鎌倉散策 鎌倉期における文化 九、工芸 甲冑(鎧兜)と刀剣 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 鎌倉期において公卿の政治体制から武士の台頭による政治が開かれた。また、この時期に庶民文化大きくかいかしていくことになる。工芸の面では、戦闘における武具の製作が他の工芸においても発展させていった。

 

 平安・鎌倉期においての染織物の遺品は必ずしも多くないが、各地の残る鎧直垂の錦、東寺の舞楽用具の錦などによって、この時代の力強く美しい作風が窺うことができる。全体的に伝統的な技術に則っていたが、鎧の威(おどし)や染皮(そめかわ)においては、新しい技術・技法の発達がみられた。なかでも、鎌倉時代初期につくられた大山祇神社蔵(愛媛県今治市)の赤糸威は優品として著名である。この時代の武士は、合戦で目立つ赤色をことのほか好んだ。古代においては甲短という胸・腹部を覆う物であった。平安期の中期に大鎧の技法が確立されたとされ、平安・鎌倉期の鎧は戦の方法で、初戦において弓馬の戦いであるため、大鎧が主体を成した。大鎧は、中国の騎馬兵甲冑の影響を受けているが、日本独特の工芸技術が備えられている。重さは二十五キログラム程度有るが、肩だけで重量を支えているわけではなく、腰の部分でも支えられている。重さは馬が支えるため武士が長時間の馬上で行動をし易くしており、弓を射るとから左脇の下に絵韋(えがわ)を張った鉄板を備え防御を固めた鎧であった。大兜をかぶり、大鎧を纏った馬上でのかがみこんだ姿勢は、飛んでくる矢に対し全身を守る最高の防備であるが、郎徒・従者は胴丸・腹巻等の簡易な鎧を付けている事など合戦絵巻で見ることが出来る。

  

(写真:銅丸)

 甲冑(鎧兜)では、京都に住んだ明珍が名高く、鎌倉時代の初め頃に初代が朝廷より明珍の号を賜り、以後代々この号を称したため、この流れを汲むものを明珍派(または明珍家)と呼んでいる。甲冑は、平安・鎌倉期に戦勝祈願のために神社に奉納する慣習が定着したため、いっそう装飾性を強め、鎌倉時代前期 紫綾威鎧(兜欠)(大山祇神社蔵)。鎌倉時代後期 赤糸威鎧(菊金物)(櫛引八幡蔵)、 赤糸威鎧(梅鶯金物)(春日大社蔵) 、赤糸威鎧(竹雀虎金物)(春日大社蔵)、白糸威鎧(日御碕神社蔵)、浅葱綾威鎧(厳島神社蔵)。鎌倉末期の制作になる青森県八戸市の櫛引八幡宮および奈良市春日大社の赤糸威鎧はいずれも国宝に指定されている。

 

 

 刀剣は、古代において「直刀」であったが、平安中期の「承平天慶の乱」(じょうへいてんぎょうのらん)の頃に反りのある鎬造の「太刀」が現れる。これも騎乗戦のために抜刀しやすくし、切る事と刺すことができる日本刀の特徴が確立した。平暗中期から鎌倉期において刃長は二尺五、六寸(七十五・八から七十八・八センチ)で、馬上から相手に向けて切り込む事や刃先に向かって細くなり、鋒/切先(きっさき)部分は小さく刺突にも十分適した刀剣であった。平安期には伯耆国、山城国、大和に刀工集団が発展し、武士が持つ柄と刀身が一体の「毛抜形太刀」は、刀の衝撃を緩和させる毛抜形の透かしが施されていた。一方、貴族が持ち剣として「飾剣」と言われ刀装に金銀や螺鈿(らでん)などの装飾が成され宝刀として持たれるようになっていた。鎌倉初期において日本刀の需要が高まり、平安期の日本刀が継承され、後鳥羽上皇は自らも焼刃するほど日本刀を好まれ「御番鍛冶」(おんばんかじ)として、月替わりに刀工を招聘し、「菊御作」(きくごさく)と呼ばれる菊家紋を彫った太刀を鍛造させるようになる。

(写真:ウィキペディアより引用 宝刀)

 鎌倉中期になるとより一層需要が多くなり、各地から刀工が鎌倉に集められたりもした。山城、大和、相模、備前、備中などの諸国の鍛冶がそれぞれに地鉄や刃文に特色のある作品をつくった。山城の来派(らいは)、備前の長船派(おさふねは)・福岡一文字、備中の青江派などは多くの著名刀工を輩出している。個別の刀工としては備前長船の光忠、長光、京都の藤四郎吉光(粟田口吉光)、鎌倉の正宗、景光などが著名で、多くの名品を残した。これら刀剣は、日宋貿易での重要な輸出品でもあった。鎌倉期の刃長は二尺五から八寸(七十五・八から八十四・八センチ)とやや長くなる。また、実践重視的な身幅が広く、重ねが厚く切先が猪首風となり質実剛健(飾り気がなく強い刀)へと変化していった。

  
 

 鎌倉後期になると元寇の戦いで、集団戦が行われたことにより、三つの欠点が判明した。一つ目は重ねが厚いため、重量が増し振り回すことが出来ない点。二つ目は焼き幅が広い分硬度は高く裁断力も増すが太刀合わせが数度行うと折れてしまう事。三つめは刃こぼれした場合研ぎ直しができない事であった。しかしその結果、新しい鍛錬法が新藤五国光の弟国広、正宗による「相州伝」という新しい流派が生まれる。硬軟の字鉄を組み合わせ、地肌を板目鍛という鍛え方することで「折れない、曲がらない甲鎧をも断ち切る」、そして軽量であり強度も勝る日本刀へと進化した。正宗の代で地景や金筋と言った意識的に沸(にえ)による美しさを表現した「のたれ文」を創始している。またこの時期に短刀も捜索された。南北朝期に入ると婆娑羅大名などが如何にも剛剣という刃長三尺から五尺(九十一から百五十センチ)の日本刀が出現するが、実用性に乏しく剛腕を示威する目的であったと考えられ、室町期中期以降平安期の刃長さに戻っていった。これらの総合した技術が染織、織物、革、鉄、農具等の改良・開発に貢献することになる。 現在鎌倉文化館、鶴岡ミュージアムで「鶴岡八幡宮の名刀」歴史に宿る武士の進行が開催されており畠山重忠の大鎧は模造であるが、刀剣は鶴岡八幡宮に奉納されたもので室町期の大太刀も展示され参考になる。入場料が千三百円と少し高いが。―完