三月五日土曜日に鎌倉芸術館で「流鏑馬」の講演会が開かれた。コロナ禍で、もう鎌倉の鶴岡八幡宮の春秋の「流鏑馬」が行われていない。今年の春も難しいようだ。一月前から鎌倉市民向けの広報誌で「流鏑馬」の講演会が行われると言うことを知り、即時に申し込んだ。鎌倉散策でも令和三十一年九月二十日に「鶴岡八幡宮 例大祭 流鏑馬」、令和二年一月、「鶴岡八幡宮 除魔神事」、令和三年十月八日、「鎌倉期における文化 三、武士の文化の始まり」で流鏑馬及び弓馬にまつわるものを配信させていただいている。理由として『吾妻鏡』や『平家物語』、『承久記』等を読むうえで疑問に思うことが、多数出てきたので、それらを解決するために良い機会として参加させていただいた。
流鏑馬は馬を駆施ながら矢を射る事から、「矢馳せ馬(やばせうま)」と呼ばれ、時代の経過とともに流鏑馬(やぶさめ)と呼ばれるようになったと言われる。鶴岡八幡宮では、春の流鏑馬は武田流、秋の例大祭の流鏑馬は小笠原流と分けられている。調べてみると各地の社殿でもよく行われている。
(写真:流鏑馬ウィキペディアより引用)
流鏑馬の歴史において六世紀に欽明天皇が宇佐(現大分市宇佐市)において世が乱れた事を憂いて三つの的を射させた「流鏑馬」が起源とする。流鏑馬を含む弓馬礼法は寛平八年(896)に宇多天皇が源能有(みなもとのよしあり:清和天皇の兄))に命じて制定されており、『中右記』の永長元年(1096)の項で記載されているように、馬上における実践的弓術の一つとして平安時代から存在したと言う。能有はこれを清和天皇の第六皇子である貞純親王に継承し、貞純親王は子の源経基(母は源の能有の娘で清和源氏初代)に伝えたという。その後清和源氏満仲、頼信、頼義を経て源頼家と源氏が代々 相伝したとされる。さらに源頼家の弟の甲斐源氏の祖となる新羅三郎義光から義清、清光を経て平安末期に武田信義・武田信光の武田家と加賀美遠光・小笠原長清の小笠原家に伝えられ現在大きな流派として「小笠原流」と「武田流」があり、全国にはおよそ百の団体があるという。
『吾妻鏡』では、源頼朝が西行に弓馬の教えを受けて復活させたようである。西行は、平安時代末期から、鎌倉時代初期に生きた武士であり、妻子を捨て出家し、僧侶であり、歌人である。西行の俗名は、佐藤則清(さとうのりきよ)。鳥羽院の北面の武士であり、弓の名手と謳われた個人的に最も興味のある人物である。『山家集』に「願わくば 花の下にて 春死なん その如月の 望月の頃」が有名である。 保延六年(1140)家族を捨て、出家し、円位を名乗り、後に西行と称した。源頼朝が鎌倉幕府を開いた(幕府創設の年次には諸説ある)後、文治二年(1186)八月に西行は東大寺の再建費用を勧進するため奥州へ向かう途中に鎌倉を訪ね頼朝と会っている。頼朝から弓馬の事を尋ねられたが「一切忘れた」ととぼけたと言われる。弓で名を馳せた北面の武士であった西行に、弓馬に関する礼儀や作法を聞きたかったのだろう。頼朝が十三歳で元服直後、平治の乱で敗れ、伊豆に流され、源氏の棟梁であるが、武士としての教養は少なかったと思われる。頼朝が西行に銀で作られた猫を手渡すが、西行は屋敷を出た後、八幡宮門前で子供に与えたと言う。
翌年の文治三年(1187)年八月九日条、「鶴岡八幡宮の境内を念入りに清掃した。今日、馬場を造って埓(らち:柵)を廻らされた」。同十五日条、「鶴岡放生会があった。…流鏑馬があった。射手五騎が各自まず馬場に移動して、続いてそれぞれが射ち終えたが的に当たらない者はいなかった。」
