鎌倉散策 鎌倉期における文化 五、庭園 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 

(写真:京都宇治 平等院)

 鎌倉期の庭園は、奈良・平安の前代の庭園と同様に、広い池庭に蓬莱島や鶴島、亀島などを配する浄土式庭園を主体として地上に極楽浄土の世界を表現して作られた。初期においては、舟浮式の池泉が取り入れられていたが後期頃から回遊式へと移行する。やがて南北朝・室町期の名園の作庭につながってゆく。

 

(写真:鎌倉 永福寺予想図と現在)

 文治五年(1189)の奥州合戦の際に源頼朝は、中尊寺二階大の大長寿院に模して数万の戦死者の怨霊を慰め、三有(俗界・色界・無色界の総称)の苦しみから救うため、永福寺は建立された寺院である。昭和五十三年(1978)の鎌倉市教育委員会の調査で、本堂、阿弥陀堂、薬師堂の伽藍配置、規模と、そしてそれらの堂の前に後背部の山からの流水により池泉が広がり、池の周囲には石組みの施された浄土庭園であった事が確認された。この建立において作庭を専門とする畿内の石立僧・静玄が招かれたとされる。庭石の運搬作業において幕府御家人の登用が行われた。『吾妻鏡』の記載では、「坂東武者の鏡」と称えられた坂東八平氏の秩父市の一族で武蔵の畠山重忠が剛力をもって巨石を運び頼朝より称賛を受けている。現在は永福寺跡遺跡とし本堂、阿弥陀堂、薬師堂の基礎の再現と池の整備がなされ、面影を顧みることができる。健暦二年(1221)に三代鎌倉幕府将軍・源実朝は、大慈院に永福寺同様の池泉庭園を造っており、金沢実時・顕時により建立された金沢氏の菩提寺である称名寺に顕時の子貞明が池泉浮遊式浄土庭園を造成した。栗石や白砂を入れ海岸の景色を表現し、大きな弧を描いた反橋(反り橋)が特徴で橋により現世と極楽浄土への結界を表現している。

 

(写真:金閣寺と足利義満像 ウィキペディアより引用 )

 当時、京都においては、幕府に追従して保身と我欲の充足に汲々とした奸物と評されることが多い太政大臣(辞職後、関東申次に就任)西園寺公経が洛北の公卿の正三位兵部卿・白河仲資王の所領を得て北山山荘に北山第を立てた。公経は、ここに変化にとんだ大きな池を中心に本堂西園寺と多くの御堂館を造設配置した。嘉六元年(1225)藤原定家の日記である『明月記』でその美しさを褒めたたえ、記している。また、歴史書の『増鏡』にも北山台の記載が残されている。後の室町期の室町幕府三代将軍足利義満は、この地に「北山第」または「北山殿」とし、政務の中心とした。応永四年(1397)頃に金閣寺舎利殿を開山夢窓疎石、開基足利義満として建立された。義満が応永六年(1419)十一月に死去すると翌年北山第は義満の遺言として禅寺とされる。義満の法名「鹿苑院殿」から鹿苑寺(現在の正式名称北山鹿苑禅寺)と名付けられ、室町文化の象徴として取り挙げられる。

 

(写真:鎌倉瑞泉寺仏殿と遍界一覧亭)

 禅と宋文化の融合した禅宗庭園は鎌倉期の庭園を象徴する一つである。基本的には、浄土式庭園を主体と地上に極楽浄土の世界を表現して作られているが、建長寺、円覚寺の方丈庭園などは、京都天竜寺や西芳寺の庭園の基本的な影響を与えている。また、鎌倉末期には、鎌倉の臨済宗の高僧・夢窓疎石により瑞泉寺の石庭が作庭され再興されている。瑞泉寺の境内奥の方丈の裏にそびえる錦屏山の凝灰岩の岩盤を削り、山に上る急坂、階段を上ると山頂に亭を成し「遍界一覧亭」と呼ばれる。晴れた日には富士山も見渡すことができ、その前庭として池が配され、その周りに凝灰岩を削ったやぐらも存在する。現在、亭に登ることはできず、下から窺うが、「遍界一覧亭」から見下ろす庭はと景色は絶景を思わせた。昭和四十四年〈1969〉までは荒廃し池も埋没していた状況であったが、発掘調査が行われ確認・検出された遺構を基に復元された。夢窓疎石初期の作庭で鎌倉時代の鎌倉に唯一残された庭園である。また書院庭園のさきがけを成し、後の室町期での書院庭園として京都の慈照寺(銀閣寺)、西芳寺等に影響を与えた。慈照寺の開山は夢窓疎石であるが、実際に前世紀の高僧で勧請開山である。

  

(写真:鎌倉瑞泉寺 遍界一覧亭)

 京都において室町期の夢窓疎石の作庭とされている「苔寺」と称される西芳寺は文献および庭内の細部の調査により鎌倉時代の可能性が高いことが指摘された。暦応二年(1339)中興開山が夢窓国士である。中世の庭園は、武士の台頭により王朝期の公家文化への憧憬と禅宗の傾倒による要素を持つ作庭と考えられる。

 枯山水が文献上現れるのは、十一世紀ごろに成立した『作庭記』であり、当寺の枯山水は独立した庭園様式ではなく池泉庭園において部分的な築山や、野道に作られた石組み部分を指しているとされる。室町期前期には、池泉庭園において部分的に用いられ、現在の水を用いずに岩や砂などで山水を表現した枯山水の庭園の様式は室町期の後期に完成された。 ―続く

 

(写真:京都龍安寺枯山水と相国寺の庭)