鎌倉散策 鎌倉期における文化 八、芸能 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 芸能では、平安末期から引き続いて今様や朗詠が愛好された。今様は日本で当時流行した歌謡であり、歌曲の一形式「現代風、現代的」を意味する。遊女や人形芝居を行う芸の集団である、傀儡(傀儡子:くぐつ、でく)などが最も得意とした芸であり、当初は巫女の間でさかんとなり、のちに白拍子が主にその職に就く、そして貴族に愛好されることになった。今様は、平安中期に発生して平安末期から鎌倉期初期に流行した。平安時代末期には後白河法皇が愛好し、後鳥羽上皇と亀菊の話も有名である。後鳥羽上皇は今様に熱中し過ぎて喉を痛めたことが史書の記録に残されている。また、法皇は、今様が後に衰退することを考え、後世に残すため編纂した『梁塵秘抄』の一部が現代に伝わっている。

 

 傀儡子には男性も女性もあり、女性はときに売春に身をおとすこともあった。ただし、建長元年(1249)、駿河国宇都谷郷今宿の傀儡が久遠寿量院の雑掌を相手に訴訟し、幕府の法廷において勝訴していることから、少なくとも中世前期の遊女・傀儡は供御人と呼ばれる中世において、朝廷に属し天皇・皇族などに山海の特産物などの食料や各種手工芸品などを貢納した商人集団や、神人と呼ばれる神主及び下級神職と同じ立場であり、必ずしも後代のように卑賤視の対象ではなかったことが知られ、白拍子も同様であった。しかし、白拍子は、傀儡子や遊女の両者から区別され、水干に袴姿の男装で鼓を伴奏に謡い舞うものである。元来は仏教の声明道における用語であり、大寺院の延年舞などの際に童僧が日常に近い音声の素声(しらごえ)で謡ったものである。権力者との関係も知られ、平清盛と祇王・仏御前、源義経と静御前で義経を思う静の舞は、今でもよく知られている。源頼家と微妙のあいだの悲恋もあった。白拍子は、当初は都で流行し、やがて鎌倉や全国の地方へと広がっていき、今様は、明治期まで伝わった。

 

 今様を受けて鎌倉武士たちによく愛唱されたのが、早歌(宴曲)と呼ばれる長編歌謡である。早歌は、『源氏物語』や『和漢朗詠集』など日本の古典や仏典・漢籍を出典とする歌謡で七五調を基本としたもので、永仁四年(1296)以前に成立した宴曲集』は、歌謡作者明空の編纂による『歌謡集である。この他に古代の歌謡から発達した催馬楽(さいばら)や和漢の名句を吟じる朗詠も流行したが、鎌倉後期に朗詠は、古典的な位置付けが成され、次第に衰退していく。     

 院政期に大流行した滑稽な舞踊である猿楽などの芸能も、元来は農耕神事芸であった田楽は、庶民のみならず貴族の間にもおおいに流行し、延年舞は、法師や稚児などによって演じられる法楽(神仏を楽しませる芸能)であったが、京都宇治・白川など京都の近在では勧進田楽もさかんで、専業者が複数の座を組織して演技を競うこともあり、祇園祭などの御霊絵や大寺院の法会などで演じられた。鎌倉幕府滅亡時の得宗家主・北条高時が猿楽に非常に傾倒したとされる。

 

(写真:京都東本願寺)

 仏教賛歌である和讃も盛んに作られた。浄土真宗系の親鸞著作の『浄土和讃』など「三帖和讃(さんじょうわさん)」や時宗系の:『別願讃』、『浄業和讃』があり、その影響は旧仏教系の『高僧讃』・『神祇讃』などにおよんだ。『浄土和讃』一巻は、宝治二年(1248)頃の著作と言われる。『高僧和讃』一巻は、『浄土和讃』と同じ頃の著作と言われ、『浄土高僧和讃』とも言う。『正像末和讃』(しょうぞうまつわさん)一巻は、正像末法和讃とも言う。正嘉元年(1257)頃の著作とされる。南北朝期に仏教賛歌が「三帖和讃」が、この総称が用いられるようになる。高田では、『皇太子聖徳奉讃』七十五首を加えて「四帖和讃」]と総称することも。三帖和讃は昭和二十八年年(1953)、国宝に指定された。また、親鸞は、晩年まで加筆、再訂する。真跡本は、完全なものは発見されていない。専修寺蔵の「国宝本」に一部が真跡と認められる限りである。「文明本」]など書写本が数多く残る。書写する際に加筆・再訂され、和讃数や順序などが写本により異なる。後に本願寺八世・蓮如によって「正信念仏佗偈」とともに「三帖和讃」(文明本)が開版され、門との朝夕の勤行に用いられるようになる。

唱導は、仏法を説いて衆生を導く語りの芸能で、平治の乱のとき惨殺された信西の子で天台宗の僧澄憲は、その名手として知られた。澄憲の子の聖覚も唱導の名人で、聖覚が奈良安居院に住持したことから、聖覚の家系はとして安居院唱導の本宗の地位をしめ、十三世紀末葉には『普通唱導集』が編まれた。説経は、鎌倉期から室町期にかけて唱導から発生した芸能で、やはり仏教の経文や教義を説いたが、これにもやがて節がつけられて後世説教節が生まれている。

 

 平安期においての「語り」は、鎌倉期以降は節回しをもった声と楽器が一体化したものをも含むようになった。これが「語り物」であり、代表的なものに『平家物語』を琵琶にあわせて語る平曲がある。鎌倉時代後半には平曲が琵琶法師全体にひろまり、城一(じょういち)・城玄(じょうげん)・如一(にょいち)などによって当道座と称する座が組織された。鎌倉期には、交通路の整備と報酬が貨幣経済の流通により、多種多様な旅芸人の各地で活躍がみられる。各寺社仏閣の祈念する行事としての芸能が位置づけられた。建久四年(1193)の富士の巻狩においては、有名な曽我兄弟の仇討が起こる。この経過は大磯の宿「虎」と言う遊女と十郎との悲しい恋と巡り合いを交えた「虎」(虎御前)が十郎亡き後、出家をして諸国を巡礼する中で語り継ぎ、それが盲目女性芸人集団によって語り広められたもので有るとされる。社寺や道々には、猿に芸をさせる猿引、紅白の衣装をつけて舞う曲舞、古い散楽の系統をひく呪師(のろんじ)陰陽氏の流れを引く唱聞師、風流(ふりゅう)など遊芸の人びとが集まった。このように鎌倉期においての芸能、及び文化は庶民の文化参画を促したことが最大の特徴である。 ―続く