一番 射手 長江太郎義景 的立 野三刑部小野盛綱
二番 射手 伊沢五郎信光 的立 河勾七郎政頼
三番 射手 下河辺庄司行平 的立 勅使河原三郎有直
四番 射手 小山法師丸 的立 浅羽小三郎行光
五番 射手 三浦平六義村 的立 横地太郎長重
今回の公演で、源家の武田信光、小笠原長清が源頼朝の御家人となり、弓馬練達の武士として流鏑馬の射手を務めるなどしていたが、この頃には各家に騎手の流儀があった事から源頼朝は弓馬の達人を集めて話し合い流鏑馬の式法を定めて、武田信光、小笠原長清両氏がその構成に多大に貢献したと語られていた。
射手と騎手と記載させていただいたが、流鏑馬は、「天下奉平」「五穀豊穣」「万民息災」を祈念して行い、奉納する神事である。神事で奉納する玉串と同様と考えるべきで、多く的中したものには褒美が与えられているが、その的の的中により占うことは無い。占いの役割は陰陽師の職に委ねられる。当時の武士の戦いは、初戦においては主に弓馬による戦いであり、日常において、戦陣に備え犬追物、流鏑馬、笠懸の修練は「騎者三物」と称され、武士の儀式等においても取り入れられ「弓馬の道」が体系化されていき「流鏑馬」は神事として射手と称される。犬追物、笠懸は神事ではなく弓馬の稽古として騎手と称される。室町期において礼の思想と融合し武家の古術の一部になった。
犬追物は、文献上『明月記』承元元年(1207)に初見と四十間四方の柵で囲まれた平坦な馬場で三十六騎の騎手が十二騎を一組とし、百五十匹の犬を所定時間で何匹射止めたかを争う。矢が貫通しないよう「犬射引目(いぬうちひきめ)」という鏑矢(かぶりや:音の出る特殊な鏃)を使用し、ただ単に射止めるだけでなく、打ち方や当所により技が決められ、それを判定する二騎の「検見」という検分者と二騎の「喚次」という呼び出しが存在した。
(写真:ウィキペディアより引用)
笠懸(かさがけ)は、流鏑馬と同様馬上から的に鏑矢(鏑矢)を放ち的に当てる。流鏑馬より格式は劣るがより実践的で、標的も様々である。また、流鏑馬は進行方向の左手の的を射るが、笠懸では、角度は狭いが右手に矢を放つ事もある為に、弓馬の技術的難度は非常に高い。文献上は、天喜五年(1057)に『定家朝臣記』に藤原氏の警護を勤めていた源頼俊の家人達によって行われたと記されている。的は綾藺笠(あやいがさ:被り傘の一種)が用いられたようであり、後に直径一尺八寸(約五十五センチ)の木枠や聞いたに牛革を張り中に綿・毛・藁等を入れ立体的に木枠に針つるしている。矢は鏑矢の一つ蟇目矢を使用し、実践的な稽古の一つであったが余興や騎射の腕をためす競技としても扱われた。現在、武田流のみが年に一度、京都上賀茂神社で行われている。神事・儀礼的な流鏑馬とは違い独自の発展を遂げたが、室町期の末には鉄砲の伝来により兵法が変わったため衰退していった。また、富士野の巻狩りで有名である巻狩りは、鹿や猪、雉を獲物とした狩猟行為であるが、大規模なため権力者の示威行為でもあり、軍事演習の一つとされていた。
(写真:ウィキペディアより引用 笠懸)
