のうちにたてられてたりければ、舟差しよせ、馬どもひき下ろし、うち乗り乗りをめいて駆ければ、源氏の勢、大将軍は討たれぬ(討たれているので)、我先にとぞ落ち行ける。平家水島の戦に勝ちてこそ、会稽(かいけい:是までの戦い)の恥をば雪(きよ)められ。」
北国での地の利を生かした木曽義仲との戦に敗れた平家は、水島合戦にて船戦を得意とした平家が雪辱した戦いであった。平家の大手の大将に平知盛と重衡が就き、搦め手の大将に通盛と教経(平清盛の弟教盛の嫡男と次男)が就いている。そして船戦(ふないくさ)を知らない義仲軍は足利義長、海野幸広、高梨高信、仁科盛家といった諸将を失い壊滅的打撃を受けて京に敗走する。平重盛が参戦する戦は、園城寺攻め、南都焼き討ち、墨俣と勝ちに乗じた。この勝利により平家軍は勢力を回復し再入京を企て摂津福原まで進み、一の谷の戦いを迎えることになる。なお、『源平盛衰記』等の資料にて、この戦の最中に九十五パーセントほど欠けた金環日食が起こっており、平家が公家と共に歴を作成していた事から、日蝕を戦に生かしたとの説もある。 ―続く