鎌倉散策 『吾妻鏡』に見る北条執権体制 十九、執権体制の思惑 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 承久三年(1221)七月八日、『吾妻鏡』では、が後鳥羽の同腹兄「持明院の宮」守貞親王(行助入道親王)を院に定め、世を治めるという。守貞の出家をしていなかった三男である茂仁(ゆたひと)親王を次の天皇に立て後堀川天皇を即位させた。年は十歳である。茂仁親王の母である持明院棟子(北白川院)は父・持明院基家が源頼朝の妹婿である一条能保の叔父であり、母は平の頼盛の娘で、平治の乱の際に頼朝の命を救った池禅尼の孫にあたる。源顕信(村上源氏顕房流、正三位、非参議、治部卿)の娘・顕子が母である前関白藤原家実が摂政の詔(みことのり)を受けた。鎌倉幕府、北条執権体制において源頼朝の関係性を受け継ぐことは東国の御家人に対する影響を考えると最良の人事であったと注目せざるを得ない。また、幕府が天皇継承の関与を持つことになり、この承久の乱の戦勝において幕府の政治的一元化が成されたとされる。「本院」後鳥羽院は、この日に御戒師を御室(道助:入道親王)により出家された。似絵(にせえ)の名手の藤原信実朝臣を召して御影が描かれたとされ、大阪府三島郡島本町の水瀬神社に所蔵されている。またこの日、後鳥羽院と兄「持明院の宮」守貞親王の母・七条院(藤原殖子)が、警護の武士を説得され御幸され、後鳥羽院に会われたが、ただ悲涙を抑えて帰られたという。後鳥羽院の後悔も断腸の思いであっただろう。

 

(写真:ウィキペディアより引用 後鳥羽院像)

 『吾妻鏡』同九日条、今日、践祚が行われた。先帝(仲恭)は高陽院(かやのいん)の皇居で譲位され、密かに九条院に行幸された。戌の刻に新帝後堀川天皇、後高倉院の二の宮が持明院殿より閑院に帰られた。その間、持明院殿より禁裏に至るまで、兵士が道中を警護したという。

 同十日条、中御門入道禅中納言(藤原)宗行は小山新左衛門尉朝長に伴われて下向し、今日は遠江国菊川駅に泊まられたが、一晩中眠ることが出来ず、一人閑窓に向かって法華経を呼んだ。また宿の柱に書き付けた。「昔、南陽県で破棄苦から下る水を及んで寿命を延ばした。東海道の菊川は、その西岸に泊まって命を失う。

『承久記』「慈光寺本」は、七月十日に北条泰時の子・時氏が鳥羽殿に参上し、弓の片端で御簾を書き上げ「君は流罪におなりになりました。早くおいで下さいませ」と責め立てたと記される。

 

(写真:京都仁和寺)

 同十一日、後鳥羽院に参じて逆特に従った者らの所領が、北条時房以下の恩賞としてあてがわれた。この日、後鳥羽院に、従った山城守佐々木広綱の子息・勢多伽丸(せいたかまる)は出家して仁和寺に住み道助入道親王に育てられていた。この日、勢多伽丸は父広綱の謀反の連座としてとらえられ、仁和寺より六波羅に召し出される。道助は、芝築地(しばついじ)上座真昭に付き添わせ「広綱の重罪については何も言う事は出来ないが、この童は門弟として久しく親しんでいたので特に哀れである。十余歳の孤児で頼りも無いので、どのような悪行が出来ようか。身柄を預け置かれたい」と道助と勢多伽丸の母は助命・嘆願する。泰時は御使者の真昭に会って「厳命を重んじて、暫く猶予します」と、また「容貌の華麗な様子は、母の愁いと共に憐れみに堪えない。」と言った。芝築地(上座真昭)と勢多伽丸らは、仁和寺に帰る事を許された。しかし,宇治の合戦で特に武功を挙げた伯父で広綱の弟の佐々木信綱が、自分の武功を取り消しにしても勢多伽丸の処刑を強く主張する。信綱は泰時の妹婿であり、幕府においても枢要な人物であるため断腸の思いで、あらためて勢多伽丸を呼び返し身柄を信綱に与えた。『吾妻鏡』ではその後、梟首されたと記され、梟首とは、斬首の後、晒し首にすることである。『承久記』には享年十四歳と記されている。

