『承久記』「古活字本」によると、承久三年(1221)六月十三日、北条時房が勢田につくと、橋の中ほどの板二間を引き落とし、楯を並べ、鏃をそろえていた山田重忠と比叡山の悪僧、播磨竪者(りっしゃ:僧の肩書を持つ者)等三千余騎の官軍が待ち構え、雨で河は濁流と化していた。鎌倉方武士たちが橋を渡ろうと押し寄せると京方は一斉に矢を射かけ、播磨竪者ら悪僧は徒立ち(かちだち)に長け大太刀・長刀を自在に操り、鎌倉武士が橋桁に上ってくると切り倒し川に落とす。今までにない苦戦を強いられた。
宇都宮業頼は橋上での戦を避け、一町余(約百メートル)川上辺りに陣を敷き、遠矢を放ち戦っていたが、京方の「信濃住人、福地十郎俊成」の十三束三伏(じゅうさんたばみつふせ:自身の拳十二個分に三本の指の長さを加えた弓の長さ)大矢が冑の鉢に射立った。業頼も負けじと自身の名を記した十三束二伏の大矢を渾身の力を込めて引き放った。矢は、対岸の三百町(約三百三十メートル)余り先で指揮をしていた山田重忠の側に突き刺さり、急ぎ退いたとされる。また、三穂崎(水尾崎)から船で現れた美濃竪者観厳らにも矢を放ち法師武者二人を倒し観厳も引き退く他なかったという。しかし矢が尽き、兵が討たれるのを避けるために攻撃が一時停止する命を発するが、橋上で戦う武士には聞こえず、大声を発する伝達の武士の声により橋上の戦も停止された。勢田の合戦においても激戦であったと言う。『承久記』は、保元・平治・平家に続く「四部の合戦書」の最後の軍記物語であり、異本も多く、最も古いものとして「慈光寺本」が鎌倉期中期に成立したと考えられる。『吾妻鏡』より、面白く詳細に記されているが、軍記物語として事実を拡大的に誇張されたりる記載される面もあり、他の資料と比較し、読み取る上で注意が必要だ。
昨日の豪雨で増水していた。『吾妻鏡』六十四日条、「晴れ。雷鳴が数回あった。北条泰時は渡河による攻撃でない限り官軍を破る事は出来ないと考え、芝田兼義を呼び、河の浅瀬を調べるよう指示した。義兼は南条時員を伴い真木島に急行した。宇治川は昨日の雨で緑水の流れは濁って白波があふれ落ち、淵の底を窺う事は出来なかったが、義兼は泳ぎが達者であったというのでとうとうその浅瀬を知ると、しばらくして兼義が急ぎ帰り「渡る事は問題ありません。」と泰時に申した。卯の三刻(午前四時過ぎ)兼義・春日刑部三郎貞幸らは泰時の命を受け、宇治川を渡るために伏見津(京都市伏見区、宇治川が巨椋池に流れ込む交通の要所)に急行した。春日貞幸、佐々木信綱、中山重継、安東忠家等は義兼の後に従い川俣に沿って下って行った。信綱・貞幸が言った「ここが浅瀬か。ここが浅瀬か」。兼義はとうとう返答もせずに、数町経た後に鞭を揚げて渡り、信綱・重継・貞幸・忠家も同じく渡った。官軍はこれを見て同時に矢を放ち、義兼・貞幸の乗った馬が河の中でそれぞれの馬にあたり、水に漂った。貞幸は水底に沈み危うく死ぬところであったが、心中で諏訪明神を祈り、脇刀をとって鎧の上帯と小具足を切ると、しばらくしてやっと浅瀬に浮かび出て、泳ぎの達者な郎従らによって救われた。泰時は、これを見て自分の手で数箇所に灸を加えたので貞幸は意識を取り戻したが、貞幸に従っていた子息・郎従以下十七人は溺れた。その後、兵士が多く水面に轡(くつわ)を並べたところ、流れが急で、まだ戦わないうち二十人中二、三人が死んだ。関政綱、幸島行時、伊佐大進太郎、三善康知、長沼四郎、安保実光以下渡河従軍した八百人中九十六人が亡くなった。
