鎌倉散策 亀ヶ谷切通から扇が谷と化粧坂、三 海蔵寺 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 

(写真:海蔵寺参道と山門)

  浄光明寺を後に、来た道をもどる。岩船地蔵、JR横須賀線の高架をくぐり扇が谷の住宅街を行くと海蔵寺にたどり着く。鎌倉でも花の寺として有名で、春の初めて見た海棠の花、夏の京鹿子(きょうがのこ)、桔梗と芙蓉、秋に紫に咲く竜胆(りんどう)と参道を覆う紅白のハギが見事に咲く。冬の水仙。懸節ごとに音連れても飽きることはない。庭に置かれた赤傘がいつ来ても咲く花と同じように咲いている。しかし、残念だが丁度この時期に咲く花を見ることはできない。また、江戸時代に建てられた茅葺の庫裡は、鎌倉の寺院の庫裡建築を代表するもので、歴史的価値が高い。

  

(写真:海蔵寺本堂)

 海蔵寺の建立は応永元年(1394)、開山は心昭空外(源翁禅師:げんのうぜんし)で、開基:上杉氏定である。宗派は臨済宗建長寺派での寺院で、山号寺号:扇谷山(せんごくざん)海蔵寺。本尊は薬師如来で、寺宝としては嘉元四年銘(1306)銘の阿弥陀三尊来迎図板碑、木造大形故位牌、狩野探信筆 雲流・山水の図、藤原義信筆 牡丹唐獅子図等があげられる。開基の上杉氏定は、小山田上杉家の上杉頼顕の子として文中三年/応安七年(1374)に生まれ、諱「氏」は二代鎌倉公方・足利氏満より賜ったとされる。叔父にあたる扇ヶ谷上杉の初代当主・上杉顕定の養子となり、後に扇ヶ谷上杉の当主となり鎌倉公方氏満・満兼・氏持の三代に仕えた。応永二十三年(1416)上杉禅秀の乱が勃発した際、公方・持氏に就くが、禅宗の軍に敗れ重傷を負う。劣勢の持氏軍が鎌倉を退去する際に同道できず、藤沢の藤沢道場(時宗の無量光院清浄光寺)で、同年十月八日に自刃した。

 

 海蔵寺の地は、元々真言宗寺院があったとされ、建長五年(1253)宗尊親王(嵯峨天皇の皇子で鎌倉幕府六代将軍)の命で従五位前能州(能登国)大守藤原仲能が本願主となり、この地に七堂伽藍を持つ規模の寺院が再建された。鎌倉幕府滅亡時にその多くが焼失し、その後、応永元年(1394)に鎌倉公方足利氏満(二代鎌倉公方)の命で、上杉氏定がその真言宗の寺であった跡地に心昭空外を招いて再建されたのが海蔵禅寺である。扇ガ谷上杉氏の菩提寺となり保護を受けて栄えた。天正五年(1577)、建長寺に属し現在に至っている。

 

(写真:薬師堂と薬師三尊)

 空外は「那須の殺生石」の伝承で有名で、鳥羽天皇が那須で殺させた鳥羽天皇が奇怪な病気に悩まされ、原因が寵妃玉藻(たまも)の前に化けた白狐に仕業と解った。しかし、その白狐は東国下野に逃走し、三浦義明に命じて那須野原で成敗させている。その白狐は石となり、周辺の民は、この石に触ったものは死んでしまうという祟りで恐れていた。空外こと源翁禅師が経を唱え、持っていた杖で石を叩くと砕け散り、白狐の霊は成仏したという。金槌を別名、玄能と言うのは源翁に由来すると言われている。また、この寺院にも伝承があり、仏殿に安置された薬師如来像、別名「啼薬師」「児護(こもり)薬師」と呼ばれている。創建当時、寺の裏山から毎夜悲しげな赤ん坊の泣き声が聞こえ、啼き声を源翁禅師がたどっていくと、金色の光と甘い香りが漂う古い墓石があった。経を唱え、墓石に袈裟をかけたところ鳴き声はやんだ。翌日その墓石を掘ってみると、地中から薬師如来像のお顔が現れ、新たに作った薬師如来像の胎内にそれを収められた。体内の蔵を拝観できるのは六十一年ごととされている。