 

 後鳥羽院は隠岐国に、順徳上皇は佐渡島に流罪。討幕計画に反対したとされる土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流された。後鳥羽上皇の皇子・雅成親王(六条宮)、頼仁親王(冷泉宮)もそれぞれ但馬国、備前国へ配流され、仲恭天皇は廃された。一条信能、藤原(葉室)光親・宗行、源有雅、藤原(高倉)範茂ら公卿は鎌倉に送られる途上処刑され、坊門忠信らその他院近臣も各地に流罪または謹慎処分となった。京方に与した藤原秀康、・秀澄、後藤元清、佐々木経高、佐々木広綱、河野通信ら御家人等やその他武士の多くが粛正及び追放されているが、大江親広は父・広元の嘆願により赦免されている。

 

 同十二日条、按察(あぜち)卿(藤原光親:先月出家。法名西親)は武田五郎信光が安塚って下向した。そこに鎌倉の使者が駿河国の車返しの辺りで出会い、誅殺せよと伝えたので、加古坂で梟首した。時に年は四十六歳という。光親卿は(後鳥羽の)並びない寵臣であった。また家門の長で、才能は優れていた。今度の経緯については特に戦々恐々の思いを抱いて、頻りに君(後鳥羽)を正しい判断に導こうとしたが諫言の趣旨がたいそう(後鳥羽院の)お考えに背いたので新地が窮まり、追討の宣旨を書き下したのである。「忠臣の作法は、諫めてこれに随う」と言うことであろう。その諫言の申し状数十枚が仙洞に残っており、後日披露された時、北条義時はたいそう後悔したという。

承久三年(1221)七月十三日、鎌倉幕府執権体制による後鳥羽の対応について、後鳥羽院は隠岐国に、順徳上皇は佐渡島に流罪。討幕計画に反対したとされる土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流されたが、後に阿波に赴かれた。後鳥羽上皇の皇子・雅成親王(六条宮)、頼仁親王(冷泉宮)もそれぞれ但馬国、備前国へ配流され、仲恭天皇は廃された。そして三院の親族に対し臣籍降下を行わせ、皇位継承から外している。

 

(写真:隠岐の島観光協会引用 隠岐の島)

 『吾妻鏡』十三日条は、上皇(後鳥羽)は鳥羽の行宮(あんぐう)から隠岐国に遷られた。甲冑の武士が御輿の前後を囲み、御共は女房二、三人と内蔵頭(くらのかみ)藤原清則入道であった。ただし清則は道中で急に召し返され、施薬院使(やくいん)和気長成入道と左衛門尉藤原能茂入道らが追って参ったと言う。今日、入道中納言(藤原)宗行は駿河国浮島原を過ぎ、荷物を背負った人夫が一人泣いているのに途中で出会った。黄門(宗行)が人夫に尋ねると、按察卿(藤原光親)の僮僕であった。昨日(光親が)梟首されたため、主君の遺言を拾って京に帰ると答えた。はかない人の世の悲しみは他人の身の上とも思われず、ますます魂が消えそうであった。死罪を免れないことは以前から考えの中にはあったが、あるいは虎口を脱すれば亀毛(あるはずのない))の命があるのではと、なお希望を残していたところ、同罪の人(の運命)がすでに定まったので全く死んだようであった。その心中を察すると、まことに憐れむべきである。宗行は黄瀬川宿で休息した際に文章を書く機会があったので傍らに書き付けた。

「今日すぐる身を浮島の原にても ついの道をば聞きさだめつる」

菊川駅では佳句を書いて永く伝えられ、黄瀬川で和歌を詠んで一時の愁いを慰めたという。

 

(写真:ウィキペディアより引用 富士川)

 同十四日条、藍沢原で、黄門(藤原)宗行はとうとう白刃を逃れることが出来なかったという。年は四十七歳。最後まで法華経の読誦(独寿)を決して行われなかった。

 同十八日条、甲斐宰相中将(藤原)範茂卿は式部丞(北条)朝時が預かって、足柄山の麓で早河の底に沈んだ、これは五体が揃っていなければ来世の障りとなるであろうと入水したいと望んだためである。。 ―続く