鎌倉散策 『吾妻鏡』に見る北条執権体制 二十、後鳥羽院の隠岐への流罪 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 『吾妻鏡』承久三年七月十三日条は、上皇(後鳥羽)は鳥羽の行宮(あんぐう)から隠岐国に遷られた。甲冑の武士が御輿の前後を囲み、御共は女房二、三人と内蔵頭(くらのかみ)藤原清則入道であった。ただし清則は道中で急に召し返され、施薬院使(やくいん)和気長成入道と左衛門尉藤原能茂入道らが追って参ったと言う。と簡潔に記載されている。 『承久記』「慈光寺本」では伊藤祐時が身柄を受け取り、輿を進行方向と逆向きにする罪人移送の作法である、「四方の逆輿」に乗せたという。供奉したのは、伊王左衛門入道藤原の能茂と坊門信清の娘・頼仁親王の母「西ノ御方」坊門局ら女房に三人と、旅先での急死に備え聖(ひじり)一人であったとされ、どちらにしてもほんの少数の供奉人であった。

 

 『承久記』同十三日に隠岐の国へ移し奉るべしと聞へしかば、御文遊ばして九条殿(道家)へ奉らせ給う。「君しがらみとなりて、留めさせ給ひなんや」と御歌を遊ばされける。と記している。これは、九条道家、鎌倉に下向した三寅・四代将軍の頼経の父に「君しがらみとなり」と、流れをせき止めるための柵、あるいは杭になってくれないかと言う懇願である。また「水瀬殿を当らせ給うとて爰(ここ)にてあらばやと思い召されけるこそ、せめての御事。」と記され、水無瀬殿の側を通った時に後鳥羽院は、配流先がここであったらと思われ、よくよく思いつめられた事とされる。後鳥羽院一行は、明石を経て美作と伯耆の山中を超え、『吾妻鏡』承久三年(1221)七月二十七日条では後鳥羽院が出雲大浜湊に到着され、ここで御船に遷られ、御供の武士は暇を賜りほとんどが京に帰った。後鳥羽院は、その武士に御和歌を七条院(藤原殖子)と寵妃の修明門院(藤原茂子)に献じたと言う。上皇妃はもとより、女御もついてはいかず白拍子出身の亀菊だけの随行だったとされる。

 

 『吾妻鏡』承久三年七月二十七日条、上皇(後鳥羽)が出雲国大船港に到着された。ここで御船に遷られた。御供の武士らは暇を賜ってほとんどが今日に帰った。その機会に、御和歌を七条院(藤原殖子)と修明門院(藤原重子)に献じられたという。

「タラチネノ消ヤラデマツ露ノ身ヲ 風ヨリサキニイカデトハマシ」

 「シルラメヤ憂メヲミヲノ浦千鳥 島々シホル袖ノケシキヲ」

 同年八月五日条、後鳥羽院は隠岐国阿摩郡苅田郷(島根県隠岐郡中ノ島海士町)に到着された。仙洞は翠帳紅閨(すいちょうこうけい)から柴扉桑門(さいひそうもん)に改まり、場所はまた雲海が沈々として南北も知れないので、手紙や使者の便りを得ず、烟波(えんば:靄の立ち込めた水面)が満々として東西に迷うため、また月日の進み具合も分からない。ただ京の仙洞を離れる悲しみ、都を出る恨みで、いよいよ思い悩まれるばかりという。。隠岐の苅田御所に遷されてからは、望郷の思いが募り京に帰る事を望みながら、わびしい生活を送った事が窺われる。「蛙鳴く苅田のいけのゆうだたみ 聞かましものは松風の音」

 

 従来の培った和歌で心を慰め、後鳥羽院五百首(遠島五百首)の歌集を作られている。堀田善衛氏の『定家明月記私抄続編』に無実の罪によって配所の月を見た菅原道真にかけた歌が一首あるが、子の上皇が自らを罪なくして流された者と歎じている風情は、全くないのである。乱を発起したことについての弁明も全くない」と記している。

「我こそは新島もりよ隠岐の海の荒き浪かぜ心して吹け」

「おなじ世に又すみの江の月や見んけふこそよそに隠岐の島もり」

この首に関して、この古註はず木の通りに記している。「我こそはという胆要なり。(藤原)家隆卿隠岐へ参り、十日ばかりありて帰らんとし給ふに、海風吹帰りがたければ、我こそは新島守となりて有共、など科なき家隆を浪風心して都へ返されぬ、と遊ばしける。去れば俄に風静まりて家隆卿都へ帰られしとなる。」。また「おなじ世に」は、生きたるうちに、特に都へ帰りて、という切々たる心であり、「毛深草よそに」は、今こそ都を遠く離れているがといういであり、

