十月の初旬は、例年より気温か低く十一月中旬から下旬の天気が続き、天候の入れ替わりが多く散策に出るタイミングを逃してしまった。下旬になると気温も天候も安定しだし明後日から十一月が訪れる。十月三十日土曜日、あまりにも天気が良く、明日は選挙もあり、雨が降りそうな予想の為、早朝から散策に出かけた。今年の春以降訪れていなかった好みの亀ヶ谷切通から薬王寺に参り、扇が谷の浄光明寺、海蔵寺、そして化粧坂から源氏山公園を通り寿福寺に下りる道のりだ。いつもの様に朝九時十三分の大船から出ている江ノ電バス(平日は一時間に日本、土日祝日は一時間に三本)に小袋谷から乗り、明月院の一つ先のバス停である上町で降りる。少し建長寺の方に鎌倉街道をゆくと右手に長寿寺が見える。この時期、秋の特別公開をされているが十時からの拝観時間となっているので、境内を外から見届ける事だけにした。まだ、紅葉は少し早いと思われ、あと一・二週間で鮮やかな彩になると思う。来週の土曜日辺りに建長寺の宝物風入の展示に来る予定の為後にして、長寿寺の横の亀ヶ谷切通に足を進める。
鎌倉街道は車で渋滞しだしており、亀ヶ谷に入れば、自動車が入れないため緑に包まれた中を歩く事が楽しめる。途中、崖に地蔵尊が祀られており、どのような云われがあるかは知らないが通るたびにお賽銭を置き、手を合わせる。亀ヶ谷切通は直線距離でおよそ七百メートルの距離であるが、急坂で、ここを亀が登るとひっくり返ると言う事からこの名が付いたとされる。民家が現れだし、以前、手造りパン屋さんがあっただろうと記憶に残る店も、コロナ感染症の為か扉が閉ざされ、看板もなくなっていた。そして薬王寺にたどり着く。
「鎌倉散策」で平成三十一年九月二十九日に「扇ヶ谷をあるく 薬王寺」で詳細を記載しているが、元は真言宗の寺院であったが日蓮宗に改宗した寺院である。境内に入ったところに徳川三代将軍家光の弟の駿河大納言忠長(国千代)が高崎で自刃、妻松孝院殿(織田信雄の娘・昌子)は、この寺に供養塔を建立した。徳川二代将軍秀忠の三男として生まれ、次期将軍は家光よりも忠長の方が有力であったとされるが、春日局による家康の直訴で後継指名が家光(竹千代)と決定し、その後元服した忠長は将軍家光との関係が悪化する。言動や小姓の手打ちなどを行った事から狂人扱いされ甲府へ蟄居とされた。後に高崎大信寺に移され、寛永十年(1633)十二月六日、幕命において切腹している。狂人扱いされた忠長であったが、妻松孝院殿にとっては忠長の無念と、それを弔うために供養塔を建て、永代追善供養のため多額の寄付と土地を寄進した。そのため薬王寺は徳川家と縁が深く寺紋にも三葉葵が用いられている。また、山裾に広がる境内墓地には高さ五メートルの宝篋印塔が二基置かれ、戦国時代の蒲生氏郷の孫の四国松山城主蒲生忠親の妻と娘の墓である。
薬王院を後にして、源頼朝の長女大姫の持仏がおさめられたとされる「岩船地蔵」の前に来る。大姫と木曽義高(木曽義仲の嫡子)の悲恋は「鎌倉散策」の令和三年六月二十九日「岩船地蔵尊の大姫と乙姫」詳細を期しているが、悲しい物語で、何時もここを通るたびに浄財を置き、手を合わす。青空の中の岩船地蔵堂を見ると気持ちが癒された。続いて浄光明寺に向かう。本当に青空が広がる良い天気の中、JRの横須賀線を鎌倉駅に向かう列車が通り過ぎていった。 ―続く