 

(写真:海蔵寺 やぐらと庭園、心字池)

 海蔵寺の縁起には源翁禅師(心昭空外)は越後の人で、示現寺に二十六年間止住した後、建長寺の大覚禅師に参禅・修学、次いで海蔵寺債権の折開山に迎えられたと在る。他の文献を集約すると源翁禅師(心昭空外)は、嘉暦四年(1329)生まれ、五歳で越後の陸上寺(真言宗)で小僧となり、十六歳で得度し、他宗の教義も得たいと考え諸国行脚、十八歳で曹洞宗に改宗、能登の總持寺二世、峨山韶碩に師事する。四十七歳の時に福島会津の真言宗の慈眼寺を曹洞宗に改宗して示現寺と改め、その後諸国寺院の曹洞宗改宗を行う。「建長寺の大覚禅師に参禅・就学した。その後、海蔵寺再建のおり開山に迎えられている」が、この件につき年齢、年譜を見て疑問を持つ点が多い。寺に伝わる「海蔵寺修蔵勧進状写」では、開山は大覚禅師五世の孫の空外と有り、没年を弘安三年(1280)としている。大覚禅師(蘭渓道隆)弘安元年(1278)に示寂しているため五世孫の表記も不可解である。一方、殺生石伝説の源翁禅師は曹洞宗の僧で、大覚禅師に帰依して臨済宗に改めたと言われ、大覚禅師に送られた諡(おくりな)が空外だったという説もあるが、空の字は真言宗僧に多い。そして、源翁禅師は応永七年(1400)に七十七歳で入滅され、墓は福島県北方市の曹洞宗の示現寺に在る点不思議だ。

 

(写真:底抜けの井)

 本堂の裏にはよく手入れされた心字池の裏庭があり(非公開)山肌から湧き出る清水が注ぎ込まれている。門前には、「千代能が、いただく桶の 底抜けて 水たまらねば 月もやどらず」と歌われたと伝えられる「底抜けの井」や、鎌倉時代の遺跡である「十六の井」もあり、現在もきれいな水がわいている。水の寺とも言われている。底抜けの井は、鎌倉十井の一つです。中世の武将の安達泰盛の娘・千代能が、ここに水を汲みに来た時、水桶の底がすっぽり抜けたため、「千代能が、いただく桶の 底抜けて 水たまらねば 月もやどらず」と歌ったことから、この名が付いたと言われています。井戸の底ではなく、心の底が抜けて、わだかまりが解け、悟りが開けたという投機(解脱)の歌である。千代能は悟りを開き無着如大と言う尼僧になった。また、上杉家の尼僧が修行中に同じような体験をし、「賤(しず)の女がいだく桶の底抜けた身にかかる有明の月」と歌っている。有明の月とは陰暦十六日以降、夜が明けても、空に残っている月。ありあけづき、ありあけづくよ、ありあけとも言う。季語は秋を指す。

 

(写真:十六の井)

また、本堂左手道筋の崖下には、鎌倉期様式のやぐら(洞穴)に清水をたたえた「十六の井」がある。伝承によると、金剛工特推と名付けられ、観音菩薩が中興開山に夢に告げた。「末世の修生信心つたなくして身に難病を受けて定業を終えずして死す、故に弘法大師に告げ、金剛工特推を以って加持し、この水を授家、薬を煎じて与えれば、悪病ことごとく蕩除(はらいのぞ)けたのだが、鎌倉は数度の天才の為にこの井埋れり、禅師願わくはこの井を掘りだして掃除をなされば、清水湧き出で再び霊験あらわれん」。夢から覚めた禅師がその通りすると観音菩薩像が現れ、窟中の水を加持し衆生に施したところ霊験あらたかであった。十六井の十六の数は十六(金剛)菩薩(薩・王・愛・喜・寶・光・憧・笑・法・利・因・語・業・護・牙・拳の各菩薩)を表現し、その菩薩に供え捧げる水を閼伽(赤)という功徳水という。まさしく海蔵寺は水の寺でもある。そして、秋晴れの日差しの中、もと来た住宅地の道を戻り化粧坂、源氏山にむかう。 ―続く

