鎌倉散策 鎌倉に祀られる後鳥羽上皇「今宮神社」 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

  

 雪ノ下に鎮座し、鶴岡八幡宮の境外末社で今宮神社とも呼ばれる。八幡宮北側の駐車場の北側を東に入り道に沿って行くと朱の鳥居が見られ奥に崖に囲まれた小さな社殿がひっそりと建てられている。数年前に訪れた時、なぜか神秘的な様相を感じた。祭神:後鳥羽上皇、御門上皇(つちみかど)、順徳上皇。例祭:六月七日。宝治元年(1247)、四月に創建され、承久の乱(1221)で配流された三上皇の御霊を慰めるために祀られた。今という言葉に新しいという意味もあり、「今宮神社」また「新宮神社」と称されている。

『吾妻鏡』宝治元年(1247)四月二十五日条、「巳の一点に、日の暈(かさ:光の輪)がかかったという。今日、後鳥羽院の御霊を鶴岡八幡宮の乾(いぬい)の山麓に勧請された。これは、後鳥羽院の御霊を鎮め奉るため、このところ一宇(鶴岡八幡宮今宮社)を建立されていたのである。重尊僧都を別当式に補されたという。」

 

 神器無き即位を行い、強硬的政治姿勢を示した後鳥羽上皇が、承久三年(1221)五月に北条義時討伐の宣旨を下した兵乱が承久の乱である。日本史上、朝敵と宣下された北条義時の幕府軍が朝廷の官軍を破った初めての事件であり、この承久の乱で幕府は圧倒的な勝利をおさめた。その後に幕府は、後鳥羽上皇を隠岐島(おき:島根県)、土御門上皇は合戦には反対したが責任を取り土佐国へ、順徳上皇は佐渡島へそれぞれ配流とした。後鳥羽上皇は延応元年(1239)二月二十二日に隠岐で京都に帰ることなく崩御し、土御門上皇は後に京都に近い阿波国に遷され、寛喜三年(1231)十月十一日に安房国板野郡池谷村で崩御。順徳上皇は仁治三年(1242)九月十二日に佐渡島で崩御。順徳上皇に近かった平経高の『平戸記』仁治三年十月十日条に「御帰京事思食絶之故云々」と有り、四条天皇の崩御後、鎌倉幕府が自身の皇子・忠成王を排除し土御門上皇の皇子・邦仁王(後嵯峨天皇)を即位させたことで、自身の帰京と子息の皇位継承が強く幕府に排除されていることを知り、絶食により命を絶ったとされる。

 

 承久の乱の幕府の勝利は京都に六波羅探題を置き朝廷管理と西国支配を強化し、後に天皇の皇位継承にも幕府の影響下に置かれることになった。東国武士が幕府を草創してからの完成形をもたらした戦乱ともいえる。しかしその後、鎌倉で様々な怪異現象が起きた。

嘉禎三年(1237)、配流先の隠岐の島で「万一にもこの世の妄念(もうねん)にひかれて魔縁(魔物)となることが有れば、この世に災いをなすだろう。我が子孫が世を取ることがあれば、それはすべて我が力によるものである。もし我が子孫が世をとることがあれば、我が菩提を弔うように」と置文を記した。また同時代の公家平経高の日記『平戸記』には三浦義村や北条時房の死を後鳥羽院の怨霊が原因とする記述がある。鎌倉幕府は後鳥羽天皇の怨霊を恐れ御霊を鎮めるために創建されたのが今宮神社・新宮神社の社殿であるが、鎌倉幕府は後の後鳥羽院の子孫の後醍醐天皇によって滅ぼされた。

 

 平成三十一年十月十四日の台風で社が崩壊し、ビニールシートが掛けられていた。以前は社殿がコンクリート製であったが、いかにすごい風の台風で有ったかを窺い知ることが出来る。鎌倉のこの地に、そしてその存在が貴重な遺産である。この鎌倉歳時記においても祟り信仰について、またその社について記載させて頂いた。台風から半年ほど経過したが、このような状態であった。本年の令和三年六月に起工されたようで、今年三月に訪れると、この日に丁度完成し、以前のコンクリートの社殿から木製の美しい社殿に整えられていた。後日に例祭が行われるようだ。