先日、書棚を整理していると、溜りに溜まった本の後ろの列に永井路子氏の『つわものの賦』が収まっていた。いつ購入したかは、全く覚えていない。しかし内容は、手に取ると思い出す。平安後期の東国武士の有様と何故東国武士が源頼朝の旗揚げに与したか、そして鎌倉幕府の創立と北条氏の執権体制から承久の乱までの歴史的出来事に対し自身の見聞と感想を描いた随筆である。小説とは違った永井路子氏の歴史観が窺える作品である。
『つわものの賦』は、
序章 嵐の中への出発 治承四年八月
第一章 中世宣言 三浦義明も場合
第二章 空白を意味するもの 上総裕恒の場合
第三章 功名手柄 熊谷直実の場合
第四章 東国ピラミッド 源平合戦の意味
第五章 「忠誠」の組織者 梶原景時の場合
第六章 大天狗論 東国対西国
第七章 奥州国家の落日 征夷大将軍とは何か
第八章 裾野で何が起こったのか 曽我の仇討にひそむもの
第九章 血塗られた鎌倉 比企の乱をめぐって
第十章 雪の日の惨劇 三浦義村の場合
第十一章 承久の乱 北条義時の場合
あとがき で構成されている。来年のNHKの大河ドラマ鎌倉殿と十三人の原作の一つになっており、歴史的事実を知りたい人には、『つわものの賦』、側面的視点を変えた小説では『炎環』をお勧めする。
序章において「頼朝の旗揚げ」は「東国武士団の旗揚げ」ととらえ、数百年西国の朝廷及び荘園主から搾取され続けていた東国武士団の革命という表現も記されている。しかし東国は国としての態勢が整えられておらず、未成熟であった。しかし、東国の武士は西国を征服しないままでも従来の屈辱的な隷属から一歩でも抜け出し、ある程度の権利を主張しようとしたのがこの治承の旗揚げであると示唆されている。
昭和五十三年九月十五日に初版が発売され、まだまだ中世史の細部に至る研究は、少なく、間違いと思しき点も見える。本文で「三浦氏は、もちろん相模の三浦半島を独占する豪族で、鎌倉源五郎景政(正)の一族と称している、同じ鎌倉市の子孫に鎌倉の近く鎌倉山を本拠とする梶原景時があり、その従弟といわれる大庭景親は、藤沢市付近の大庭御厨を領有している。」と記述されている。
しかし、「三浦」の姓を名乗るのが良文の孫忠通の子為通からであり、様々な系図を紐解くと三浦氏は桓武平氏平高望の三子良兼または末子の良文流の流れが妥当ではないかという。私自身良文流と考えている。高望の長子国香、次子良将、三子良兼、四子良持、五子良文である。国香の末裔が伊勢平氏清盛流、北条流とされ、良将の子が将門であり、その後、相馬流、千葉流、上総流と繋がっていく。良文は平将門の叔父にあたり、良文から忠通繋がり、その子に為通(三浦氏)、景道(鎌倉氏)、景村(鎌倉氏)、がいる。為通が三浦氏の祖となり、景道の子が景政で梶原景時との祖となる。景村は、孫の影宗の代から大庭姓を名乗り、その子が景義(後に懐島)と景親(大庭)、景久(俣野)となった。したがって遠い縁戚にあたるが、本流は三浦氏で鎌倉源五郎景政(正)の一族ではない。また、天養元年(1144)には、大庭御厨の大庭郷は高座郡内の地で、御厨の中央に位置する鵠沼を源義朝が東の三浦統、西の中村党を率い鵠沼が鎌倉郡内の地として襲撃した。その時の鎌倉党の惣領大庭景宗の子が大庭景親で、後に景親が平家方に就き「頼朝の旗揚げ」時にその時の確執から抵抗を行っている。
詳細な点の揚げ足取りのようであるが、このような点も見つけることも歴史の記述した書物の面白さである。あまり内容を記載するとネタバレになってしまうのでこの辺で止めるが、内容的には非常に面白い解釈をされている分お勧めしたい。そしてこの書棚に残されていた『つわものの賦』は、私が十九歳であった昭和五十三年九月十五日の第一刷であることに驚いた。単行本の紙の三辺は、かなり黄ばみを見せているが、内部は非常にきれいな状態である。そして、もう一つ驚いたことは低下が八八〇円と言う事で、現在の同等の書物に比べ三分の一程度である。当時、大学生だった私のバイト代の時給が九〇〇円前後であったと記憶する。しかし、今の時給千円程度でありながら、物価だけが高くなっていることにも驚いた。現在、『つわものの賦』文春文庫本として一五四〇円で書店に並んでいる。