 

(写真:海蔵寺参道と山門)

  浄光明寺を後に、来た道をもどる。岩船地蔵、JR横須賀線の高架をくぐり扇が谷の住宅街を行くと海蔵寺にたどり着く。鎌倉でも花の寺として有名で、春の初めて見た海棠の花、夏の京鹿子(きょうがのこ)、桔梗と芙蓉、秋に紫に咲く竜胆(りんどう)と参道を覆う紅白のハギが見事に咲く。冬の水仙。懸節ごとに音連れても飽きることはない。庭に置かれた赤傘がいつ来ても咲く花と同じように咲いている。しかし、残念だが丁度この時期に咲く花を見ることはできない。また、江戸時代に建てられた茅葺の庫裡は、鎌倉の寺院の庫裡建築を代表するもので、歴史的価値が高い。

  

(写真:海蔵寺本堂)

 海蔵寺の建立は応永元年(1394)、開山は心昭空外(源翁禅師:げんのうぜんし)で、開基:上杉氏定である。宗派は臨済宗建長寺派での寺院で、山号寺号:扇谷山(せんごくざん)海蔵寺。本尊は薬師如来で、寺宝としては嘉元四年銘(1306)銘の阿弥陀三尊来迎図板碑、木造大形故位牌、狩野探信筆 雲流・山水の図、藤原義信筆 牡丹唐獅子図等があげられる。開基の上杉氏定は、小山田上杉家の上杉頼顕の子として文中三年/応安七年(1374)に生まれ、諱「氏」は二代鎌倉公方・足利氏満より賜ったとされる。叔父にあたる扇ヶ谷上杉の初代当主・上杉顕定の養子となり、後に扇ヶ谷上杉の当主となり鎌倉公方氏満・満兼・氏持の三代に仕えた。応永二十三年(1416)上杉禅秀の乱が勃発した際、公方・持氏に就くが、禅宗の軍に敗れ重傷を負う。劣勢の持氏軍が鎌倉を退去する際に同道できず、藤沢の藤沢道場(時宗の無量光院清浄光寺)で、同年十月八日に自刃した。

 

 海蔵寺の地は、元々真言宗寺院があったとされ、建長五年(1253)宗尊親王(嵯峨天皇の皇子で鎌倉幕府六代将軍)の命で従五位前能州(能登国)大守藤原仲能が本願主となり、この地に七堂伽藍を持つ規模の寺院が再建された。鎌倉幕府滅亡時にその多くが焼失し、その後、応永元年(1394)に鎌倉公方足利氏満(二代鎌倉公方)の命で、上杉氏定がその真言宗の寺であった跡地に心昭空外を招いて再建されたのが海蔵禅寺である。扇ガ谷上杉氏の菩提寺となり保護を受けて栄えた。天正五年(1577)、建長寺に属し現在に至っている。

 

(写真:薬師堂と薬師三尊)

 空外は「那須の殺生石」の伝承で有名で、鳥羽天皇が那須で殺させた鳥羽天皇が奇怪な病気に悩まされ、原因が寵妃玉藻(たまも)の前に化けた白狐に仕業と解った。しかし、その白狐は東国下野に逃走し、三浦義明に命じて那須野原で成敗させている。その白狐は石となり、周辺の民は、この石に触ったものは死んでしまうという祟りで恐れていた。空外こと源翁禅師が経を唱え、持っていた杖で石を叩くと砕け散り、白狐の霊は成仏したという。金槌を別名、玄能と言うのは源翁に由来すると言われている。また、この寺院にも伝承があり、仏殿に安置された薬師如来像、別名「啼薬師」「児護(こもり)薬師」と呼ばれている。創建当時、寺の裏山から毎夜悲しげな赤ん坊の泣き声が聞こえ、啼き声を源翁禅師がたどっていくと、金色の光と甘い香りが漂う古い墓石があった。経を唱え、墓石に袈裟をかけたところ鳴き声はやんだ。翌日その墓石を掘ってみると、地中から薬師如来像のお顔が現れ、新たに作った薬師如来像の胎内にそれを収められた。体内の蔵を拝観できるのは六十一年ごととされている。