堀田善衛氏はこれら『遠島百首』の古註を見ると無期配流者の心境が「我こそは」、の気の張と「おなじ世に、生きたる内に」の帰還希望の間に揺れ動く心境を持て余して、歌と歌論に専念する事を自らに強制したものであろうと。そして十九年にわたる島での生活が、実に並大抵のことではなかったことは察せられると記述されている。

 

 後鳥羽院と藤原定家についても述べさせていただく。承久二年二月十三日の順徳天皇の歌会で、定家の母の二十八回忌に当たる日で遠慮していたが、当日の夕方に蔵人兼宮内権大輔家光が三度まで出席するように文をよこしたので、出向いた。「かきつけてもちてまいりし二首」の次第である。

春山月 「さやかにもみるべき山はかすみつつ わが身の外も春の夜の月」

野外柳 「道のべの野原の柳したもえぬ あはれ歎きの煙くらべに」

初めの一種、春山月は、「春夜、はっきりと見えるはずの山はかすんで、月もおぼろに出ているが、この良夜は私には関わりないのだ」に首目は「道のほとりの野原の柳は下萌えした、ああ、あたかも、歎きのために立昇る私の胸の煙と競い合うかのように」という意味で、心中にある思いを述懐の形にで述べただけのものと考えて不思議はない。しかし、二首目の「道のべの」が後鳥羽院の目に触れてその激怒を買い定家は「勅勘(天使から受ける咎め、勘当)」を被っている。これは、健暦三年正月二十八日と二十九日に検非違使の長が高陽院(かのやいん)の柳が枯れたから勅命により定家の庭の柳日本を掘り起こし徴発した。定家は後鳥羽院の専横に激怒したと思われ『明月記』に院が蹴鞠をしていると「親権海ニ没シテ茲ニ卅廻」、健保の改元に対しては「此ノ声献宝(けんぽう)カ。献金ノ路ヲ称ス」と激烈な後鳥羽批判を行い、後鳥羽院の人となりを窺い知る事も出来る。

 

 『明月記』によると文暦二年(1235)春頃に摂政工藤道家が後鳥羽院と順徳院の環京を示唆するが北条泰時はこれを受け入れなかった。京への帰還が叶わぬまま十九年が過ぎ、四条天皇代の延応元年(1239)二月二十日、配所にて崩御、享年六十歳であった。同地で火葬され、火葬が行われた場所には後に御火葬塚が作られている。後鳥羽院を「ごとばんさん」と慕った中ノ島海士町の島民の気持ちは今も受け継がれ火葬塚の隣に隠岐神社が創建された。後鳥羽上皇の和歌に踊を付けた『承久楽』が隠岐神社で奉納されている。同年五月「顕徳院」と諡号(諡号)が贈られた。遺骨が仁治二年(1241)に京都大原の法華堂に安置された。

『吾妻鏡』延元元年三月十七日条、六原の使者が(鎌倉)に到着した。去る二月二十二日、隠岐法王(後鳥羽)が遠方の死まで亡くなられた(御年は六十歳)。同二十五日に葬り申したという。と簡単に記載されている。

 

 壇ノ浦の戦いで剣璽(けんじ)が海中に没し、安徳天皇が退位しないまま後白河院の詔(みことのり)で元暦元年(1184)七月二十八日に四歳で後鳥羽帝は「神器無き即位」を行った。後鳥羽帝十九歳の建久九年(1198)土御門天皇に譲位し、院政を始めた。承元四年(1210)に順徳天皇の践祚(せんそ)に際しては、三種の神器が京都から持ち出される前月に伊勢神宮から後白河法皇に献上された剣を宝剣とみなし用いられている。そして仲恭天皇の三代の間の二十三年間院政を続けた。「神器無き即位」を行った後鳥羽帝は、劣等的な意識の中、屈辱感と自己嫌悪がその後の行動に反映されているとされる。それが、幼少期からのその屈辱感に対して、あらゆる武芸や和歌などの文芸にも取り組み卓越した才能を開花させていた。また、後鳥羽院は伝統的な宮中での慣例行事などを復興させ、西面の武士の設置等で王朝の権威を上げ、自身が真の天皇であることを周囲に認めさせるよう行ったとされる。しかし、後鳥羽院の治世を批判する際に「神器無き即位」が不徳を結び付けられることもあった。

 承久の乱後にも「神器無き即位」の経緯で不評を買い続け、専制的な謀政や無謀な挙兵に対し院の側近以外の貴族達は、冷ややかな対応に終始した。このため承久の乱後、幕府の政治的影響力の拡大があったにせよ後鳥羽院の同情的な意見は少なかった。『愚管抄』、『六代勝事記』、『新皇正統記』等ではいずれも「院が波動的な政策を追求した結果が招いた、自業自得の最期であった」と厳しく評価している。 ―続く