(写真:水鑑景清居士の墓標)
海蔵寺を後にし、化粧坂切通に向かうが、途中「水鑑景清居士」という墓標が二メートルほどの高さの崖ぶちに建てられていた。以前来たときは気づかなかったが、ここにあったと思い、ときめいた。ここでは、頼朝暗殺計画を立てた人物として紹介しておこう。また、機会を作り配信させていただく。
(写真:化粧坂)
化粧坂切通に向かい急坂を上ってゆくと、舗装路が途切れ、化粧坂切通の入り口に着く。「危険・注意・すべりやすい」等記載された看板や工事中の柵等が見られ前を歩いていた人が、引き返してきた。通行禁止になったのかと思い、戻る人に声をかけようかと思ったが、その場まで行って見てみると危険惹起を促すもので通行禁止ではなかった。化粧坂は、時間的に十分もかからないで、源氏山公園に着く。靴さえしっかりしていれば特に問題なくたどり着く。しかし初めてで、一人で来ると不安であると思う。私も初めて来たときには、行程がどれくらいか分からず不安だったと思うが、あっという間にたどり着き、気抜けした感じだった。しかし切通の趣は残されている。
源氏山公園にたどり着き源頼朝像の前に行く。公園では、多くの人がハイキングの人が集まり、十一時前ではあるがお弁当を広げていた。源氏山公園の晴天の中に浮かぶ頼朝はとても良い顔をしている。頼朝像を通り源氏山山頂に向かう道がある。山頂に登ると二個の石塔が不正列に置かれ、この石塔については解らない。山頂から木々の枝の向こうに富士山が見えることがあるが、今日は遠くが霞、見ることはできなかった。
(写真:源氏山山頂と太田道灌の墓)
寿福寺に降りる標識があり、少し行くと英勝寺の墓地が見え、そこから土路になり下り坂になる。途中、太田道灌の墓がある。南北朝期から室町期にかけ足利氏の鎌倉公方を補佐する関東管領が上杉氏に与えられ、山ノ内上杉が関東管領職を独占することになる。そして、拡大してゆく上杉家は主流山之内、庶流犬縣、扇谷と分れ、山ノ内上杉家を支える分家的な存在であった。太田道灌は、その扇谷上杉氏の家臣であり、武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰であり、太田氏もこの扇ヶ谷の上杉屋敷の一角に居を構えており、その場所が英勝寺辺りの地とされる。太田道灌は、江戸城築城したことで有名であるが、武将としても学者としても一流の定評があるが、山ノ内上杉、扇谷上杉の争いに巻き込まれ、文明十八年(1486)謀殺され、太田氏は没落した。英勝寺は本来、太田道灌邸であったと云わり、英勝寺の開基は徳川家康の寵愛を受けた「お勝の方」が家康没後、英勝院尼(太田道灌五代の子孫で水戸藩の基礎を作り上げる)となり、先祖のこの地に建立した寺院とされる。
(写真:源氏山から寿福寺に下る道)
この寿福寺に下る道は、私は好きで、岩に覆われた小道を過ぎるのが、何と言っていいか、趣きがあり、岩の年月を感じさせてくれる。そして寿福寺の墓地にたどり着き、山の裾の墓地のやぐらには源実朝とその母政子の五輪塔が安置され、明治の外務大臣、陸奥宗、俳人高浜虚子、作家の大佛次郎等の墓がある。北条政子、源実朝の墓にお参りし、寿福寺に降りる。寿福寺は宗派が臨済宗建長寺派で、山号寺号を亀谷山壽福金剛禅寺(きこくさんじゅふくじこんごうぜんじ)と称される。創建は正治二年(1200)。 開山は明菴栄西(千光国師)で、開基は北条政子で頼朝がのっした翌年に創建した。 本尊:宝冠釈迦如来で、寺宝等は栄西著『喫茶養生記』(国重文)、木造地蔵菩薩立像(国重文)等がある。
山門の横に「亀谷山壽福金剛禅寺」と刻字された大きな石柱がある。山号の亀谷山は扇ヶ谷付近の鎌倉時代の旧称で、「亀ヶ谷」にちなむ。室町時代に入り、扇ヶ谷に変わったようだ。亀ヶ谷は鶴岡の対語都として名づけられたという説もある。裏山が亀のような形をした源氏山であったという説。また、亀ヶ谷坂は亀が登ると急で、亀がひっくり返るという事から付けられたともいう。鎌倉時代は亀ヶ谷もこの一帯を指し谷戸の細部には別名もつけられている。浄光明寺のあたりは藤谷と呼ばれていた。
(写真:寿福寺)
平安時代の「陸奥話記」によると、平忠常の乱(1028~31)の討伐の為、源頼信・頼義親子は関東に下向した。その際、鎌倉を領地にしていた検非違使の平直方(桓武平氏)が頼義の弓の見事な技術にほれ込み娘の婿にした。そして義家が生まれ、土地を譲り与えられ、源氏の関東の拠点ができた。頼義は頼朝の五代前の先祖である。また、頼朝の父義朝は沼間(逗子市)と亀谷(現在の寿福寺当たりの地を所有し、亀ヶ谷に邸宅があったことが古文書等で確認されている。「吾妻鏡」によると治承四年(1180年)十月六日、頼朝が鎌倉に入りし、この亀ヶ谷に居を構えようとしたが、狭隘(きょうあい)な地であり、すでに岡崎義実が義朝を弔う仏社(亀谷堂)を建立していたため大倉の地(源、鶴岡八幡宮東)に新居を立てたと記載されている。正治二年(1200)北条正子はこの地に「栄西えいさい:ようさい」に寄進して、寺院を建立した。後、鎌倉五山第三位の寺として位置付けられた。栄西は二度にわたり入宋し、「興禅護国論」などで、日本に禅を伝えた。鎌倉の壽福寺、京都の建仁寺を開山したが、当初、壽福寺は天台、真言、禅の三宗兼学の寺で、禅宗の専門道場ではなかった。建長寺より創建は古いが、わが国初の禅の専門道場として建長寺があげられる。栄西は茶の苗を持ち帰り、茶の効用「喫茶養生記」(国重文)に記して、源実朝に献じた。当寺の茶は主に薬として用いられ、禅宗と茶の儀礼がともに広がっていった。
(写真:北条政子の五輪塔、源実朝の)
建久九年(1198)成立の「興禅護国論」を比叡山が圧力をかけ。難を逃れるために正治二年(1200) 、頼朝の死後の翌年に五十九歳で鎌倉に下向した。北条正子、実朝は栄西の鎌倉入りを非常に歓迎したとされ、「吾妻鏡」などで「葉上房乃寺(養生房:栄西の別称)」、「栄西律師亀谷寺」と言う記載がみられ、相当な招聘と礼を尽くされたことがわかる。山門からは非公開で仏殿周辺は山門から拝観でき、仏殿横の柏槇の古木を見る事が出来る。この仏殿に「籠釈迦」といわれる高さ二百八十三センチの本尊宝冠釈迦如来像と文殊菩薩像、普賢菩薩造などが祀られている。
鎌倉を象徴する美しい景観で鎌倉を敢行する人は多く集まり、総門を入ると両脇を樹木で囲まれ、真直ぐに伸びた敷石の参道が山門に続く。参道を覆う木々は、新緑の頃や紅葉の頃は特に美しく、その風景は人の心を落ち着かせる。また、寺院から逆に山門を見るのも趣きがあると思う。久しぶりに歩いたこの道に思いを馳せながら帰路に着いた。 ―完