 

(写真:海蔵寺 やぐらと庭園、心字池)

 海蔵寺の縁起には源翁禅師(心昭空外)は越後の人で、示現寺に二十六年間止住した後、建長寺の大覚禅師に参禅・修学、次いで海蔵寺債権の折開山に迎えられたと在る。他の文献を集約すると源翁禅師(心昭空外)は、嘉暦四年(1329)生まれ、五歳で越後の陸上寺(真言宗)で小僧となり、十六歳で得度し、他宗の教義も得たいと考え諸国行脚、十八歳で曹洞宗に改宗、能登の總持寺二世、峨山韶碩に師事する。四十七歳の時に福島会津の真言宗の慈眼寺を曹洞宗に改宗して示現寺と改め、その後諸国寺院の曹洞宗改宗を行う。「建長寺の大覚禅師に参禅・就学した。その後、海蔵寺再建のおり開山に迎えられている」が、この件につき年齢、年譜を見て疑問を持つ点が多い。寺に伝わる「海蔵寺修蔵勧進状写」では、開山は大覚禅師五世の孫の空外と有り、没年を弘安三年(1280)としている。大覚禅師(蘭渓道隆)弘安元年(1278)に示寂しているため五世孫の表記も不可解である。一方、殺生石伝説の源翁禅師は曹洞宗の僧で、大覚禅師に帰依して臨済宗に改めたと言われ、大覚禅師に送られた諡(おくりな)が空外だったという説もあるが、空の字は真言宗僧に多い。そして、源翁禅師は応永七年(1400)に七十七歳で入滅され、墓は福島県北方市の曹洞宗の示現寺に在る点不思議だ。

 

(写真:底抜けの井)

 本堂の裏にはよく手入れされた心字池の裏庭があり(非公開)山肌から湧き出る清水が注ぎ込まれている。門前には、「千代能が、いただく桶の 底抜けて 水たまらねば 月もやどらず」と歌われたと伝えられる「底抜けの井」や、鎌倉時代の遺跡である「十六の井」もあり、現在もきれいな水がわいている。水の寺とも言われている。底抜けの井は、鎌倉十井の一つです。中世の武将の安達泰盛の娘・千代能が、ここに水を汲みに来た時、水桶の底がすっぽり抜けたため、「千代能が、いただく桶の 底抜けて 水たまらねば 月もやどらず」と歌ったことから、この名が付いたと言われています。井戸の底ではなく、心の底が抜けて、わだかまりが解け、悟りが開けたという投機(解脱)の歌である。千代能は悟りを開き無着如大と言う尼僧になった。また、上杉家の尼僧が修行中に同じような体験をし、「賤(しず)の女がいだく桶の底抜けた身にかかる有明の月」と歌っている。有明の月とは陰暦十六日以降、夜が明けても、空に残っている月。ありあけづき、ありあけづくよ、ありあけとも言う。季語は秋を指す。

 

(写真:十六の井)

また、本堂左手道筋の崖下には、鎌倉期様式のやぐら(洞穴)に清水をたたえた「十六の井」がある。伝承によると、金剛工特推と名付けられ、観音菩薩が中興開山に夢に告げた。「末世の修生信心つたなくして身に難病を受けて定業を終えずして死す、故に弘法大師に告げ、金剛工特推を以って加持し、この水を授家、薬を煎じて与えれば、悪病ことごとく蕩除(はらいのぞ)けたのだが、鎌倉は数度の天才の為にこの井埋れり、禅師願わくはこの井を掘りだして掃除をなされば、清水湧き出で再び霊験あらわれん」。夢から覚めた禅師がその通りすると観音菩薩像が現れ、窟中の水を加持し衆生に施したところ霊験あらたかであった。十六井の十六の数は十六(金剛)菩薩(薩・王・愛・喜・寶・光・憧・笑・法・利・因・語・業・護・牙・拳の各菩薩)を表現し、その菩薩に供え捧げる水を閼伽(赤)という功徳水という。まさしく海蔵寺は水の寺でもある。そして、秋晴れの日差しの中、もと来た住宅地の道を戻り化粧坂、源氏山にむかう。 ―続く