流鏑馬は、中世から伝わる狩装束を纏った射手(いて)が疾走する馬上から手綱(たづな)を外し、風を切りながら弓弦(ゆずる)を引き、的に鏑矢(かぶらや)を射る、日本の伝統的な騎射の技術である。流派により違いがあるが、鶴岡八幡宮では南北の参道を横切る東西に延びる流鏑馬の馬道があり、直線、約二百六十メートルの距離で進行方向左手に間を置いた三つの的を立てる。馬上から的までの距離は約五メートル前後の的で、高さは二メートル前後で、馬を疾走させ、連続して矢を射る。その一瞬の集中力と技術を見る事が出来る。「流鏑馬」の見どころの一つとして「鞍立ち」、「立ち透かし」と言われる馬の反動を無く祉馬上で背筋を伸ばし状態が上下しない美しい姿勢を保つ射手の姿で、その技術を見ることもできる。その技術を習得するのに数年はかかるとされ、馬が急停止しても体勢を崩さないという。そこには、和鞍と和鐙(あぶみ)の特徴が必要で、和鞍は本来重い鎧を支えるため馬の動きに沿うようになっている。和鐙は馬の前足のすぐ横近くに置く為、やや後傾になり、矢を討ちやすくしている。武田流の弓術は日置流の流れを汲み斜面打越しが伝えられている。その技術の習得により「鞍立ち」・「立ち透かし」で美しい姿勢を表わすことが出来た。武田流では矢を放つとき射手が声を発することは無く、小笠原流では射手が掛け声を発する。目の前を一瞬過ぎていく姿を見る。しかし、迫力、速さと射手の一瞬の緊張感を垣間見る事が出来る。
『承久記』には、承久三年六月十三日、雨が降る中、北条時房が近江国の野路から勢田に向かい、官軍は勢田の唐橋の中央の二間の板を落としていた。橋の向こうで楯を並べ鏃(やじり)をそろえ、官軍の山田重忠と比叡山の悪僧、播磨竪者(りっしゃ:僧の肩書を持つ者)が戦いを仕掛けた。悪僧は大太刀・長刀でを自在に操り、鎌倉武士が橋桁を上ってくると切り倒し川に落とす。今までにない苦戦を強いられた。宇都宮業頼は橋上での戦を避け、一町余(約百メートル)川上辺りに陣を敷き、遠矢を放ち戦っていたが、京方の「信濃住人、福地十郎俊成」の十三束三伏(じゅうさんたばみつふせ:自身の拳十二個分に三本の指の長さを加えた弓の長さ)大矢が冑の鉢に射立った。業頼も負けじと自身の名を記した十三束二伏の大矢を渾身の力を込めて矢を引き放った。矢は、対岸の三町(約三百三十メートル)余り先で指揮をしていた山田重忠の側に突き刺さり、急ぎ退いたとされる。また、三穂崎(水尾崎)から船を船で現れた美濃竪者観厳らにも矢を放ち法師武者二人を倒し観厳も引き退くほかなかったという。しかし矢が尽き、兵が討たれるのを避けるために攻撃が一時停止する命を発するが、橋上で戦う武士には聞こえず、大声を発する伝達の武士の声により橋上の戦も停止された。勢田の合戦においても激戦であったと言う。矢合わせの合戦であるため大矢を使っていると思われるが、当時の騎射に用いられた矢の長さは、私の知る限り定かではない。大矢と言うことからそれより短い物もあったと思われる。矢は、微妙な調整で用途が違うことが考えられ、鏃を重くすると的中率は高いが、飛距離が出ない。軽くすると遠くに飛ぶが的中率が低く、殺傷率も低くなる。弓矢の飛距離は、軍記物・歴史書あるいは現在での試験で四百メートル前後は飛ぶらしい。しかし、的中率を考えると三十三間(60.6m)ぐらいが限度と考えられる。流鏑馬においての矢の長さは、十一束前後で、個人により矢を射やすい長さに作られ、これらも高価である。弓道と同じように射手の各により弓の巻き方が違う。
この鎌倉での流鏑馬は文治三年(1187)八月十五日、頼朝が鶴岡八幡宇宮墓放生会で奉納したのが始まりと言われている。安土桃山時代に鉄砲の導入と兵法の変化、明治維新、第二次世界大戦と三度の衰退がみられたが継承され続け現在に至っている。
公益社団法人「大日本弓馬会」の武田流流鏑馬は海外での文化交流で他国に赴き流鏑馬の実践をされている。流鏑馬は、技術の習得に年数もかかり、射手に昇格して装束を整えるのに相当な費用が掛かるために今後の伝承・後継が課題と言われていた。