佐々木信綱は中島の古柳の陰いたが、後を進む勇士が水に入って渡ろうとしたので分別をなくし、子息・重綱を泰時の陣に遣わし「軍勢を賜って対岸に渡ります」。泰時は勇士を援軍に出すよう指示し、食事を重綱に与えた。重綱はこれを賜り、父の所に帰った。信綱は卯の刻にこの中島に着いたが、援軍を待つうちに、重綱は甲冑を身に着けず、馬にも乗らず裸で帷子(かたびら)だけを頭にまとい往復する間に時が経過したため、日の出の時となった。泰時は子息・太郎時氏を招いて言った。「わが軍は敗北しようとしている。今となっては大将軍が死ぬべき時である。お前は速やかに河を渡り、敵の陣中に入って命を捨てよ」。と言うと時氏は佐久間家盛・南条時員以下六騎を率い進み渡った。泰時が言葉を発することなく前後を見ていると、三浦泰村主従五騎以下数人もまた渡った。官軍は東国武士が水に入るのを見て、勝ちに乗じる気配があった。泰時も馬を進めて河を渡ろうとしたが、春日刑部貞幸は、泰時の乗る馬の轡(くつわ)を取っていた貞幸が、押し止めることが出来ず、思いを巡らし「甲冑を着て渡る者は、多くが水に沈み死に申す、速やかに御鎧を脱がれますように」泰時が田に下りて立って鎧を脱いでいたところ、貞幸が泰時の馬を隠したので泰時は心ならずも留まった」。乱後、貞幸の功名は先陣にも優ると鎌倉で評価されたと言う。
佐々木信綱が先陣していたものの、中島で子息重綱を待っていたため岸に着いたのは北条時氏と同時であり、信綱は太刀を取って川底に流されている大綱を取り切り捨てた。芝田兼義も馬に矢が当たり倒れたが泳ぎが達者であるため無事に対岸に着くことが出来た。強引な敵前渡河で多数の溺死者を出しながらも成功し、敵陣を突破しる。北条時氏は旗を高く掲げて矢を放ち、東国武士と官軍は挑みあい勝敗を争った。東国武士は既に九十八人が負傷したと言う。『百錬抄』六月十三日条は「勇散の輩(ともがら)身命を棄て牧島に渡り、兵糧を奪い取り、勝ちに乗ず」と記され、両軍の激戦の末武士たちにとって、兵糧を奪うか守れるかは、合戦の士気と勝敗を左右する事であった。
北条泰時・足利義氏等は尾藤左近将監景綱が命じ平出弥三郎に民家を取り壊した筏(いかだ)に乗り川を渡った。泰時が岸に付いた後は、武蔵・相模の者が特に攻めて戦い、官軍の大将の源有雅・藤原範茂・安達親長等は防戦する術もなく逃げ去った。官軍の八田知尚、佐々木惟綱、小野成時らは、藤原朝俊を大将軍として宇治川辺りに留まり奮戦したのが、この戦いですべて命を失っている。官軍は弓矢を忘れ敗走し、北条時氏はその後も追って官軍を討ち取り、宇治川の北辺りの民家に隠れた兵に対し、火を放った。自ら逃げ籠った者は、煙にむせび慌てふためいたという。
その頃、北条泰時の勢田での戦も優勢となり、夜に官軍の大江親広、藤原秀康、小野盛綱、三浦胤義らが陣を放棄し京に戻った。北条泰時は勇士十六騎を率いて、密かに深草河原に陣を構えた。右幕下・藤原(西園寺)公経の使者として三善長衡が陣に現れ、「どこまで来られたのか見てくるように幕下(公経)の命がありました」と伝える。泰時は、「明朝、京に入ります。まず初めに連絡しましょう」。使者の名を問うと、長衡と名乗り、南条時員を長衡につけて公経のもとに遣わし、屋敷を警護するように命じた。毛利入道(西阿:季光)・三浦義村は淀・芋洗などの要害を破り、高畠辺りに泊まった。泰時が使者を遣わし両人は深草に到着したと言う。夜になり官軍の大江親広・藤原秀康・佐々木盛綱・三浦胤義は陣を放棄し、京に戻り三条河原に泊まった。
十五日に幕府軍は京になだれ込み、幕府軍は寺社、公家武士の屋敷に火をつけ、京の民にも甚大な被害を与え略奪暴行を働いたと言う。鎌倉において北条義時及び幕府重臣は、勝利を祈願するすべしかなかった。 ―続く