平清盛は、正六位右近将監・高階基章(もとあき)の娘を正室に迎え、保延四年(1138)に嫡男・重盛、翌年基盛を産んでいる。この婚姻は清盛が当時、長承四年(1135)に十八歳で従四位以下に任官し、翌年は中務大輔に叙任されている事から身分的に差があるが、基章の縁戚関係が広かったためと考えられている。高階基章の娘とは死別したと推測されている。清盛は、久安元年に正五位下・検非違使・兵部権大輔の娘の時子を継室に迎え、久安三年(1147)、家盛、知盛、徳子(建礼門院)、重衡らを産んでいる。平時信の死後に時子の妹・滋子は後白河法皇の寵妃となり、応保元年(1162)に憲仁親王(後の高倉天皇)を産んだ。そして、徳子は高倉天皇の中宮となり、平家一門はより一層の栄華を得ることになる。
平重衡は保元二年(1157)(保元三年:1158との説もある)に時子の三男として生まれ、幼少から受位し平家の公達として順調な昇進を重ね、治承三年(1179)二十三歳で正三位左近衛権中将に進んだ。『平家物語』においても嫡子ではないが重衡の記載の貢は、兄の宗盛(重盛没後平家の棟梁になる)よりも格段に多く、『吾妻鏡』においてもその人物像の評価が記されている。その理由として重衡の二歳年下の甥にあたる維盛との対比関係によるものが大きい。維盛の父は清盛から嫡子として平家棟梁を受けた平の重盛で、母は清盛の継室時子の妹・坊門殿とされる。母方から見ると従弟にあたる。
平重衡は武勇にも優れ、人物像は、『建礼門院右京大夫集』、『平家公達草紙』において重衡は少しのことでも人のために心遣いをする人物であり、何時も冗談を言ったり、女房たちを怖い話などで怖がらせたり、退屈していた高倉天皇を慰めるために強盗のまねごとをして天皇を笑わせたりの話が残されている。容貌については「なまめかしくきよらか」と記されている。また、都落ちの際に常に遊んでいた式子内親王の御所に武者姿で別れの挨拶に訪れ、親しんだ多くの女房たちが涙したという。『建礼門院右京大夫集』では「平清経」とあるが、誤記であり、同じ中将である重衡のことである。
(写真:ウィキペディアより引用 平重衡像、平維盛像、式子内親王像)
平維盛は、後に平家の棟梁となった平重盛の嫡子として平治元年(1159)に生まれ、美貌の貴公子として「光源氏の再来」と称された。平家を嫌う九条兼実の日記『玉葉』でも「十四歳であるというのに作法が優美で人々が驚嘆している」と記している。安元二年(1176)三月の後白河法皇五十歳の祝賀が行われ、「萬歳楽」「太平楽」「陵王」「落尊入陵」を舞い、法皇は「けふの舞のおもてはさらにさらに是にたぐふ有るまじくみえつるを」と賛辞を与えた。臨席した四条隆房の『安元御賀記』「維盛少将出でて落蹲入陵をまふ、青色のうえのきぬ、すほうのうえの袴にはへたる顔の色、おももち、けしき、あたり匂いみち、みる人ただならず、心にくくなつかしきさまは、かざしの桜にぞことならぬ」と評している。また烏帽子に桜の枝、梅の枝を挿して「青海波」を舞いその美しさから「桜梅少将」とも呼ばれた。『建礼門院右京大夫集』では「今昔視る中に、ためしもなき(美貌)』とされ、その姿に光源氏をたとえた。『玉葉』においても「容貌美麗、尤も歎美するに足る」と記されている。
『建礼門院右京大夫集』『安元御賀記』で記されている、「青海波」の出来事は、鎌倉時代に編纂された『平家公達草紙』では「頭中将重衡」がこの場にいたとされ、さらに後代には、「頭中将重衡」が維盛と舞ったと認識されるようになった。これは事実ではなく維盛と共に 舞ったのは藤原成宗等の貴族で、当時の重衡の官職は頭中将ではなかった。『源氏物語』では光源氏が頭中将と共に「青海波」を舞った記述により、美しい光源氏の舞の相手役は頭中将という概念があった事で重衡が維盛の相手役にされた。そこには重衡が「頭中将」にふさわしい優美で、女性の心をとらえた貴人であると捉えられていたことにあるとされる。
しかし、平重盛は、以仁王の平家打倒の挙兵により園城寺攻めで園城寺の一部が焼かれ、また南都の東大寺・興福寺の焼き討ちである平家の最大の悪行を一人で背負い、一の谷の合戦でいけ捕られた。維盛は平穏たる時は、その優雅な振る舞いに才を見出せたが、戦乱においての武芸は大将の質を得ず、八島での戦いの後、高野山で出家をし、那智熊野で入水し没している。 ―続く